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2014/03/23

2014 3/23 更新の遅れ・・いいわけ。。

さすが期末ですね。
今年は4月からの消費税UPということで、連日超早朝に起床して15時間後に帰宅。

こんな状態が3月にはいってからずっと続いているためにBLOGの更新がおもっきり遅れています。

なので基本土日もドタバタな私もちょっとお疲れ気味。

更新が遅れちゃってもうしわけありません。。

2014/03/15

2014 3/15 歴史と人間 近藤勇

歴史好きな人がきっと見ている「BS歴史館」が急に中止となり新番組が始まるそう。
4月14日の放映で一坂先生ご出演とのこと!見逃せません

また2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」の制作発表会の資料をいただきました。
ご存知、吉田松陰先生の妹の文が主人公。演じるのは井上真央。。
さぁ・・どなることやら。。

また再来年より道徳の教科書に吉田松陰先生が取り上げられるらしい。これは戦前の修身の教科書依頼とのこと。
松陰先生は私も大好きだけど、強烈な天皇崇拝部分のみを取り上げる描き方には問題があるとおもう。一坂先生いわく松陰先生が強烈に取り上げられた時代があるという。
それは昭和11年~19年。この時代にたくさん出版されたがどれもクズのような転載、再掲載の内容ばかりで、当時の時代性に沿った内容であったらしい。

新撰組は思想のない単なる人斬集団でそこには政治的なビジョンなんでない!とされていた。
そのためまったく研究的な価値がないとされていたが近年はちょっと趣が変わってきた。

私を幕末史に夢中にさせるその魅力とは、その不可思議な点にあるとおもいます。
長州藩はその成り立ちから公家の流れを汲んでいるけれど朝敵となり、そして官軍となる。。
幕府の中枢であった慶喜さんやその成り立ちから忠誠を尽くした会津藩がいつのまにか朝敵となる。。これはひとえに大きな計り知れない歴史の流れがあり、どちらが良いか悪いかだけでは判断できない点にあります。
今日の近藤勇もこの大きな歴史に流された人物です。

天宝5年1834年 武州多摩川調布村に生まれた近藤勇。宮川家の三男で、家は豪農。
よく苗字について言われるが苗字は殆どの人は持っていた。ただ公認さえていなかっただけ。
この地域は天領だけど関八州で治安がよろしくないエリア。よく講談や浪曲で語られる股旅物のお話の「天保水滸伝」「座等市」や用心棒のお話でも登場している。
そのため農民らも警護のために剣術の稽古をしており天然理心流が盛ん。

嘉永2年~近藤周斎の養子となり理心流を継ぐ(近藤は4代目)となり試衛館を造った。

文久3年2月に「浪士組」の募集が行われる。
これは当時の危険分子であった不平浪士を集めて京都へ送り家茂の警護をさせるのが目的であった。そのため試衛館のメンバーも多数参加。

小石川にある徳川家の菩提寺伝通院に参集し2月23日に入京。壬生村へ分宿。近藤勇は八木家に泊まる。

ところが実際の目的は違っていた。
すぐさま御所に対し尊王攘夷の建白をおこなっている。その内容は家茂の上洛に際し攘夷の周旋を行い尊王を貫くことや、幕府のおかげで入京したけれども天皇のために働くという内容。
もちろん天皇は大感激!

2月29日には速やかに攘夷を行えという勅とともに、清川らは生麦事件の対応のために江戸に帰ることに。もちろん近藤や芹沢らは大反対。
そのため京へ残る残留組の16人以外は全員江戸へ帰ってしまった。
3月10日には松平容保に対し、京都へ残りたい旨の嘆願書を提出。それは天皇の守護や将軍上洛の警備と攘夷の実施を旨として12日に受理され正式にOKがでた。

3月23日には、16人が24人に増えた。
ドラマでは2グループだが実際は3グループあった。
それは試衛館メンバー・水戸浪人中心の芹沢グループ・下総浪人グループでこれは殿内義雄をリーダーとしていた。

しかし3月25日には近藤が四条大橋で殿内を殺してしまい下総グループは壊滅。
4月21日には、家茂上洛のために大坂へ移動し5月11日には入京。
5月25日には35人連名で鎖港を行うべく意見書を提出している。
この頃から土方らが近藤を批判。「近藤、天狗になり候」これは芹沢がいた水戸天狗党に絡んでいるともされている。

局中法度を定めその内容は士道に背いてはいけないなど。これは武士への憧れが強く感じられる内容であるが実際は、幹部連中が乱暴や狼藉を行っていた。
なかでも相撲取りとの乱闘騒ぎや商人へのゆすり行為や焼き討ちなどむちゃくちゃ!!

文久3年の8.18の政変では58人が蛤御門へ駆けつけたが会津には知られていなかったことからなかなか中へ入れてもらえなかった。その後、御所の警備を行った。

新撰組or新選組・・・どちらの表記が正しいのかは不明・・もちろん命名者も不明。。しかし名前が与えられたことから公認となりその地位が確立。

8月21日には京見廻りが決定。「手あまりの節は斬り捨て御免」というとんでもないこと!
しかし内部の紛争もあり9月半ばには祇園で切腹されたれたメンバーや芹沢の暗殺なども行われた。そして近藤の独裁体制が進められてゆく。
9月23日には周斎の様態悪化から近藤は江戸行きを願い出たが却下。

10月10日には祇園の一力楼で「国家之議論集会」が開催。薩摩、会津、土佐らの各藩の中に近藤が参加し、今の国港攘夷ではだめであり、海国攘夷を行うべし、そのためには公武合体が急務と意見、各藩の賛同を得る。

そして家茂の二回目の上洛で、守護職が容保から春嶽となる、このときに新撰組は松平容保に着いてゆくことが明確となり4月7日には容保が再任。弟の定敬(さだまさ)は桑名藩主で京都所司代。
一会桑体制が確立した。

元治元年5月7日 家茂は江戸へ帰ってしまうが、長州の処分や攘夷が決まっていないことに対して近藤は激怒。われわれは京を見廻るために着たのではない。新撰組を解散するとまで言い出し、早急に長州への攻撃と横浜の鎖港を決めてほしいと言い出す。

5月20日 天満橋で内山彦次郎を暗殺。大塩関連で手柄をあげた幕臣で新撰組VS相撲取りとの一件で新撰組を糾弾した人物。

5月末には周斎へ手紙を送る。
当時15歳の周平(昌武)という養子をもらう旨。自分はいつ死ぬかわからないために急いだ様。
周平はM34年神戸元町で53歳で亡くなる。山陽電鉄事務所勤務。

池田屋事変~22時頃から5人で乗り込み二時間も激闘!

そして12月25日に天皇の崩御・・長州が朝敵であるとしたまま、また兵庫の開港を決めないままの崩御であっただけにその後歴史の渦はどんどんと進んでゆく・・・・。

2014/03/08

2014 3/8 第48回秋桜寄席

毎年、この日は宝塚の小林で開催される小林亭へ行ってたのですが
今年に限り桂 雀三郎さんがご出演とのことなので貝塚へ。

開場までまだ2時間近くあるのにもう並んでおられる方がちらほら。
笑福亭福笑さんの人気ぶりはすごいです!


「子 ほ め」 笑福亭智六

 「初 天 神」 笑福亭たま


「はてなの茶碗」 桂 雀三郎

 「紙 入 れ」 桂  春蝶

 「神 通 力」 笑福亭福笑

2014/03/02

2014 3/2 第8回イーグル寄席


最近は日曜の早朝にラジオで流れている浪曲にはまったおかげで、
レンタルで初代京山幸枝若さんのCDを会社の良き帰りに聞いているという熱中ぷり!
なのでなんだか落語が新鮮です^^

会場は新大阪イーグルボウルの5階。落ち着いた良い会場ですが
残念ながらお客様の入りが少なかったようで・・もったいないことです。
ぜったいにお得な寄席で参加必須です。


「初天神」露の雅
2009年の秋に田辺寄席ではじめて聞かせていただいてから5年。
落語に一生懸命取り組まれている感があって好感が持てました。

「貧乏花見」笑福亭 仁嬌
東京では「長屋の花見」。
春になるとなんどか聞かせていただく爆笑噺。


「質屋蔵」桂 枝女太

久しぶりのお噺。
質屋の蔵に夜な夜な化け物がでるという。
人様のいろんな情念のこもった物を預かるのだから当然だという。
その正体は。。
枝女太さんの表現力ってやっぱ上手いです!

「寛永三馬術・梅花の誉れ」旭堂 南左衛門

何度か楽しませていただいたこの講談。なんどきいても感激です。
馬術の名手は馬に乗るのではなく、乗せてもらっているというくだり・・心に染みる言葉です。





2014/02/23

2014 2/23 DIYに挑戦!

3ヶ月くらい前から私のお部屋の壁の電気のスイッチが切れなくなりました。
左へパチッと押しても、すぐに右にパチッと戻ってしまう。。。

それならと電気を入れっぱなしにしておいて 照明機器側でこまめに入れたり消したりをしたら良いかとやり過ごしていました。
すぐに修理に来ていただいたら 良いのだけどたしか数年位前にお風呂場の電気スイッチが壊れた時に業者さんに来ていただいて修理をしたら 5000円くらいかかったからどうも二の足を踏んでいました。


そしたら今度は娘の仕事部屋のスイッチもおかしくなりました。
この部屋はスイッチを入れても勝手に切れてしまうようで、テープを貼ってなんとか凌ごうとしていましたが もう限界!

ネットで検索したらけっこうDIYされているようで、それならと私もチャレンジ!

私の家のスイッチはパナソニックの【スイッチB(方切)】のようなので埋込スイッチBを2個購入してきて 作業開始。
ちゃんとブレーカーを落としたので感電することもなく意外と楽勝!
一番手こずったのは黒と白のケーブルを端子から抜くところでしたが一回り大きなマイナスドライバを 突っ込んだら簡単に抜けました。

2014/02/15

2014 2/15 歴史と吉田稔麿

吉田稔麿(としまろ)とは中々凝った名前ですが、これは短い生涯の中でほんの一時した使用されていない名前だそう。
実際は栄太郎という名前がメインで稔麿は亡くなる前年の1年のみ。

天保12年閏1月24日 松本村生まれ。よく間違われるが松陰先生とは親戚でもなんでもなく無関係。

父の吉田清内(せいない)は十三組中間。栄太郎には11歳違いの妹の「房(ふさ)」がいた。
おもな仕事は参勤交代の時の宿の手配や荷物もち。城の門番に江戸藩邸の茶室の手入れなどが下級武士の仕事で、藩の政治にはノータッチ。

清内の父は喜兵衛(きへい)。大坂勤務で十三組中間。
酒楼で火鉢にあたりながら浄瑠璃を語りながら亡くなったらしい。


栄太郎は上昇志向が強くいつかは抜け出してやるという意欲があった。
9歳の時に近所に同年の少年の利助が引っ越してくる。二人で木登りをしたり書物の貸し借りもしていたらしい、利助は伊藤博文。彼は青ひょうたんというあだな。(栄養が悪く青い顔をしており青洟を垂らしていた)。

8歳の時より久保五郎左衛門主催の2代目松下村塾に入り学問を習っていた。
ちなみに初代は玉木文之進。
13歳にときに利助が入門。

栄太郎は10代で3回も江戸へ行っている。
1回目は1853年 13歳の嘉永6年(今の小学校6年くらい)で黒船を目撃。
長州は大森海岸の警備を命ぜられるが栄太郎はだめ。

中国はアヘン戦争で南京条約を締結させられた。
もともと儒教の考え方で、統治は武力ではだめであり徳で治めるのが本当・・・文官が上で武官は下という考え方が強い。。

1854年1月14日にはペリーが再来日。これを横浜の本牧へ見に行っている。(14歳)
その後和親条約締結・松陰密航失敗から長州への帰国など栄太郎は知っていた。


2回目は安政2年9月2日 茶室のした働きとして江戸へ向かい10月3日に到着するはずの前日
10月2日に埼玉県中仙道の蕨宿でM6.9の安政の大地震に遭遇。
このため藩邸はもうむちゃくちゃ!熱心に後片付けをしている姿を毛利定広(若殿様)が見ておりその熱心さが目に留まった。2月19日に帰国した。

その頃ご近所だった松陰先生が野山獄から出獄。自宅で講義をさせていたところ、近所の子供が聞きに着ていたという。
安政3年10月には増野徳民とともに聴講に参加。

安政3年11月25日には栄太郎の入門。増野と共に勉強を行う。
この頃の勉強の方法は1、素読 2、講釈 3、会読(対読)でこれが当時の勉強方法。
残念ながら明治維新後はテストのための勉強でひたすら暗記。。自分のための勉強ではなくなって島しまった。

安政14年1月2日西洋地理書の『坤輿図識』(箕作省吾のヘベストセラー)を読み、独立国や附属国のあることを知る。

諱名(本名)は秀実、字名(あざな;学問名)は無逸。
松陰先生は増野と共に無窮(吉田)、無咎(増野)の名をもらう。

3回目は17歳。安政4年9月5日。
行きたくなかったが家計の事情から働きに行くことになる。
ちょうどこの頃松陰先生から、お前は後継者である旨の手紙をもらう。
 江戸では将軍の後継者問題にハリスの貿易問題が勃発。
黒村文左衛門へ宛てた手紙には、アメリカの外圧に言い込められた事や九条公家へ88人が反対運動を起こした事など時代の情報を察知していたが、その立場は朝廷側であったことがポイント。

安政5年 松陰先生を再投獄。
この頃は過激な松陰先生を止めなければならない願う。
藩の命令をやめさせるために役人の家に押しかけた結果8人は謹慎処分となる。
清内からも付き合い禁止を言い渡される。

12月30日には士分の5人は解かれる。翌1月25日には軽卒の3人が解かれる。

松陰は栄太郎に執着があり何度も手紙を送っているが、なかなか辛辣な内容もある。
お前の葬式を行ったぞ。心が死んだ者は惨めだ。。。

万栄元年10月 行方不明に。。全国の八幡様へお参りをする。。。⇒脱藩。
※藩は黙認?

文久元年 江戸 なんと幕府方の家に入る・・妻木田宮500石取りの家来(茨城県鹿島に領地)となり、松里勇と変名を使う。非常に重宝がられた。ついに6月2日には身分を明かして藩に帰る。

文久三年
士雇(1代限りの武士)となり、氏が必要となる。本人は栄太郎で良いのだったが藩にはすでに存在していたために年麿となった。

屠勇取り立ての意見書~部落開放の祖という意見もあり。

7月24日~陽丸丸~幕府の施設を暗殺

奇才は一世を傾け、妙略は千人を弄ぶ

5月22日 京都南座で市川一蔵の芝居を見る。
6月5日 池田屋事変 京都守護に見つかり死亡。

2014/02/11

2014 2/11 大阪城の城内焼亡埋骨墳

慶応四年1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大阪城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害いしたという。
新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは彼らの遺骨を埋葬し武士の鑑とたたえて同年7月にこの石碑を建立した。のちのこの碑は「残念塚」・「残念さん」と呼ばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。





2014 2/11 大阪城の梅

梅の花を愛でるのは今の時期がちょうどいい。

がんばって寒い冬を耐えたんだよ。

精一杯の力を振り絞って咲いたよっ。

そんな誇らしげな気持ちが感じられます。



2014/02/09

2014 2/9 第20回アシスト寄席

第20回アシスト寄席に行ってまいりました。
早いもので5年・・第一回目からできるだけ参加させていただいているとってもお得な会です^^

桂小梅 始末の極意
 
梅団治さんの子息とのことで、そういえば目元や輪郭がそっくりです。
張りのある若々しい声って良い物ですね!

笑福亭仁嬌 花筏
この噺には個人的に思い入れのあるお噺でつい比較をしてしまいます。
クライマックスの土俵のシーンでどれだけ笑いをとることができるかなかなか難しいお噺です。

桂枝女太 紙入れ
日本の話芸で聞いただけで、生で聞くのははじめてでした。
枝女太さんのその女形を演じる時の目元や口調は見事なもので、そのスリリングなやりとりが秀逸でした。

旭堂南左衛門 三村の薪割り

昨日の【三村の薪割り】には感動しました。 
あらすじは下記のとおり。
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吉良の様子を探るために色んな姿へ身を変え江戸へ潜伏する赤穂浪士の面々。
三村次郎左衛門も江戸へ出たがその不器用さからか町人や商人に化けることができない。
なんとか武士でもできる仕事をと考えた仕事が薪割屋。
そこへ江戸で有名な刀砥名人の竹屋喜平次のお店より薪割の依頼がはいり、武士の腕前をもって器用に薪を割って見せる。
その腕前に竹屋喜平次はいたく感動したことがきっかけとなって、色んな大名から刀砥を依頼されても気が向かないと仕事をしない竹屋と腕の達つ侍の三村次郎左衛門の間に人に友情が芽生える。
酒を酌み交わしていたある日、竹屋の床の間に置いてある白木で作った何も書かれていない看板が三村の目に止まり、書道の腕も確かな三村は一息に書き上げ、立派な看板が出来上がりおかげで竹屋の店は大繁盛。
そして後日、三村は自分の刀の砥を依頼すると二つ返事で仕事に取りかかってくれた竹屋。歴々の大名の仕事を後回しにして取りかかってくれたその気持ちが嬉しい。3日後に砥が終わり、刀をお渡ししたいが住まいをしらないことから来店をまつ竹屋の元に数日後に立派な武家が現れる。
よく見ると三村。話を聞けばどうも士官が叶って江戸を離れるとの事、砥がおわった刀で試し切りをしてその出来栄えに驚くとともに竹屋は武士としての出世を非常に喜んだ一日となった。

さて翌早朝のこと・・赤穂浪人による仇討があったと聞き、その行列を見に出かけた竹屋が見たものは・・・・。

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何がすごいって竹屋喜平次さんは江戸生まれの店主さん、そして主人公の三村次郎左衛門は関西の武家人。ということでそれぞれはおのずと言葉使いや所作、目配りが違い、南左衛門さんは見事に表現されていました。
この使い分けや描き分けが積み重なって、私の目の前には、雪がまばらに降る早朝に両国橋をわたる四十七士の中に三村次郎左衛門さんと竹屋喜平次さんのその姿がはっきりと描き出されていました。演目が終わると私の目から大粒の涙がポロリ・・・。やっぱ講談ってスゴイです!!

2014/02/06

2014 2/6  徳之島産 たんかん

徳之島産の【たんかん】を頂戴しました

 ポンカンとスイートオレンジの自然交配でできたらしい。美味しくいただきました(´∀`)
 
 

2014/02/01

2014 2/1 石切神社と参道

久しぶりの石切神社さんにお参りにいってまいりました。



この参道はナイトスクープをはじめ色んな番組でも取り上げられるくらいの特色のある参道です。
今日は心斎橋筋商店街くらいの人手で大賑わい!



途中のおもちゃやさんで発見!超なつかしいポスターです。



はじめてみました!宝塚
音楽学校の生徒募集ポスター!


2014/01/26

2014 1/26 第5回佛願寺講談会

「第5回佛願寺講談会」が開催されました。

いつもの通りすこし早めに到着!
座席の背面に私の名前を貼って予約席としてくださっていました!大感謝^^
また、佛願寺さんのいろんなお気遣いが感じられるとっても素敵な会場です。


開演前あたりから続々とご来場くださりほぼいっぱいの動員!ホントに嬉しい限りです。

「水戸黄門・長屋の出世」白夜亭一林

講談をお聞かせいただく毎にその練習の成果が見て取れる一林さん。
なんとなく余裕も感じられるように見えました。

 「山内一豊とその妻」 旭堂 南斗
 何度となくお聞かせいただいたこの講談。
途中なんどかクスッとするようなシーンも盛り込まれていました。




「左甚五郎・京人形」旭堂 南青
マクラではさざんかホールのお話を盛り込んで、初めからお客さんの心をぐっとつかみ
本題へ。初めて聞かせていただきましたが題材の京人形は歌舞伎とはすこしお話が違うようで
すが懇談では甚五郎ら3人の友情や太夫との恋、そして甚五郎へとんでもない願いをし、
それを「うん!」という人情。そして意外な結末・・。 と
喜怒哀楽が凝縮された難しいお話を明確に演じられた南青さん!
やっぱ上手いですねー!


 「寛永三馬術・梅花の誉れ」旭堂 南左衛門
午年にちなんでということでおめでたいお話。なんとかお聞かせいただいたこの講談。
曲垣平九郎のその優れた馬術を題材としており、「馬術に秀でている者と、馬術の名人」との心得の違いがその成功を左右するという内容。

終演後は汗いっぱいの 南左衛門さん!お疲れ様でした。ご一門の皆様!ありがとうございました。

2014/01/24

2014 1/24 吉田松陰先生 絶筆の2通目発見<読売新聞>

私の吉田松陰先生好きな事を知ってくださっている方が送付してくださいました。
ありがとうございました^^


2014/01/18

2014 1/18 歴史と人間  小笠原長行

2014年は午年。あと12年後の午年は丙午。
人口の統計グラフでも有名なように丙午は人口がぐっと減る。これは丙午の女性は男を不幸にするという言い伝えがあるからで、その原因は江戸初期におこった実話(?)の「八百屋お七」が原因。私の愛読書であった井原西鶴『好色五人女』で一気に有名になったらしい。
今から48年前の丙午の年も同様に人口が少なくなってることから、当時の方々はその迷信を信じていたことがうかがえる。
皇女和宮も丙午の女性であり、公武合体作に難色を示した孝明天皇も和宮降嫁の根回しの際に、丙午の女性であることを理由に反対したそう。

昨年11月/12月の講座に参加できないことから久しぶりのお勉強会。
今日は小笠原長行(1822-1891(M24/1/25))。
最後の一歩を踏み込まなかった為に歴史の表舞台に出てこなかった数奇な運命の方です。

父の小笠原長昌(ながまさ)は陸奥棚倉藩の第3代藩主。国替えにより唐津藩(肥前)の初代藩主で長男として生まれたのが長行。幼名は行若(みちわか)。
藩主の長男として生まれたのだから将来は約束されたようなものだけど、運命はとんでもない方向へ進んで行く。

唐津藩は島原藩とともに譜代大名として長崎の警備を行うという重責と外様大名を監視する役目があったために、すこし特殊なルールがあった。
それは藩主が幼い時は国替えを行い別の藩主と交代するというもの。
当時の唐津藩は6年前に陸奥棚倉藩から国替えをしたばかりなので莫大な借財を背負っていた。
そんな時に藩主の長昌が急死(28歳)する。当時、行若はわずか2歳。このままではまた国替えとなり借財が増えてしまう。もともと行若は側室の子供であったので幕府へ届けていないことを良いことにして他藩より養子を迎えて乗り切ろうとした。


 出羽国庄内藩主酒井忠徳の子の長泰/小笠原長保の次男の長会/ 大和国郡山藩主柳沢保泰の九男の長和など17年間で養子を4人迎えたが次々と隠居や亡くなるという不幸が続く。
そして信濃国松本藩主松平光庸の次男の長国が藩主として迎えられた。

当時行若は敬七郎(21才)。完全にスルーされている本家筋の敬七郎は江戸へ出てゆき学問に励む毎日。
そんな唐津藩の西脇多仲という家老が敬七郎を世に出す為の工作を行い、敬七郎を長国の息子という事を考え土佐の山内容堂らを使って成功。これにより息子の方が父よりも2歳年上という親子関係が成立した!(1857 9/21幕府よりOK)
もちろん、松本藩をはじめ長国派の家老の前場小五郎よりクレームを受けたが押さえ込んでしまう。
この時に敬七郎から長若を経て長行(ながみち 36才)となり幕府より図書守を命ぜられる。

安政5年正月に容堂(22歳)より誘いがあったが、わずらわしい人間関係は苦手とこれをスルーする。これが4回続く。そして5回目。ついに江戸土佐藩邸へ出向いた。
しかし容堂公は出てこない。そのまま3時間待たせた挙句にべろんべろんに酔った容堂が、きつい嫌味を言って去って行ったらしい。そして翌日容堂公より、この非礼を詫びる手紙が届いたそうで、これは長行の人物観察が狙いであったらしい。

4/26に江戸を出て唐津に戻り藩主名代という役職に就く。
この翌月より時勢は安政の大獄旋風が吹き荒れた。
唐津では当時藩政改革の一環で引き割りという政策が行われていた。これは給料の2割をカットして3年前の大地震で倒壊した江戸の唐津藩藩邸の復興を目的としていた。
引き割りを中止させようとした長行はまたしても前場小五郎と対立。

様々な改革を行う相談や結果を江戸にいる長国へ手紙で事細かに知らせていたが
ある日ぷっつりと返事が途切れる。
そしてついに「容堂公を使ってわたしを隠居へ追いやるのは卑怯だ」というような手紙が届き長行は驚いた。これは前場小五郎らが企んだ陰謀であることを突き止め隠居させ関係者らも処分した。

文久元年(1861 3月)江戸に呼ばれる(40才)
当時の長行は、開国はしょうがないことだが、安政の大獄には否定的。そのため彦根藩に対する処分を意見として持っていた。

6/7 島津久光が大原重富とともに江戸城へ入り 、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することをむりやり承諾させた。

7/21 長行は奏者番を任命され、名実ともに幕府の一員となった。
8/10 奏者番廃止論を提出。
8/22 奏者番を廃止。この時期は無駄を省くという流れがあった。
    ※文久3年1月には奏者番は復活している。
8/19 若年寄となる。これは異例の大出世!
9/11 老中格となる。これにより1万俵+屋敷をGET!
10/1 外国御用掛 これにより大名行列の際には2本道具(槍を立てる事)をゆるされる
    この時に井伊家に対し10万石を削る処分を行う。
10/28 勅使が来て将軍家茂に対し攘夷の返答を迫る。そして家茂自らが京都へ出向く事に。

先行して長行が下見を命ぜられた。その際に現在の神戸の摩耶山に登り周囲を見渡しこれを八州峰と命名している。


翌年、将軍が入京の予定の3/4。朝7時に出発し午前中に到着する時に事件が起こる。
当時の京都は攘夷派が京都を引っ掻き回しており彼らの陰謀により
京都の公家らが伊勢へ参拝するために東海道を使ってはダメという知らせが未明に到着。
これは、途中、公家らにすれ違った時に難癖をつける陰謀そのもの。
すぐさま長行を朝の4時に呼び寄せ相談。結果1時間後の5時に出発することとして無事に回避。
9時に入京となった。

3/7 家茂さん、御所入り。
3/11 家茂さん、行幸のお供をさせられる。帰りたくてしょうがない。
 そのため無理やり攘夷の期限を5月10日と約束させられてしまう。
3/13 長行に、すぐに江戸に行き生麦事件の処理をするように命令が下る。

当時、幕府では全員一致で賠償金の支払いを決めていたが、このまま決定してしまうと
京都にいる攘夷派が激怒すること必死で将軍が危ない。
かといって賠償金を払わなければ英国との戦争が起こり、横浜は火の海になる。
長行はわざと支払反対派としてできるだけ時間を稼ぎ、ついに26万9060両(10万ポンド)を支払うことを決定。

5/30 そしてすぐさま京都にいる将軍の救出を目的として5隻の船に1600人の兵隊を載せて大坂に向う!
京都には将軍の入京のときの3000人の兵がいるから合わせて4600人の軍隊が出来上がり、そのまま尊王攘夷派を蹴散らそうとしていた。
枚方から淀へ進軍していたその時に、家茂より手紙が届く。その内容は、入京してはいけないとの命令が書かれていた。
そしてついに断念。これが実行されていれば間違いなく歴史は変わっていただろう。

6/6には差控処分が下された(謹慎処分)図書守から壱岐守となる。
9/4老中となり長州征伐担当、軍制改革をおこない小倉口の担当となる。
激戦があったものの晋作らに翻弄されたと同時になんと家茂急死の知らせが入る。すぐさま孝明天皇より休戦の命令を出していただきあっけなく軍は解散へ。
唐津藩は新政府側についたものの、長行は長国との縁を切り奥羽列藩同盟から五稜郭への戦いへと舞台を移す。

明治2年から5年までは行方不明で7/5にふらっと新政府軍げ自首。その言い訳は行方不明の間はアメリカに渡っていたとのこと。実際は東京妻恋坂付近に潜伏していたらしい。そのまま政治に翻弄されることなく明治24年まで生きた。
息子の長生(ながなり)は明治海軍の中将。


時代は戻るが文久三年。
坂下門外の変の姉小路公知が襲撃された事件で有力犯人の田中新兵衛はいきなり割腹自殺をしてしまう。
実はこの少し前の4月には海舟らと摂海の視察に同行している。
ひょっとしたら長行はこの時に公知と密約をしていて、軍隊を率いて入京した際には公家側からの応援の約束を取り付けていたのかもしれない。


辞世の句がユニーク。。

夢よ夢
夢てう(ちょう)夢は
夢の夢
浮世は夢の
夢ならぬ夢

まさにあと一歩を踏み出していれば間違いなく時代は大きく変わっていたことだろう。