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大和川は人口の川

この 国土地理院 発行「1:25,000デジタル標高地形図」は、航空レーザ測量によって整備した「数値地図5mメッシュ(標高)」の標高データを用いて作成した陰影段彩図(注1)の上に2万5千分の1地形図を重ねた地図です。(注1:陰影段彩図とは、標高の高い部分を茶色の暖色系に、標高の低い部分を青色の寒色系で彩色したものに陰影を付けたものです。)  

これをみると大阪城は上町台地の一番端っこに建設されたことがよくわかります。上町台地より東側への下りはなだらかなのに対し、西側へはストンと落ちるような感じがあります。また台地の西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が多くみられます。
台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートル、大阪城大手町付近で24メートル、中央部の天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルあります。さらに住吉大社付近で6メートル・住吉区清水丘では標高は2~3メートルです
(※上画像は国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(D・1-No.461)を使用)

■古代の大阪

古代の大阪は今とはまったく違った地形をしており、内側に海がありました。この海に向かい淀川や大和川が土砂堆積物を上流から流し込むことで湾が湖となり次第に湿地帯へと変化をしていきました。











中世の大阪

中世の大阪は河内湖の名残で湿地帯や池が多く多量の雨が降ると生駒金剛山系の水を集めた大和川が氾濫を起こしそのたびに洪水がおこりました。
江戸初期の農民で現在の東大阪市今米の中 甚兵衛氏はこの大和川の付け替えに功績を残した方です。1704年に念願の大和川の付け替えが終わりようやく今のような東から西へ流れる大和川が完成しました。




中 甚兵衛(寛永16年(1639年)-享保15年(1730年)

今米村の農民(庄屋)小さい頃より荒れ狂う大和川の氾濫を目の当たりにしたことから50年の長い歳月をかけて嘆願。南から北へ流れる大和川を現在の流れにした人物。完成は1704年(元禄17年)。
 わたしの歴史好きのきっかけのひとつとなった出来事に「大和川は人口の川を知った」という事実があります。
 もう数年前になりますが、自分で色々と現地を見たり資料を集めたりしたいというもともとの凝り性のために東大阪・柏原や八尾の色々な足跡を機会有るごとに巡りだしました。
 中 甚兵衛さんのご子孫の方が執筆された書籍を拝読し、ますますその熱が高まり 上手い具合に柏原市へ定期的に出かけるお仕事がはいったおかげで、その工事の大変さや昔の方の偉大さに思いふける事ができました。

 そんな私が今回行ってきたのは、近鉄吉田駅北へ100mほどの個所にある今米公園のなかに ある、「中甚兵衛さんの顕彰碑」です。 贈従五位中甚兵衛衛翁碑 大阪府知事従三位勲二等大久保利武書(※鹿児島 大久保利通の三男) 大正四年に立てられています。またその横には中氏以外のご尽力をされた方々の表彰の碑が大正五年に立てられていました。





※下記は平成16年東大阪市が表示した案内版の文章

 江戸の初め、河内平野を行幾本も分かれていた大和川は、土砂の堆積のより川床が上がり始めたびたび洪水を引き起こしていました。
 寛永16年(1639年)今米村に生まれた甚兵衛は明暦2年(1656年)に父が亡くなった後、河内各地の庄屋とはかり、大和川を柏原よりまっすぐ西へつけかえるよう再三幕府へ訴えました。しかしながら、新川筋にあたる村々の強い反対が起こることもあって幕府は付け替えをなかなか受け入れず、何回も淀川と合流する辺りからの大坂河口の改修を行うことで対処しました。
 元禄12年(1699年)大坂河口の治水工事は終了したが、河内平野の村々の状況は一向に改善されずその翌年、翌々年と大洪水が続きまったく年貢を納められないことになりました。
  遂に幕府は方針を転換、付け替えを担当することになった堤奉行の万年長十朗のもとに甚兵衛は何とも罷り出て意見を具申しました。こうして元禄16年(1703年)10月、付け替えが決定しました。このとき甚兵衛は65歳。運動開始から50年近くが経っていました。
  付け替え工事の間(翌年2月から10月)、甚兵衛はその力量を認められて普請御用を務め、工事完成後、功績により苗字帯刀を許されて中甚兵衛と名乗りました。翌宝永2年(1705)に剃髪、法名の乗久を名乗り、享保15年(1730年)9月に92才で亡くなりました。
 この石碑は、大正3年(1914年)陸軍の大演習が行われた際に地元の功労者に叙勲があり、翌年中甚兵衛に従五位が送られたのを記念して有志より建立されたものです。

■浅香山稲荷神社


今の大和川の流れを確認してみてください。

柏原市の石川合流地点からまっすぐ大阪湾には流れこんでいないことがわかります。なにがあったのでしょう。

相次ぐ洪水の回避で北に流れていた大和川を西に変えた際にどうしても迂回する必要がでてきたようです。もともとこの松原の地域には古代からの灌漑のためか池が多くありその中のひとつの依羅(よさみ)池を利用することで大和川の工事計画を立て着工しましたがこの浅香山のふもとの工事に入った際に不思議なことが相次いだそうです。
一日の予定通りの工事を終えても、翌日には元通りに復旧。。。。また道具がこわれたりする事故が相次ぐことからこの浅香山を迂回することで回避したそうです。
※工事を遂行した中甚兵衛氏の家に狐が武装して襲ってきたり、この浅香山に古くからの伝承である狐の話があります。

奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。
浅香将監宗勝は南朝に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えられた。城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。

昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、と伝えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。

 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。

時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。

後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。 神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。