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2013/05/18

2013 5/18 朝日カルチャー 歴史と人間 ~ 島津久光

今日の一坂先生の講義のテーマは島津久光。
いままでよく名前は出るもののザックリしたイメージしか無かった久光さんの色んな事がわかりました。

生まれは文化14年10/24(1817年12月2日)。
島津家27代当主で薩摩藩10代藩主の島津斉興(なりおき)と側室のお由羅の間に生まれました。 11代藩主の島津斉彬は兄にあたり幼名は普之進(かねのしん)

小説にもなったお由羅騒動(お家騒動)は、なんとか久光を藩主にしたいというドタバタ劇。当の本人は知らなかったらしい。
元々は島津斉興が藩主の座をなかなか譲らなかったために起こる。

これは薩摩藩の経営難にもよるもので、全体の30%を占める武士人口の多さや桜島の噴火による凶作、そして幕府から嫌がらせにように押し付けられた木曽川の治水工事が起因している。
このために83万両の負債・・当時の藩の収入は14万両。。


島津家25代当主で薩摩藩8代藩主の島津重豪(しげひで)は非常な西洋かぶれで蘭癖大名といわれ 大変な借財をつくってしまい89才で大往生。
この借財を引き継いだ 島津家26代当主で薩摩藩9代藩主の斉宣は15歳で家督を継ぎ財政改革に着手。
そして10代藩主となった島津斉興(なりおき)は、腹心の調所広郷(ずしょ ひろさと)とともに、 当時の薩摩藩は500万両にもおよぶ借財で危機的状況であったが強引な手腕で再建!借金は250年ローンに無理やりさせたり 琉球を通じた清国との密貿易で反対に蓄えをつくる程となった。



お由羅と調所は仲良し・・なぜか斉彬の子供はみな早死にをしてしまい家内を調べてみると修験者の牧仲太郎の呪いの文字が書かれた札が見つかったらしい。
また、幕府より密貿易が暴かれ調所は切腹。斉彬はいっさい歓喜無いということで藩は無罪放免となった。

43才の斉彬、ようやく念願の藩主となった。さっそく国防、軍備を拡張!幕府の阿部正弘に働きかけ大船建造を申し入れOKを取る。
そして50歳で病死・・枕元に弟の久光を呼び話したそう。
 
 長男の忠義を藩主とし、斉彬の娘と結婚させてほしい。。

そして忠義(茂久⇒将軍の家茂から字をもらう(偏諱:へんき:かたいみな))の時代。。
斉彬のおこなってきたことを否定。。。


さて本題の久光さん。
文久2年3月
前回の講座であったように毛利家は中央へ乗り込み周旋活動を活発化。
10月には慶喜さん、春嶽さんの復権を幕府へ打診するもあっさりとNG。
12月には近衛家に進言。

天皇より詩をいただき感激!

そこで1000人の兵を引き連れて京都へ進軍
 
これって当時のルールは完全無視の暴挙!ところがこれを幕府は止められない。
4/16 近衛家と会い、建白書を出す。天皇曰く『浪士鎮撫をせよ』の言葉!
 このことを精忠組ら過激攘夷派が勘違い。。
4/23 寺田屋事変が起こる。このことを天皇はたいそう喜ばれたそう。
5/22 大原重徳(しげとみ)を勅使として立てることに成功し江戸行きへ。
  
   江戸にいた毛利はこっそりと中山道を使って鉢合わせをしないように
   帰国。途中中津川で大会議をおこなったらしい。

6/10 家茂と会い慶喜さん、春嶽さんの復権が実現。
結局外様でも天皇の意を使えば将軍は逆らえないということを実感。

そこで久光さんは。慶喜さん、春嶽さんに自分に官位を出すように働きかけたが
8/18にはNGの連絡。。ショックだった久光さん。
当時の階級を飛び越えた無理やりのルール無視はダメ!

ショボンとして帰国する久光さんらはあの生麦村で事件が起こってしいこれが引き金となり
薩英戦争と発展してゆく。