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2010/10/03

2010 10/3 ~第47回四天王寺秋季大学~ 2日目



第47回四天王寺秋季大学の2日目です。朝方はなんとか大丈夫でしたが開始時間に近づくにつれて


雨脚が激しくなり、終了間近になる頃には激しい雨となりました。





■第1講目 【現代思想としての仏教】末木 文美士 (国際日本文化研究センター教授 東京大学名誉教授)


福岡市博物館(金印のある博物館)のお話から始まった第1講目。国際日本文化研究センターでは現代の妖怪ブームのその前に妖怪データーベースを作成した。 http://www.nichibun.ac.jp/welcome.htm
1965年以降の現代ではキツネも人を化かす事が無くなり高度成長経済へまっしぐら。その中でもたんなる迷信とは言いきれない事象も数多くのこっている。

認知症の方々が体験する様々な出来事は、その内容を一方的に誤っているとは言いきれないのではないか?
夢で見る世界こそが現実なのでかもしれません。キリスト教的な世界観では科学が解明した範囲が現実であり特に「人の死」は誰もが体験する事ができない事象、つい蓋をしてしまう傾向にある。
この流れを受けてお葬式が簡略化される傾向にある。簡略化されるのはもはやとめる事ができないのかもしれないが亡くなった方との関係や死者との関わりあい方が重要となる。

様々なキーワードを通じて<顕>の世界と<冥>の世界をお話くださいました。
どうしても概念的で哲学的な内容はわかりにくいのですが興味ある事例を随所に用いてくださりわかりやすくお話をくださいました。



■第2講目 【四天王寺の亀井水と日想感】水野 正好(奈良大学名誉教授 大阪府文化財研究センター理事長)

非常に興味あるお話でメモを取るまもなく矢継ぎ早にお話される水野先生のお言葉を追うのに大変でした。
仏教の興りと飛鳥寺~大化の改新~飛鳥からこの難波宮に遷都した背景をお話されたのにいよいよ核心に迫ってゆきます。万葉文化館の建設に伴う裏話しは本当に驚きました。

第35代天皇 皇極天皇(642年-645年)・第37代天皇 斉明天皇(655年-661年)にまつわるお話で飛鳥宮の東の山上には巨大な建造物である離宮があったそう。その建築資材はおびただしい良質の石が使われていてこの石は奈良県の天理より運ばれたらしい。その為には運河を建設していたとのこと。この発掘調査で突如現れた不思議な形の石。この正体は??
なんと四天王寺の亀井にある。

斉明天皇の政治方針は協調政治。蝦夷(東北や北海道)や海外からの客をもてなす事をおこなった天皇は、当時はもちろん滅多に会う事の出来ない位の高い方。その方がこの外交施設としての離宮で客と会うわけだから、会うほうも失礼があってはならない。
一方、四天王寺の亀井水は様々な歌人が歌に詠んでいるくらいの古い昔からあったらしい。
その流れる清らかな水を白玉に喩え、手を編むようにして口をすすぎ手を洗う。今回出土した石は二段構造で亀の形状をしていることからどうやら同じことをしていたのではないか?ということ。

さて、日想感の話しではこの夕陽丘の名前にも残るとおり西にしずむ太陽に極楽浄土を見てたくさんの方々が集まっていたという話し程度の下知識の私。その歴史は奈良の元興寺にいる智蔵に師事していた頼光の突然死からはじまる。
無くなった頼光がその学友であった智光の夢の中にでてきて、極楽浄土は西方のかなたにありそこでの姿を伝えたそう。智光はその様子を絵師にかかせたものが智光曼荼羅とよばれており元興寺に残っている。(この絵には智光・頼光の姿も書かれている)

さてこの極楽浄土の考え方は急速に広がり素晴らしい立地にある當麻寺では東に仁王門があり西門はなく極楽院、奥院の裏にそびえる二上山の果てに太陽が沈んで行く様を多くの人々に説いたそう。さて四天王寺の有名な西門の石の鳥居には<釈迦如来 転法輪処 極楽浄土 東門中心>とかかれています。すなわちこの西門は極楽浄土の東門にあたることから鳥居より西は極楽に続くという意味ですぐ近くにまで迫っている海岸線の水平線のかなたに沈む太陽に極楽を重ねてみせていたのでしょう。
上には上がいるもので、四天王寺の真東にあるお寺はどこでしょう?



東大阪にある往生院で、この往生院では、安助上人が説いたとおり、四天王寺の真ん中にある五重塔の先端に太陽が沈むということでおなじく日想感が盛んであったとのことです。
当時の人々の極楽浄土に対する憧れは大変なもので有名なものに<西念>が上げられます。彼は多数の寺へ寄進をおこない四天王寺の西門から入水するが失敗(1146年)いろは歌などを紙辺に残した穴の中で亡くなったとのこと。

※私の好きな落語の世界では西念さんは「藁人形」「黄金餅」が有名でなんとなくダークなイメージがあります。