今回、入手しました[大衆明治史(国民版](菊池寛:文芸春秋を興した方、GHQにより焚書にされた本)をきっかけにできるだけ時系列に自分自身の勉強のつもりでまとめてみたいと思います。
全てを打ち壊し作り直す「革命」(Revolution)とはまったく異なる意味ですね。
明治維新はたしかに江戸時代以前までの身分制度を廃止し、廃藩置県や地租改正、殖産興業、立憲君主制の導入などで日本の政治・経済・社会・文化のあらゆる面を急速に近代化させた国家的大改革!
その入り口となった明治時代はそうとうなドタバタしながらも互いにぶつかり合い、そしてがむしゃらに信じた道を突き進んだ時代。まずは「日清戦争」までを一区切りとしてみます!
過去に日本が外国と戦争をしたは僅か・・
・663年:白村江の戦い(唐・新羅の連合軍)
・1274年:文永の役 元(モンゴル帝国)・高麗の連合軍
・1281年:弘安の役 元(モンゴル帝国)・高麗の連合軍
・1592年〜1598年:文禄・慶長の役 朝鮮・明(中国)の連合軍
・1863年:薩英戦争 生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島を砲撃
・1863年・1864年 下関戦争 イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国連合艦隊
・1894年・明治27年7月25日から1895年(明治28年)4月17日) 日清戦争
この「日清戦争」は近代日本が初めて挑んだ大規模な対外戦争で、東アジアの国際秩序を激変させた歴史の大きな転換点。明治維新からの26年間にわたる「朝鮮半島をめぐる主導権争い」と、欧米列強のアジア進出に対する明治政府の切実な「危機感」がありました。
ヨーロッパ諸国が植民地獲得に向けてアジアへ進出し、脱亜入欧を進める日本も獲得したいという気持ちから隣国の朝鮮半島への進出をなんとか実行したいという征韓論に対し、まずは国力増強を目指す反対派との熾烈な争いから征韓論派は敗れたものの結果的には大陸進出を目指すこととなりました。
明治維新を果たした日本は、欧米列強に対抗するために、国同士が対等な権利を持つ「近代的な国際法(万国公法)」に基づく秩序へと転換しようとしていましたが、お隣の清と朝鮮(清の属国)は、近代国際法の概念にはないあいまいな状態で、日本は国益のために「朝鮮を清朝の支配から引き離し、独立した主権国家として対等な条約を結ばせること」を目指しました。
清と朝鮮の「属国関係」の理由⇒
丙子胡乱(へいしこらん・1636〜1637年)
清(満洲族)が朝鮮王朝(李氏朝鮮)に侵攻した戦争。
満洲(中国東北部)女真族(満洲族)のホンタイジが「後金(こうきん)」を建国。
当時の朝鮮の第16代国王・仁祖(インジョ)は、明(漢民族の王朝)を宗主国として重んじ、
満洲族の後金(清)を「野蛮人」と見下して敵対的な外交姿勢でした。
1636年、ホンタイジは国号を「後金」から「清」に改め、皇帝を称し、朝鮮に対してこれまでの「兄弟の契り」を破棄し、清を主君とし臣従する「君臣関係」を要求。
明への義理と儒教的道徳観(華夷思想)にこだわる朝鮮側は、清の要求を断固拒絶。これによりホンタイジ自ら、10万を超える大軍を率いて朝鮮へ侵攻を開始。降伏を受け入れました。
以降、朝鮮は清国に対し従属(冊封・朝貢体制)することとなる君臣の礼(清の皇帝に対して「三拝九叩頭(さんききゅうこうとう:3回ひざまずき、 9回頭を地面につける)」という極めて屈辱的な謝罪)をさせられた。
・日清修好条規の締結
明治新政府後の大きな足かせは、欧米列強との「不平等条約(安政の五カ国条約:米・オランダ・露・英・仏)」。治外法権の認容/関税自主権の欠如/片務的最恵国待遇/港の開港(箱館・横浜・長崎・神戸・新潟の5港を開港)
この改正を行うべく、まずは近隣の大国である清と対等な外交関係をしっかりと構築することを目指しました。
1870年(明治3年)、外務権少丞(しょうじょう:官職名)の柳原前光(戊辰戦争で18歳で東海道鎮撫副総督)らを北京へ派遣して予備交渉を開始。
清の内部では「華夷秩序」が根付いており「西洋の真似をして条約は不要」という慎重姿勢でしたが、当時「洋務運動」(近代化政策)を推し進めていた李鴻章(直隷総督)らは、欧米列強の圧迫に苦しんでおり「日本からの提案を拒否すれば、日本は欧米列強と組んで清を攻めてくるかもしれない」と考え、条約交渉に応じる事としました。
翌1871年(明治4年5月)、全権大使として大蔵卿・伊達宗城を派遣、清側の全権である李鴻章と天津で本交渉に臨み 1871年9月13日(明治4年7月29日)、天津にて「日清修好条規」が正式に調印。(領事裁判権認知・関税自主権の保持)
1873年(明治6年)に批准書が交換されて正式に発効しました。
※日清戦争勃発の1894年(明治27年)まで有効