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2026/05/23

明治天皇の足跡を訪ねて  大阪市役所/京都泉涌寺/奈良県橿原神宮

明治天皇が大阪に来られたのは
明治5年旧暦5月下旬から7月中旬の49日間で伊勢、大阪、西海道方面へ行かれています。

5月23日に浜離宮、品川沖から高尾丸に乗船、帰路は広島丸。岩倉右大臣、木戸顧問、大久保内務卿をはじめ230人。
5月28日には大阪行在所となった西本願寺津村別院で宿泊。5月30日には八軒屋浜から淀川を上り伏見へ。6月4日に大阪に戻り造幣局、ここで泉布館というお名前をいただき、7日には小豆島へ。

明治5年(1872年)は少々ややこしくて、暦が太陰暦から太陽暦に変わりました。
11月9日に太政官布告があり、明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とすることになりました。

また、明治10年の1月下旬と7月末。
1月24日大和国並西京都行幸。横浜から高尾丸に乗船され、26日に三重県鳥羽港、
1月30日に京都の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)なので、きっと泉涌寺。
孝明天皇の十年御式年祭御親祭へご参加されています。




また2月5日には京都神戸間鉄道開通式臨幸、伏見、奈良、11日には神武天皇陵御親祭に行かれているのでこれがきっかけとなり橿原神宮が創建された?
※橿原神宮は明治の時代となり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起こり、明治天皇はこれを御嘉納になり明治23年4月2日に御鎮座になった。




神武天皇の陵がある大和三山 畝傍山


堺方面から2月14日に住吉神社、天下茶屋では橋本尚史郎宅御小休、操練場、砲兵支省、造幣局、大阪府裁判所から大阪府庁、東本願寺。
2月16日には中島精糖所、堂島製藍所から梅田停車場発御七條停車場、京都西本願寺飛雲閣から京都御所へご宿泊。

大阪市役所にある碑はこの時のものかと考えられ、正面右手の駐車場スロープ入り口付近の植え込みの中にあります。





明治天皇は、2月19日に「鹿児島暴徒征伐」を布告されている。これは日本国内の最大の内戦といわれる西南戦争(明治10年1月29日から9月24日)に対して。

江戸から明治になってわずか10年。まだまだ国内が慌ただしく動いている大変な時代だったのでしょう。

2026/05/17

6年ぶりの九度山訪問

 久しぶりに九度山を訪問、京奈和自動車道がだいぶ整備されたことでわずか1時間程度で到着。ずいぶんと楽になりました。前回の訪問は2019年3月なので6年ぶりとなります。

ちなみにはじめての訪問は2008年5月で、今のように観光地化されておらず駐車場等を探すのに相当苦労したことを覚えています。

 以降、母が健在であった頃、毎年5月に開催される「真田まつり」や、秋に開催される「収穫祭」はよく楽しませていただき、様々なご縁を頂戴いたしました「大石順教尼記念館」の館長さんをはじめご関係の皆様、また「住民クラブ」のご代表様をはじめ町長さんには大変お世話になりました。

さて、まずは久しぶりに「真田蕎麦」を堪能。スッキリとした味わいと喉越しが心地よく、まだ5月だというのにきつい日差しで火照った体を冷ましてくれました。オープン当時よりもずっとそばつゆが洗練され関西風味となったようで、舌を楽しませてくれました。




さて、久しぶりの「真田庵」です。しっかりと真田三代のご冥福をお祈りしてまいりました。
与謝蕪村の句碑「炬燵して語れ真田が冬の陣」の前で、蕪村の気持ちを考えていました。
蕪村は1784年生まれですから、幸村公が戦に敗れて170年後経過、当時の江戸中期、将軍は9代徳川 家治さん。天変地異とNHK大河ドラマ「べらぼう」で渡辺謙さんが演じた田沼意次が亡くなったのは1788年。


真田は武士として著名で、当時のいわゆる観光地としての名所図会がブームとなりいろんな書籍が出版、その中でもこの真田庵に眠る真田三代は有名で、中でも真田丸を築き大活躍された幸村公の武勇は語り継がれたことでしょう。




「真田ミュージアム」はコアなファンが多いようで、ちょうどAmazonPrimeで「真田丸」が鑑賞でき、しかも大河ドラマでは「豊臣兄弟」。
受付の方と少しだけ会話をさせていただきましたが当時、九度山で大変お世話になりました方が亡くなられたことを知り心はがっくり。。

そういえばこの数年間にお世話になった方の訃報を知ることが多くなり、本当に辛く、またご恩返しのできぬままになっていて、申し訳ない限り。
ふと、「大石順教尼記念館」の萱野正己館長さんのお言葉「人間は出逢うべき人には必ず逢える。一瞬遅からず一瞬早からず」を思い返すと同時に、儚さと移ろいを感じました。

和歌山県九度山町は自然豊かな美しい地。いつまでも心の故郷でありますように。

2026/03/10

映像の世紀バタフライエフェクト 激動アジアの隣人たち 台湾130年の傷痕

 知らなかった事柄を映像を交えて教えてくれる大好きな番組「映像の世紀 バタフライエフェクト」。

今回は「台湾」について。

2021年3月に公共の場所にある蒋介石の銅像がすべて撤去された。その映像はとても無慈悲でクレーンなどの重機を使って取り壊していた。かつて中国を統治した中国国民党の指導者の銅像へペンキで落書きをされ、無惨にも首だけが道端に転がっている。

政府は独裁政治を行った蒋介石を批判した。その是非をめぐり市民は対立。200体以上の銅像が「慈湖紀念彫塑公園」に集められている。映像を見る限りなんとも恐ろしい光景です。

台湾は日清戦争により割譲され、1895年〜1945年の間、日本が統治。いわゆる植民地。戦後は、共産党との戦いに敗れた蒋介石が中華民国総統として国民党を率いて台湾にやってきた。

「我々は一刻も早く大陸の同胞を解放せねばならない 中華民国万歳!」と演説。共産党を倒すために1949年〜1987年の間戒厳令を維持、町中にはトーチカが作られた。大陸から来た外省人が、台湾出身者の本省人を統治。
本省人の娘が外省人に嫁ぐと親子の縁を切り、本省人の青年は国民党への入党を拒む。。外省人と本省人の間には根強い不信感が生まれる。

1971年に国際連盟から脱退を余儀なくされ「世界の孤児となり地球村の一員としての尊厳を失った」中華人民共和国が代表となる。

2013年に植民地時代の記録映画フイルムが多数見つかった。
「南進台湾」(国策記録映画)1937年に制作。台湾総督の小林躋造(せいぞう)が威厳ある敬礼をしている映像が映し出される。ダム、水路、灌漑用水を整備。道路、建築すべて総力をあげて発展に寄与。

当時の人口の大半を占めていたのは漢民族。17世紀に中国を支配していた清朝時代に多くの移民が入っている。山岳地帯には伝統的な暮らしをおこなっていた先住民の高砂族がいた。日本はすべての住民に対して同化政策を取る。

1937年の盧溝橋事件を発端とした日中戦争が始まると、同化政策を強化し軍人として精神修養をはじめ、皇軍としての自覚を植え付ける精神修養を目的とした国民道場を開始。名前を日本人風に改めさせることを推奨。

当時40歳の台湾作家「呉濁流」は漢民族で有りたいと願い、台湾をでて中国へ渡る。しかし、日本の植民地であった台湾から来たものへの風当たりは強く「台湾はアジアの孤児」と呼ぶ。
「台湾人は日本のスパイだと見られ嫌われている悲しい存在」、しかし戦争になると「日本人は台湾人を信用せず、日本官憲に監視されている」 苦しく辛い立場。

全土に徴兵制が開始。昭和19年9月1日全台湾に徴兵制度実施。日本国民として台湾人も戦地に送られた。のちに、台湾総統となる「李登輝」(岩里政男)※京都大学共 もいた。「1945年の22歳まで日本人だった、日本の正統な教育を受けた私の教養は日本の伝統につながっていた」

1945年9月9日 日本軍降伏調印式(南京)により、蒋介石率いる中華民国は第二次世界大戦の勝者となった。2ヶ月後、台湾を統治するために台湾に国民党軍を派遣する。

「呉濁流:50年間の植民地的桎梏から解放された島民は有頂天で喜び勇んだ」
しかし、期待は裏切られ失望した。横領、暴力、日本語禁止による失業、・・外省人と内省人という言葉が生まれた。「犬が去って豚が来た」

1947年2月27日、ついに本省人の不満が爆発、暴動がひろがる。二二八事件が勃発、蒋介石が派遣した軍隊は無差別に多数の市民を殺害してゆく。

この時期をおなじくして、本土の蒋介石は毛沢東率いる共産党と戦っていた。いわゆる第二次国共内戦(1946年ー49年)。

国民党はアメリカの軍事支援を受けていたが、ゲリラ戦を仕掛ける共産党に苦戦。ついに1949年10月に中華人民共和国が建国を宣言。蒋介石は台湾へ政府を移転。当時の台湾人口600万に100万人の外省人が移動。
アメリカ当時のトルーマン大統領は台湾に軍事援助を打ち切る宣言を行うものの、翌年1950年−53年に朝鮮戦争が勃発。トルーマンは台湾海峡の警戒監視のために部隊を派遣、軍事的な価値を見出され再度台湾への支援を再度開始した。

1951年9月 サンフランシスコ講和会議で日本は独立復権(吉田茂)、しかし植民地であった台湾の地位はあいまいなまま据え置かれる。
条文;日本は朝鮮の独立を承認し、台湾、澎湖諸島、南樺太、千島列島などの領土を放棄。
→放棄のみが書かれており返還先は明示されていない。

蒋介石:英米は私を対日講和条約から排除した。この外交は劣悪の極みこれ以上悪化しようがない。

毛沢東:我々はかならず台湾を解放せねばならない。1954年・1958年 台湾海峡危機〜毛沢東は蒋介石が実効支配する金門島に砲撃をしかける。

毛沢東も蒋介石も一つの中国という理念では一致、どちらが正当な中国か?の争いが切り広げられる。

蒋介石(国民党)♪反攻大陸去 の歌が流行。中国本土の奪還を狙う手始めとして、台湾本土に増えている共産党員の根絶を強化、戒厳令を発布し政治犯を処分。密告を奨励、大金がもらえる世相に変わってゆく。いわゆる白色テロ。抵抗の証として笑みを浮かべながら処刑場へ向かう。冤罪が増え、でっち上げが増える。

李登輝も一時期は共産党に入党した経緯から密告に怯える日々が続いた。

本土では大躍進政策により多数の餓死者が出たことをきっかけに、本土から亡命してきた者を反共義士とよび英雄扱いをすることで、共産党を心理作戦を用いて非難した。故宮博物館(当時:中山博物院)を公開し北京からの宝物を展示した。台湾南部での軍事演習から毛沢東は軍隊を台湾反対側の沿岸に集結させ、一触即発状態になる。

1964年10月に中国が核実験に成功!これにより蒋介石は本土奪還を急ぐこととなりついに1965年8月に八六海戦が始まる。(本土上陸奇襲作戦)しかし失敗におわり蒋介石は落胆。
蒋介石;海軍指揮官の無知と無能を殊に憂う

1960年半ばからGDPは10%以上の伸びで経済躍進時代に突入!これは、海外企業の下請けで繊維業や電子機器を手掛ける本省人の中小企業の働きによるもの。すでに大陸敢行ではなく経済発展に資金を投入した結果となる。政治や軍の要職から締め出されていた本省人の働きは目覚ましく経済面での活躍の場を見出した。

しかし、経済発展に取り残された退役軍人達(外省人)は肉体労働に従事するしかなく「東西横貫公路」の工事に従事した。大陸の故郷に帰ることもできず、大陸反抗が叶う日を待ち続けるしかなかった。

1971年7月 周恩来はニクソン大統領の訪中を受け入れることを表明、米中接近の流れから国連から台湾を締め出し、中華人民共和国を代表とした。翌年、田中角栄も中国との外交回復、台湾とは断絶。そんななかで蒋介石は1975年4月5日に87歳で死去した。

1979年に後ろ盾としていたアメリカからも断交を申し渡された。

台湾の歌手により「アジアの孤児」という歌が流行する。

独自の生存戦略を模索するしかなかった台湾。蒋介石の息子も独裁政治を継承、戒厳令、言論統制を続ける政府に対して40年前の二二八事件が蒸し返される。

退役軍人の外省人からも不満が吹き出す・・ついに1987年7月に40年間続いた戒厳令が解除され、本土への親族訪問が許されたがすでに故郷の景色も変わり、自分の住んでいた場所も知人もいない。

1988年1月 李登輝が総統に就任、ついに本省人による政治が始まった。民主化へのうねりが大きくなり、李登輝は学生たちとの対話を重視、圧倒的な支持を集め民主主義を突き進める。

TSMC(半導体のシェア60%)が台湾経済を牽引、本土ではなく経済で世界を圧倒させる方針。

台湾との国交はわずか12カ国、しかし貿易相手国は190カ国以上。それが今の台湾。


映像の世紀バタフライエフェクト 激動アジアの隣人たち
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025147638SA000/


私からすれば、中国人も台湾人も同じに見える。同じように我が強く大声で話す。
日本はどうあるべきなのか?今の若者には日本人の日本人たる誇りはあるのか?
外省人や本省人、国民党と共産党・・日本もかつては戊辰戦争で内戦が勃発した時期があるが1年半程度。そもそも中国は権力争いを基盤とした陥れ合戦。。日本はそうではない。互いを信じ、性善説に基づいた国民のはず。たぶん、解りあえないとおもう。














2025/09/01

五省と橿原神宮

 一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか 

一、言行に恥づる勿かりしか

一、氣力に欠くる勿なかりしか

一、努力に憾(うら)み勿かりしか

一、不精に亘(わた)る勿なかりしか


まったく存じ上げませんでした。畝傍山の麓にこの場所があるとは・・・。

橿原神宮へ参拝。北神門を出て5分ほど木々に囲まれた道を進むと左側に「瑞鶴之碑」が示す通りに50Mほど進むとそこには大東亜戦争で我が国の為に命を落とされた方々の慰霊碑があります。碑はUPしていません。。
それぞれに敬意をこめて合掌してまいりました。この場所はこんな世相だからこそ皆様にも参拝していただきたい。






2025/08/30

藤原宮跡散策

 日本史の中でなかなか興味を持つ事ができなかった時代が、思わぬ出来事から身近に感じる事があります。私自身、強烈な幕末史や近世史が得意だと自負している反面、戦国時代以前は不得意でしたが、先日の吉野神宮へ参拝して以降、南北朝時代や飛鳥時代等様々な歴史知識の断片が繋がりだし、それとともにとても楽しくなってきました。

毎日の日課のように撮りだめたテレビ録画をチェックしていたら「三田村邦彦さんのおとな旅あるき旅」が目に留まりました。その放映は奈良県の大和八木駅周辺で、オープニングが藤原宮跡のハスの花が咲き乱れる風景でした。一瞬に心奪われ、衝動的に出かけることにしました。

自宅からは高速道路+高田バイパスを使うと小1時間で藤原宮跡へ到着。超広大な草むらを歩きハス池に向かいましたが・・よく考えると咲いているはずがありません。テレビ収録はおそらく7末頃。。
ふと周りを見渡すと、「ここに超巨大な都があったんだ」と熱射病寸前のふらふらの頭の中になんとなく景色が見えてきました。

駐車場横にある「藤原京資料室」までたどり着きそのスタッフさんの会話を聞きながら頭の中には、20代のころに何度も読んだ「宇宙皇子」の小説の登場人物像やエピソードが、繋がりだし強烈なアハ体験!もっと知りたいという気持ちが高まりました



藤原宮は日本初の中国様式を取り入れた日本最大!北にそびえる耳成山・西に畝傍山・東には香久山に囲まれた三角形のほぼ内側に位置しています。この藤原宮の前の都は、わずか東南に位置する飛鳥浄御原宮、そして藤原宮の後が平城京となります。


広大な風景をご覧ください!


春車菊を一輪見つけました

大極殿跡

畝傍山

今までの都は板葺きでしたがこの藤原宮から以降は瓦葺・・奈良県の有名な観光名所の薬師寺も元々は藤原宮にあり天武天皇が妻の持統天皇の病気平癒を祈願したお寺です。平城京にある中国式の大極殿等の建物はこの藤原宮より移築されたものとの事。念願の中央集権国家設立の都・・でしたがわずか16年しか使われなかったそうです。

2025/08/10

桜田門外の変 大阪の動き

大きく歴史が動いた幕末・・なかでも白昼堂々と老中を暗殺したいわゆるテロ事件が大きく歴史を変えた桜田門外の変。江戸城桜田門外で起こった事件ですが、実は大阪でもこの事件に連動していました。

戊午の密勅(幕府を飛び越えて水戸藩に直接に勅が下る)により、勅を幕府に返すのか返さないのか?返すならば天皇に返すのが筋・・いや・・返す必要はない・・・水戸藩の中で様々な論議の最中に井伊直弼が行った安政の大獄と呼ばれる時期将軍継嗣問題で井伊直弼は血筋を重んじる南紀派に対し実力を重んじる一橋派を弾圧することで、水戸の徳川斉彬を封じ込めたことで、水戸過激派がさらに過激に進むと同時に薩摩藩島津斉昭が数千人の兵を連れて上京する・・。江戸と大阪。京都で事を起こすそんなプランがドタキャン。。島津斉昭が病死し次の藩主島津久光たちは上京しなかった。。

生國魂神社の大鳥居を正面に見て左手に石碑があります。川崎孫四郎は幕末の志士で水戸藩士です。桜田門外の変における大坂での連絡役を務めた人物です。生國魂神社前で自刃を企てて翌日亡くなっています。勤王の志士と評価されて明治中期に正五位を贈られているようです。その明治の時点での顕彰碑だったのでしょうか。わかりやすい説明はなく、同じく桜田門外の変にかかわった島男也(しま-おなり)旧居跡の碑ときれいに並んでいました。こちらは生國魂神社の境内に道場を構えていた武術家だそうです。 

水戸藩士 川崎孫四郎健幹
那珂郡枝川村生まれ。農商家四男に生まれるも剣術と学問の才から水戸藩家老
安島帯刀に取り立てられ、その従者となる。安政の大獄により安島氏が切腹を命ぜられた後は、変の別動隊あとして江戸大阪間の連絡役を務める。
蔓延元年三月三日の水戸浪士による大老井伊直弼天誅の桜田門外の変後、
大阪挙兵を図るも幕吏に追われ、変の首謀者・高橋多一郎親子を逃がすために孤軍奮闘し致命傷を負い、生國魂神社前で割腹にて自刃する。
享年三十五。明治三十五年に正五位を贈位され、現在は靖国神社に合祀される。

笠間藩士 島 男也
大阪挙兵の誅議のため幕吏に捉えられ、江戸伝馬町獄にて死没。



生玉神社を出て谷町筋を南に10分ほどあるくと左手に四天王寺の西門が見えてきます。
西門を入り四天王寺学園の正門手間に下記の碑があります。

正四位高橋多一郎
従四位高橋荘左衛門 原瘞処 ※げんえいしょ⇒もともとのご遺体を埋葬していた場所




高橋多一郎父子墓

高橋多一郎は文化十年(一八一三)生まれ、水戸藩徳川斉昭に仕え、 十五石五人扶持という小身の出自であるが性利発、抜刀術も良くし、 徒士目付、祐筆、床机隊戦士等を務めていた。
安政の大獄の翌年、高橋ら水戸藩士は、藤摩藩の高崎五六らと組んで、大老井伊直弼の暗殺計画を立て、万延元年(一八六〇)三月三日、 十八名の浪士は江戸城桜田門外で直弼を襲い惨殺した。
その後、浪士は各地にて幕吏の厳しい詮議を受けることとなる。
高橋父子は四天王寺の塔頭の一つ、秋の坊の北隣にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、 後始末の費用にと六十二両を差し出し、祖先が武田信玄からもらったという貞宗の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、時世を渡し切腹した。享年四十七歳であった。
父の死を見届けた庄左衛門はその時まだ十九歳であったが、父の後を追って自決した。 
欣司兵衛が預かった金子で墓を建て、懇ろに葬ったのがこの墓である。
明治二十四年に多一郎は正四位、明治三十五年に庄左衛門も従五位を贈られている。 (『大坂史蹟辞典』より抄出)



石碑に「怨霊消滅」と書かれている・・それくらいすさまじい切腹であったのだろうか。


四天王寺からさらに谷町筋を南へ。天王寺公園内の
大阪市立美術館のすぐ前の茂みの中にひっそりとたたずんでいます。

佐久良東雄先生の碑
当時の体制に対し衝撃を与えた「桜田門外の変」に関与し投獄されたものの、獄中で「徳川の粟は食まず」と断食され自ら命を亡くされています。

「花のあらしに散るをみて
  事しあらば我が大君の大御為(おおみため)
     人もかくこそ散るべかりけり」乃木希典書 大阪府知事安井英二撰文

昭和10年に建立さえたこの碑は忍び寄る日中戦争に対する政府のプロバガンダなのか・・それとも純粋な顕彰の思いなのかわかりませんが、今の国際社会を含めて終末に進まないように声を上げる事が必要です。


2025/08/04

和歌山県護国神社参拝 20250803

連日猛暑の中、思い立って和歌山方面へ散策に出かけました。
今年は戦後80年の節目の年。先日の大阪護国神社参拝をきっかけに護国神社に興味が高まっています。和歌山城不明門跡から入りすぐの駐車場へ停めすぐの位置にあります。

静寂な森の中に荘厳な雰囲気のこの護国神社さんも大阪と同様に戊辰戦争以降の英霊をお祀り、先の大戦に関する方々を厳粛にお祀りされています。それぞれの碑に刻まれている刻印内容を読み進めるのしたがって目頭が熱くなり、祖国のために戦ってくださった英霊の方々の御霊に合掌してまいりました。

日本人として、今、何ができるのか?私になができるのか?何をすべきなのか・・真剣に見つめるきっかけとなりました。





つつしみてこの碑を陸軍航空戦士たちの霊にそしてすべての陸軍少年飛行兵の還らざる青春に捧ぐ

若鷲に捧げる言葉

昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵制度が誕生した皇誠 純真 元気 周到の校訓を旨に日夜訓練に励み操縦通信整備の分化に巣立った若者たちは祖国の危急を救うため戦乱に身を殺しその多くは蒼天の中に消えていったしかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えている日本は画期的な飛躍を続けているけれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできないなかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶るここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる

陸軍少年飛行隊和歌山県出身生存者一同



歩兵第二百三十聯隊

昭和一四年八月七日歩兵第二百三十聯隊は第三十八師団隷下として編成完了同年十月から南支派遣軍として広東省付近に駐屯諸作戦に参加昭和十六年十二月八日大東亜戦争諸戦に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第六十一聯隊より兵員補充その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戦に参加昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず補給絶え弾薬糧科なきまま、尚敢闘したが部隊の被害90%を超える昭和十八年七月ニュージョージア島作戦に参加
昭和二十一年五月復員完了


祖国と同胞の盾として戦野に散った三千余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐かしい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら
今日太平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い
年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがならん事を願ってここに
一碑を建てた
み魂やすらかに眠れ


鎮魂 歩兵第六十一聯隊

日本国の防人としてひたすら永遠の平和を目ざして栄えある軍旗のもと
北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ
自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ
生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に
あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ
獅子奮闘の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ
我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず
戦友の赫々たる武勲は燎然として 千戴に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等の今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた
礎の上に憤念の心情にして我らの願いを建碑にこめ
後世に遺すものである 願わくば御霊よ
此処に静まりて俱会一処の妙果を証せんことを


あゝ予科練

予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度発足以来大東亜戦争終結迄学業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨と志し単越せる技量 旺盛なる攻防精神 崇高なる犠牲的精神を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり志那事変は海鷲として渡洋爆撃の初陣依頼開戦陣頭ハワイマレー沖航空戦はその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中●なるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大●に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の国難に殉じたり祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
予科練和歌山県人会

この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保の藤の棚下にあったもので当時、兵士たちが
訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんしふるさとをしのんだのである。
終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。


われわれは戦争の悲惨を身をもって知る
日本の高級平和願い子々孫々の繁栄を祈る




富国徴兵保険會社寄進の鳥居


※富国生命の創業者メンバー:初代社長




この後、和歌山城を見学。徳川八代将軍吉宗を皮切りに紀州徳川家より将軍職を輩出。十五代慶喜さんのみ一ツ橋家。残念ながら和歌山城城内や付近には耳成れず甲高い声の中国語、しかも大半のマナーが悪い。。彼らにとって旅の恥はかき捨てなのかもしれないが、郷に入れば郷に従うという心遣いはないものなのか。。。

2025/07/30

倉敷浅尾騒動について まとめ

前回のエントリーの追記として内容を独立させました。
先般、岡山倉敷のアイビースクエアに宿泊する機会がありこの地に倉敷代官所があったことを知りました。ということはあの幕末に起った倉敷浅尾騒動の現場!


背景となった慶応2年は幕末史の中でも大きく歴史が動いた年の一つ。龍馬が襲われた寺田屋騒動や第二次長州征伐の最中に徳川14代将軍の家茂が亡くなり徳川慶喜が15代将軍となる。そんな年の4月に倉敷浅尾騒動が起こる。

前日に訪問していた山口県柳井市・上関町と所縁のある第二奇兵隊が、アイビースクエアの地にあった倉敷代官所を襲撃。その3日後には倉敷の北部にある浅尾藩陣屋を襲撃。長州藩は幕府との揉め事をなんとか

回避しなければならない時期、木戸孝允(桂小五郎)は事態を収束させるために、兵を逮捕、捕縛させる指令をだした。おそらくこの時の第二奇兵隊の一部が上関白浜で処刑されたのでは?と推察しています。という記事を書きましたが今回は少々補足してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、公武合体策実施後、公明天皇から「で・・攘夷はいつ実施するのか?」に対して14代将軍家茂は上洛。将軍の上洛は3代将軍家光以来229年ぶり。およそ3000人の供奉人数を連れていたらしい。文久3年2月13日江戸を出て、3月4日に二条城着。ちなみに帰路は6月13日に大阪から海路を使い、16日に江戸に到着。

で家茂は「文久3年5月10日(1863年6月25日)から攘夷を行います」と返答をする。これにより攘夷決行日の詔勅が出される。
これにより、長州藩は1863年5月に下関海峡を通過するアメリカ商船やフランスやオランダの軍艦を砲撃と同時に郷土防衛のための意思が育ち特に6月には高杉晋作による騎兵隊が著名で、各地に有志の軍が結成された。

今回の騒動のテーマとなる第二奇兵隊が1865年慶応元年に結成。
その生い立ちとして上関半島東側に位置する阿月の領主、毛利家の重鎮の浦靱負(うらゆきえ)が、家臣の子弟を教育する場所として学問所克己堂(こっきどう)を設立、第二奇兵隊は、この学問書で学んだ浦家の家臣の白井小助が中心となって結成した家臣団と、地元農民らが結集した農町民の2派があり結成当初は125名前後。熊毛郡の岩城山山麓を本拠とした際は300名余り。

1866年4月4日、隊内部での倒幕に対する考え方がまとまらず鬱憤が高まり、ついに倒幕穏健派の隊員(樽崎郷一郎)を殺害する事件が起こったことをきっかけに、幹部の立石孫一郎郎(第二銃隊副隊長兼応接係)とともに100名前後の大多数が脱走!本来はこの出来事を山口政府へ釈明に行くはずが首謀の立石孫一郎は岡山県倉敷代官所へ向かう。

この立石孫一郎は岡山県津山の庄屋生まれ、倉敷で学び、いわゆる強行攘夷派。倉敷代官所へ向かった理由は下津井屋事件(元治元年1864年12月18日)による。

当時、年寄役であった立石孫一郎(大橋敬之助)は、1859年の大凶作により津留(つどめ)が行われ藩外への物資流出が制限されたが、密かに地元の豪商下津井屋吉左衛門は他藩へ物資を流出させ大儲けをしたことが露見。立石らは1864年10月に倉敷代官所へ訴えた。しかし、取り調べの4日後に突然代官が別人となり、下津井屋吉左衛門はなぜか釈放。そして激しく立石孫一郎(大橋敬之助)を罵り罵倒した。

その約二か月後に黒装束の5人が下津井屋に押し入り、惨殺。当時犯人は不明であったがその後立石孫一郎であることが判明。立石はその後、大阪へ行き佐幕派の新選組襲撃を企むも失敗し、奇兵隊へ入隊。という経歴。彼の中では当然、下津井屋を無罪釈放した倉敷代官への恨みがあったと思われる。

4月10日早朝に代官所襲撃し、その後、観龍寺で休息後浅尾藩陣屋へ向かい、陽動作戦で襲撃成功。ちなみに浅尾藩は、1864年の禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに、長州藩を攻撃していた藩。


観龍寺と山門に残る槍傷




アイビースクエア内にある倉敷代官所跡




応援もなく立石の目論んだ倒幕は失敗、この脱退に参加していた者たちは追われる身とり、立石らは山口県光市で追手により島田川の千歳橋で殺害され、千歳橋の畔に曝される。その後、地元民が祠を立てようやく昭和10年に碑建立。(碑文:『君ハ石城山奇兵隊長ニシテ当時我藩ヲシテ速ニ倒幕ノ義兵ヲ挙ケシメムカ為掟ニ背キ慶応二年四月四日隊兵九十余人トトモニ同隊ヲ脱走、倉敷ニ出テ幕府ノ陣営ヲ打払ヒ帰国シタルヲ同年四月二十六日千歳橋上二於テ殺害サル 行年三十六歳  昭和十年四月二十五日  島田村青年団』)

その後、この隊に参加していた者らは捕縛され断罪となった。私の故郷の上関の白浜でも7人が断罪となったと考えている。

※克己堂で学んだ著名人
学頭 秋良敦之助 赤祢武人(奇兵隊第三代総督)世良修蔵(奥州陳部使総督参謀)白井小助(第二奇兵隊軍監)秋良雄太郎(真武隊総督)芥川義天(第二奇兵隊書記)坂田直亮(第二奇兵隊大砲隊長)堀江芳介(陸軍少将・国会議員)坂田昌熾(海軍少佐・国会議員)※物理学者坂田昌一の祖父

※克己堂はなかなか行きにくい場所にあり探すのに苦労しました