yahoo2

2011/05/14

2011 5/14 教科書に書かれない幕末史 ~日本の形

前回の講義の後、造幣局通り抜けから親睦会があったが、私が数日前、階段から落ちて腱板損傷。医者から安静の言いつけがあったので涙を呑んで参加を断念・・。一坂先生を初めカルチャーの顔なじみの方々から「大丈夫なん?」「お大事に」と優しいお言葉を頂戴しました。本当にありがたいことです。

さて、前回の講座の内容にありましたが、日本の首都はいまだに書類上では京都が首都であり東京を首都とする勅は発せられていない。ドタバタの新政府は外圧からどう日本を守り、どう国を発展させるのかにやっきになっている。すなわち、幕府が無くなった今、中央集権体制を確立することが大命題!その具体的な方法が版籍奉還と廃藩置県。

明治元年閏4/1 府藩県三治の制が発せられる。ちなみに府は集まるという意。
府は城代・京都所司代・奉行の支配地、藩は、大名の所在地、府は城代、所司代、奉行の支配下にあるところで、分権エリア。県は郡代、大寒の支配下にあるエリア。県(あがた)の意味で領主のいるところ。
府に知府事、県に知県事を置いた。

この考え方でまず2府6県でスタートした。
わずか1ヵ月後は3府4県、そして数ヵ月後には2府6県ところころと体制が変わる朝令暮改な迷走ぶり。
その名称も 知府事→府知事であり知県事→県知事となる。(知は司るの意味)
ちなみに大阪の知府事は、醍醐忠順(だいごただゆき)で公家出身、2代目はあの土佐藩の後藤象二郎。後藤氏曰く、自分は土佐藩ではなく朝臣だと発言している。

藩を早く無くすことが中央集権国家を作ることにつながるとの思いで活躍するのが木戸孝允。
長崎から京都へ戻る途中に毛利敬親へ版籍奉還を進言する。この進言の理論がなかなユニークだったらしく、毛利が武家政治を推進したのだからその責任を取らねばならないということ。これは実は平安時代に遡り、毛利の祖先が一品親王に由来することにある。元々は神奈川の厚木にある毛利に由来する。

7/23京都で再度木戸孝允と毛利敬親が会談し版籍奉還の内諾を得る。ただし薩摩もちゃんとOKをとりなさいという条件付。
そこで8月には大久保利通へ根回し・・その上、土佐、佐賀の各藩へも通知され9月には土佐、佐賀、長州、薩摩は版籍奉還実施の許可を得ることに成功する。
実は各知事たちは大きな勘違いをしていた。藩主から県知事へとスライドしたがこれはもちろん世襲制であり自分たちの地位は安定だと考えていたから。実はこれは大きなまちがいで、木戸孝允はこの世襲制は猛反対!コレに対し、大久保は県知事である藩主入れ替えはNO!そしてついに、決定した・・それは、初代県知事のみOKで2代目からは入れ替えることとなった。これにより藩の権力は大幅に減少する事となる。

すなわち府藩県三治の制の本来の狙いは、1本づつ柱をはずしてゆくように藩をつぶしてゆくことにあった。

ちなみに薩摩は明治2年8月には門閥を打破。家格を廃止し全員を士族とする。(200石以下は加増し均一化)そして各隊長が民政をかねる士族王国の設立を目指していた。また長州は戊辰戦争から凱旋してきた兵隊の組織を解体し、およそ3000人の大リストラを決行、脱退騒動が起こってしまう。

この時点の中央政府は権力はあっても、まったく武力は持っていないことから明治3年閏1/15に岩倉具視が勅使となり薩摩と長州の実力者を迎えにいくことに。島津、毛利、そして西郷も政府に取り込んだ。明治4年1月には山口に行き、木戸と合流し毛利を誘ったが失敗。このすぐあとの3/28には敬親は病死してしまう。その後、土佐で板垣と合流し2/3には東京に全員集合!豪華メンバーが一同に参集した。
2/13には薩摩、長州、土佐より新兵を集め6/中には1万人近くの新政府初の軍隊が組織された。
6/25には西郷に参議になるように説得し、その上で木戸は廃藩置県を進めるが西郷は大反対。士族王国を目指すには廃藩置県は不要と考えたからなのか。そこで木戸は兵部省のTOPの山県有朋経由で西郷を説得、すると彼はOK.なぜ西郷は簡単にOKしたのか・・・。
明治4年7/14廃藩置県がいきなり実施。その勅はわずか200文字の簡単な内容。当然、全国から不満が噴出すが、西郷さんがこれを次の言葉で簡単に抑えてしまった。
「反対する藩があれば私が鎮圧する!」実際はいずれの藩も戊辰戦争で経済が疲弊、その上、この明治2年は大凶作だったのが幸いした模様。

明治4年に岩倉使節団がアメリカへ行き、同行していた伊藤博文はかくのごとく演説した。
「1発の銃弾も1滴の血も流すことなく政府が樹立した!」彼の認識はその程度だったのでしょうか。

いろんな事件を繰り広げながら日本に県が形成されている明治前半の時代でした。

※参考書籍 宮武骸骨 府藩県制史 S16発刊

この文章は一坂先生のお話をもとにして私が加筆していますのでご注意ください。