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2011/08/20

2011 8/20 教科書に書かれなかった幕末史 岩倉使節団 

自国の歴史を学ぶことにはどんな意味があるのか?どうも現在においてはその情熱は非常に生ぬるくなっているように思う。この明治黎明期の岩倉使節団を見習うべき。

さて、廃藩置県が行われた4ヵ月後、岩倉使節団は明治4年(1871年11月12日)に横浜よりアメリカ号にて出発。19発の祝砲+15発の礼砲が横浜の町を大音響で揺らした。この様々な内容は公式記録である久米邦武著の【米欧回覧実記】による。
人数は46人の役人+18人の随行者に加え、5人の女子を含む留学者で総勢107名の大所帯。

そのメンバーは、特命全権大使の岩倉具視 (47才)・副使の木戸孝允参議 (39才)
・副使の大久保利通大蔵卿(42才)・副使の伊藤博文工部大輔(31才)・副使の山口尚芳(ますか)外務少輔(33才)がTOP5!他に著名な方といえば【津田梅子】【田中光顕】【中江兆民】等。特筆すべきは海外渡航経験者は伊藤博文を含む6人。また、書記官10人の内、7人が幕臣出身。すべて洋学の担当者だったそう。 また46人の平均年齢はなんと32才。時代を担う若
者達への期待のあらわれなのでしょう。

使節団の中に内海忠勝氏が居られます。この方は長州出身の吉敷毛利家に仕えていた方で本家から見ると陪臣。
あのパークスと揉めたくらいの根性の座った方。長崎県令・三重県令・長野県知事・兵庫知事・大阪知事・京都の知事の後に神奈川知事をされた方。

さて、一向が目指したのはアメリカ・サンフランシスコ。けしてその道中は楽なものではなく色んな事件がおこったらしい。
渡航経験の無い者達の不安を嘲る渡航経験者との軋轢に加え、長野桂次郎(幕臣出身)にからかわれた女子が大久保へ訴えかけ伊藤を筆頭に模擬裁判が行われるなどがあったらしい。

さて、使節団の目的は下記のとおり。
1.修好通商条約改正の期限があと1年と迫ったが改正するための期限延長を願う。
2.新政府としての正式な挨拶と国書を渡す。
3.近代国家化するための調査

明治5年1月15日、アメリカ・サンフランススコ到着は街を上げての大歓迎に一同は猛烈に感激!
木戸孝允は、「もし日本に文化の遅れた国が来たら、日本人は同じように大歓迎できるのだろうか?」「やはり教育が必要だ!」と再認識したらしい。
伊藤博文は有名な「日の丸演説」をおこなった。

「我国の旗の赤丸は、もはや帝国を封ずる封蝋のように見えることなく、今、まさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります」

それまで日の丸は、「遅れた人種が入っている白い封筒の口に赤いシールを貼っている」と馬鹿にされていたらしいが見事に伊藤の演説は大喝采を浴びた。

で・・この大歓迎ムードが大きな誤りを生むこととなる。。。

「こんなに大歓迎されるのであれば、条約改正の件は我々でなんとかなるんじゃないか?」と甘く考えてしまう。そこで申し出たところ条約改正の委任状を持ってきていない事が当然問題になる。
それなら・・と大久保と伊藤は2ヶ月の予定で大急ぎで帰国し委任状を貰うことにした。日本についた2人が会ったのは外務卿の副島 種臣。なんとか委任状を貰いアメリカに戻った頃には4ヶ月が経過。

ようやく話し合いになったが、関税自主権の確率や治外法権の撤廃は当然アメリカはNO!
また居留地内のみで商売が出来ないという条約を変更し、雑居を認めて欲しいとの事。
結局条約改正は失敗におわりとんぼ返りした4ヶ月は無駄となった。


余談として、条約改正は万国公法による必要があるとの事。
この万国公法で思い出されるのが、坂本龍馬の「いろは丸事件」。紀州藩を争った際にこの万国公法を楯として海上運航のルールを基に賠償金をふんだくった件。
この万国公法には海難に関することが一切書かれていないらしい。それじゃ「いろは丸」の際にホントに龍馬は万国公法をもちだしたのか?


明治5年8月16日 イギリス リバプール到着。
ウィンザー城においてビクトリア女王へ国書を渡している。
この際に女王より「先日は私の息子を親切にしてくださってありがとう」のお礼を言われている。
これは明治2年7月21日に第二王子が来日した事に由来しているが、この時、天皇に会う王子に対しお祓いの儀式をしてから会わせたというから実は失礼千万。。

イギリスの感想は「英国人は早足」だそう。
またこんな比喩も作られたらしい。
6時間仕事をさせた場合・・・
アメリカ人は4時間で済ませ残り2時間はブラブラする。
フランス人は4時間で済ませ残り2時間はワインを飲む。
イギリス人は5時間で済ませ残り1時間は他の仕事をする。
ドイツ人は6時間で終わらず残業する。

明治5年12月16日 フランス パリ到着。
この時はフランスの労働階級者政府のコミューンが崩壊して1年半。有名な凱旋門等は修理中。
ルイ大統領と会い、コミューンの感想を聞かれた際に、コミューン側を暴徒としてみた発言をする。

明治6年3月30日 ロシア サンクトペテルクブルグ到着しアレクサンドル2世と会う。
江戸時代は非常にロシアを脅威と感じた印象での会談だったが実際は怖くないという印象だったらしい。

明治5年6月3日 オーストリア訪問し明治以前の日本国を見るようだという感想・・。すでに小国を見下した感想にびっくり。


明治6年3月9日 ドイツ訪問。ビスマルクの演説。これは弱肉強食の国際社会をあらわした本音の演説であった。

・世界のあらゆる国家がお互いを礼節をもって交わっているというが、これは虚構である。現実には強国の政府が弱小国を圧迫している。
・万国公法は諸国家間の秩序維持を目的としているが、強国が他国と紛争を生じたならば、強国は自国の目的に適合するかぎりで、それにしたがって行為するのであり、さもない場合には自らの力を用いるであろう。弱小国は常に不利な立場に立たされているのである。
・イギリスやフランスは自国の植民地帝国を拡大しつつあるので、これらの諸国が礼節正しく立ち現われようとも、信用することはできない。

この時のドイツは2年前にフランスを侵略し、大国の仲間入りをした直後であった。しかもドイツは農業国であり男尊女卑の風潮が残る日本とよく似た国であることから非常に親近感を覚えたそう。


ここで、日本から木戸、大久保の両名に帰国命令が下るがなぜか2人は別々に帰国する。
これはこの時点で2人は犬猿の仲で喧嘩中だったから。

これらの国以外ではスイス・ベルギーオランダ等を見て回り、いかに小国が生き残るか?を探ったそう。
すなわち、それは自由の権利を守り、自国の権利を守り、他国の権利を侵さないことに尽きるとともに愛国心を育てる教育が大切であることを学んだ。

伊藤らは【脱亜入欧】を目標に掲げた。

この使節団のタイミングでイギリスには秘密留学したは長州藩の竹田傭次郎・山崎小三郎と南貞助の3人がいた。
しかし悲惨な生活環境で山崎は栄養失調で亡くなる。南貞助(助、輔)長州藩士で高杉晋作の親戚。母親が、高杉小忠太の妹のマサ。南はアメリカに岩倉使節団が来ていることを知り会いに行く。
使節団へは、ナショナルバンクの重役に選ばれたという触れ込みで近づいた。日本人が重役だということで「南は日本の誉れである」と称え、木戸や大久保は多額の資金を南へ預けることにした。※伊藤は散財するので預けなかった。
そして一行がイギリスへ行った際にお金を引き出そうとすると銀行は倒産。。。いきなり痛い目にあったのであった。

この事実が判明し落首がはやった。~条約は結びそこない金とられ世間に対し何と岩倉~

その後、南はいったん帰国し、再度留学。再び帰国した際にはライザという奥様連れ。国際家結婚第一号となった。(その10年後には離婚・・ライザは日本で亡くなっている)