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2012/10/20

2012 10/20 歴史と人間 ~吉田松陰

今日の一坂太郎先生の講義の内容は【吉田松陰先生】について。
私が幕末史に興味をもったきっかけが吉田松陰先生であり、また一坂先生の第一回目の講義(2009/4)が吉田松陰先生についてでした。

実は今日の講義に間に合わせるために1週間前に手術し昨日を抜糸としたくらい楽しみにしていました。

吉田松陰先生は下級武士ではなく無給武士の生まれであり無給武士とは領地の無い武士の意味。天保元年(1830年)萩の松本村で生まれる。20石わずかで半士半農の暮らしであった。

当時の武士の構造は、一門家老→寄組→大組(八組・馬廻組)→無給通→足軽・中間。
大組までが政治に参加でき、高杉晋作さんや久坂玄随さんらもこれにあたる。足軽・中間は荷物運びや門番などの雑役をこなし、伊藤博文さんや吉田としまろ、山県有朋さんら。この構造らは全体のわずか6%程度。

父の杉 百合之助には二人の弟がいて大助(吉田家を継ぐ)・文之進(玉木家を継ぐ)であったが
5歳の時に、大助が亡くなったことから吉田家を継ぐことになる。大助・文之進は大組に属していた・・すなわt下級武士にとって学問ができるということは出世の為であった。

6歳で吉田家の家督を相続し当主となる。この吉田家は山鹿流兵学の師範の家であった。
※初代の明倫館が創設された1719年には学者を大組へと格上げされており、これに伴い吉田家も大組であった。(本来生まれた杉家よりも格が上)。

山鹿流は、山鹿素行によって著された兵学で、、武士の立場から人はどうあるべきか?生き方や国のささえ方を学ぶ哲学思想。当時は山本勘助流ともいわれていた。

吉田家は57石取りで藤原氏とのつながりがあり松野平介のひ孫が吉田家の始祖。8代目が松陰となる。また松野平介の先祖は一條天皇の藤原行成と伝えられているため松陰は時折藤寅、藤原と名乗ったりしている。

松陰は玉木文之進のスパルタ的教育で教養を身につけてゆく。学問は自分のために行っているのではなく、藩のために行っているという趣旨。

9才~教授見習いとなって出仕。(学生ではなく教える立場である)友達や幼馴染がいないいびつな人間形成であった。

10才~家学(山鹿流)を教授する。

11才~毛利慶親(よしちか)(後に敬親(たかちかに改名させられる))がお国入り(23才)。江戸生まれの江戸育ちの藩主が初めてお国入り。藩主の前で武教全書を講義。これは玉木がシナリオを作成。いまでも残っているらしい。

19才~後見人が解かれ一本立。独立した師範となる。
松陰の後見人の内の、山田宇右衛門より【坤輿図識】(こんようずしき)をもらう。これが松陰に多大な影響を与えたと考えられている。坤輿図識は世界各国地域の情勢を記しており、「世界は独立国と植民地でできている」と記されている。

20才~北浦の沿岸防備を巡視、北浦は萩から下関に至る日本海側の海岸線。
このタイミングで明倫館が移転して拡大。15000坪。小学校から大学院までの一貫教育。
水練の池があり、馬で水中を駆けたり、刀や甲冑をつけて泳いだりした。この池のモデルは会津藩の日新館(会津は山鹿素行の出身地)
また10/10には羽賀台(萩市内)で大規模な軍事演習をおこなっている。

21才~九州・長崎・平戸へ50日滞在。アヘン戦争の情報を熱心に学ぶ。
この年の年末ぎりぎりに萩へ帰国。

22才~3月に江戸行き。熊本の宮部鼎蔵と知り合う。
江戸の学者の国防に関する考え方に失望。
東北視察の旅に出ることにする。

10/15に江戸出発の予定が手形が出ないためにそのまま出発。友達との約束を優先し脱藩者となる。

23才~12/9脱藩亡命の罪により、士籍剥奪し父の育みとなるが10年間の遊歴を許可(浪人)
24才~1/26出発し近畿を経て江戸入り。
6/4に黒船を目撃。詳しくその装備をチェックしている。

佐久間象山の【和魂洋才】思想に影響を受け、日本も技術や知識が必要であると認知、長崎にやってくるプチャーチンに会いに行くが遅かった。

25才~ 3/3 和親条約締結

三月二十七夜の記を引用!(日本の名著シリーズ)

10年ほど前に投夷書がアメリカより発見されている。(嘉永7年安政元年3/11)

26才~出獄し蟄居

27才~松下村塾

29才~日米修好通商条約~時勢論を記載、怒りを表現している。

30才~惨殺。

次回は梅田雲浜さんの予定!


吉田松陰先生は自分が正しいと信じた事ならばわき目をふらず真っ直ぐに進んで行かれる。、まるで矢の如く。そんな松陰先生が大好きです^^
安政3年の【志】

天地大徳君父至恩
報徳以心復恩以身
此日難再此生難復
此事不終此身不息   藤寅

留魂録をあらためて読み直そうとおもいます。