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2013/02/16

20130216  歴史と人間 ~幕末編~ 和宮

今日の朝日カルチャー 一坂太郎先生の講座は「和宮」。

父は仁孝天皇、母は橋本実久の娘の経子(つねこ).

1846年閏5/10(弘化3年)生れ。生まれる4か月前の1月には父の仁孝天皇は崩御され、すでに孝明天皇が即位されていました。
2/13に践祚(天皇の位についたこと)9/23に即位。
15人のお子様が居ましたが成人されたのは孝明天皇様・ともこ様・和宮様の3人。

生まれた年は大変な年で5/27には米ビットルが浦賀にきて開国を求めている。これを受けて朝廷は幕府に対して海防強化確認している。これがすなわち朝廷の政治へのさらなる関与となってゆく。

また、丙午・・・これは井原西鶴の八百屋お七が丙午の女性。

さて、桜田門外の変が起こり、当然報復の機運が彦根藩に高まる。これを押さえ込んだのが老中の安藤信正。藩主が突然亡くなったのだから、通例だと藩はお取り潰しだが、実際は数か月生存していた事を条件に断絶を救った。この安藤信正が将軍家茂の夫人に和宮をと考え出したらしい。
これは2ルートある。井伊直助と九条尚忠を取り持った長野主膳ルート。そしてもう一つは左大臣の近衛忠煕(ただひろ)と小浜藩の酒井忠義を取り持った加納繁三郎。

4/1に安藤信正は老中の連署の奉書を酒井⇒九条⇒天皇へ。
この理由としては、日本は一枚岩であり降嫁は日本の為であると説く。

孝明天皇は5/4にNG!⇒九条⇒酒井⇒幕府へ。

その理由は・・
和宮はすでに有栖川宮熾仁(たるひと)さんと婚約していること。腹違いの妹だから意思を強制できないこと。彼女は外国人が大嫌いであること。しかしNGといったが幕府には隔心があるわけれはないことを付記。

5/26には2回目の申し入れを行った。そのポイントは・・・

国内の人心を一致させること。
国内の防御を厳重にすること。
攘夷を実行するために必要なこと。

困った孝明天皇は岩倉具視に相談。しかし岩倉はすでに酒井に通じていたので積極的に勧めた。
そのポイントは・・

すでに幕府に政治は無理。
朝廷の権威を復活させる。
内政の参加し政治の実権を持つ。

ついに、条約の破棄を条件に和宮降嫁を許可。しかし、外国人を追い払わないと和宮は絶対に江戸へは行かないと告げる。


7/4 武備充実してから外国人を追い払います⇒具体性がないからNG!
7/29 鎖国を再び実施します。⇒貿易は一時的であり武備が充実したら鎖国を行います。それは7~8年から10年以内にします!

これでOKをもらった。

和宮さんからも条件が。

1.先帝の17回忌が済んでからにすること。
2.万事御所の風儀で行うこと。
3.御所の女官1名+下級女官3名を付ける事
4.用があるときは橋本家より来てもらうこと。
5.上臈(じょうろう)・年寄を京へ向かわせること。

すべてOKとした幕府はいきなり1を無視して年内に江戸に来てほしいと回答。

折り合いをつけて1861年(文久)の春に決定。10/18に勅許。12/25には納采に礼(結納)
ところが11/28にはプロシア・スイス・ベルギーの3国と新たに条約を締結したことを事後に知った天皇は当然激怒!!

どのように取り持ったのかは不明だが12/9にはすべては九条に任せる旨の通知があった。
翌年7/2には同年の9~10月に関東下東が決定。とうぜん、あと半年で先帝17回忌なので
待ってほしい旨の申し入れがあったが聞き入れられず。
10/3八坂神社で門出の儀式。
そして10/20には京都を出発した。(和宮⇒親子様となる)

江戸へは中山道を利用。その規模は・・2万人が25日をかけて移動。
800丁の籠+6畳2間+おトイレで家屋は京都風。

11/15に江戸に到着。
翌文久2年2/11に婚儀が行われた。そして有名な篤姫との面会。
もちろんこれを知った孝明天皇は幕府に抗議をしたが駄目だった。

和宮様、家茂様のお二人はお仲良しであったが2年の7/20には家茂さまが亡くなる。また12/25には孝明天皇も崩御される。そして慶喜さんになった新体制で3年の5月には兵庫の港が開港。。これで完全に降嫁の意味を失ってしまったことになる。

明治10年9/2に療養中の箱根で32歳で亡くなられた。

遺言通り増上寺の家茂のお墓の隣に葬られた。