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2009/11/21

◇2009/11/21 教科書に書かれない幕末史 龍馬・新撰組の登場

NHKドラマつながりで大人気の坂本竜馬と新撰組。

商人才谷屋が手に入れた郷士株。次男坊の龍馬は坂本家で養子として生きる道を選らんだが、関ヶ原以降の上士と下士の身分制度の不条理と、元々の自由闊達な器量と努力でわずか19歳で剣術の目録を手に入れ、江戸へ修行に行くことが運命を分ける。

江戸で龍馬の見たものは黒船。品川警備の役務についた龍馬もはじめは単純な攘夷思想であった。
ところが佐久間象山と出会い、西洋兵学を学んだことから、その考えは異国の実力をよく知り、その上で攘夷をおこなう思想へと変わってゆく。もちろん同じ時期に、吉田松陰先生とも同塾であっているそう。

その頃、土佐では武市半平太が提唱する「一藩勤皇」と、関ヶ原の功労者の山内一豊の流をくむ幕府擁護の吉田東洋の水面下の戦いが繰り広げられている。
土佐勤皇党として国事周旋で勅状をとりつけ上洛をもくろむ武市は、萩に住む久坂への手紙を龍馬に託す。萩への8日間の滞在で久坂から武市への返事はあまりにもショッキング。
<まさに、今の世の中は武士も公家も頼りにはならない。大事の前の小事なのだから、藩なんてつぶれてしまったとしてもかまわないではないか。>
この手紙を武市へ届けた後、龍馬は脱藩してしまう。
この頃、京都では薩摩藩の挙兵の噂がながれ、全国から攘夷思想かぶれがぞくぞくと京都入り。土佐では武市が放った刺客で吉田東洋が暗殺される事件が起こる。悲しいことに京都挙兵は、島津自らが同士討ちを行い、寺田屋で殺戮事件が発生。この事件で過激な攘夷派の怒りは頂点に。
薩摩藩は幕府寄り公家の九条関白の片腕である島田左近の暗殺を、過激攘夷思想の連中へ手土産として人斬り「田中新兵衛」を背後であやつり、土佐藩は「岡田以蔵」をあやつり京都ではテロリズムが横行。
島田の部下を殺戮しパフォーマンス化してゆく。
そしてついに、幕府への当てつけか、足利三代木造の首を三条川原に晒し首を行った。その木造の首を眺めながら京都入りした240人あまりの浪人。これが浪士組。

壬生に本拠地を構えたもの、清河の浪士組結成の狙いは、上洛した将軍の警備ではなく
天皇の護親兵とのこと。この沙汰に納得できない集団13人あまりが新撰組として、京都守護の役目を担っていた会津藩の末端に組み入れられることに。

さて一方の坂本龍馬は、江戸入りし勝海舟へ弟子入り。ご存知、勝は黒船来航の際、各普請大名だけにとらわれず広く意見を求められた際に出した意見書が目に留まり、長崎でオランダに関する勉強を3年間させてもらっている。
将軍家茂が言い出した摂海海防の視察にちゃっかり同乗し、数百人程度の神戸の村に海軍兵学校を建設することをトップダウンで認めてもらったことでその責任者に。そして勝の私塾では、もちろん龍馬も塾頭として活躍したそう。
勝の狙いは、アジアを侵略するヨーロッパ、アメリカに対抗するためには日本、韓国、中国で連合艦隊をつくりその本拠地を神戸とすることであったそう。

残念ながら中岡と坂本は近江屋にて惨殺されたが、亡くなる1ヶ月前の手紙で龍馬は望月清平へ自分の苦しい心中を吐露しているそう。
京都に龍馬が入ったことは様々な刺客に漏れているものの、脱藩した身の上であるために土佐藩邸にもまた、薩摩藩邸も頼ることができない。自分が死んだら遺体は土佐藩邸へ渡してほしいと書かれている。

大胆不敵な印象がある龍馬は実は虚像だったのかもしれません。