フランス風懐石料理中華風: ◇2009/7/29 我家に残る戦争の爪跡

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◇2009/7/29 我家に残る戦争の爪跡

毎年7月末になると思い出します。

 昭和20年の1月の空襲に加え、その後、昭和20年3月13日、B29大型爆撃機が100機以上飛来した空襲だけでも6月1日・6月7日・6月15日・6月26日・7月10日・7月24日・8月14日とあったそうです。港区でベビー関連の縫製工場を営んでいた祖父と祖母の言いつけで、私の母は3月13日の空襲後すぐに滋賀県の祖父の本家(近江八幡 市辺村)へ疎開。続いて祖父、祖母も避難してきたそうです。当時の家計を支えていた商売道具ともいえるミシンとそして古いアルバムを数冊・・そのおかげで今の私がいて次の世代に伝える事ができました。
1回目の空襲では当時の家の向かい側までが全て全焼。そして6月1日の空襲では私の家も全て焼けて何も残りませんでした。
 戦争が終わって母は、祖父と祖母に連れられて港区の当時の家を見に行ったそうで、焼け野原と瓦礫が積まれている焼け野原に自分の家の冷蔵庫だけがポツリと立っていたのを寂しそうに話してくれました。
  当時港区は大阪から南方に出兵する兵隊さん達のターミナルでもあり、水や食糧を補給する寄港地の役割を果たしておりその労役に従事を強いていた人足として捕虜収容所が存在していました。
  また物資を蓄える倉庫も豊富にあったので攻撃の対象になっていたのでしょう。
その爆撃でくさんの方々が亡くなられその中には当時の私達家族と親交の深かった方々やお世話になった方々が多くおられたことでしょう。

〔我家で保管している写真です。掲載のため画質を低下させていますが、ご希望の方がおられましたら高解像度写真も用意していますのでお申し出ください。〕

《S14年頃 港区石田呉服町 空襲に備えた練習》
※石田呉服町1丁目と思われます。九洲軒という理美容店の看板が読み取れます。この写真の向い側に私の祖父・祖母と母が暮らしていました。私の祖母が写っています。



《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※場所は不明です。戦争の色が日増しに強くなるにつれ服装が変化してきます。



《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※三重県の二見ケ浦 夫婦岩です。







《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※奈良県若草山です。私の祖父が写っています。






《呉一会(石田呉服町1丁目)の旅行》
※香川県栗林公園だと思われます。





《昭和20年石田幼稚園》
※私の母が写っています。真ん中の男性は園長先生でしょうか?軍服姿にゲートルを巻かれています。
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