絵師 一鶯斎芳梅の浪花百景四つ橋の浮世絵です。
今の四橋は長堀通りと四橋筋が交差する大きな交差点ですが
昭和35年以前までは長堀川が流れていました、西横堀も昭和40年前後に
埋め立て照られて完全に姿を消しましました。
【だまされて来て 誠なりはつ桜】がありました。
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
絵師 一鶯斎芳梅の浪花百景四つ橋の浮世絵です。
今の四橋は長堀通りと四橋筋が交差する大きな交差点ですが
昭和35年以前までは長堀川が流れていました、西横堀も昭和40年前後に
埋め立て照られて完全に姿を消しましました。
先日、吉野神宮へ参拝してから後醍醐天皇をはじめとした北朝方の興味が止まらず、北畠顕家を主祭神とした阿倍野神社へ。そして今日は享年21歳でこの地で絶命したお墓を参拝してまいりました。
天王寺から阪堺線・・ちんちん電車に10分ほどの地にある「北畠」下車。東へ徒歩5分程度。メガネの愛眼の向かいにある「北畠公園」にあります。
長い間、その存在は知っていましたが興味が持てなかったことから訪問することを躊躇っていましたが、先日来より急に興味が出て、今日の機会を得ました。
昭和3年7月に北畠顕家卿顕章会を興し墓域拡張修築の為に篤志家の寄付を勧奨し、某額5,400円を得たり。依て年次祭典を行い墓域隣接の民家並びに宅地買収し、以て浄化構築を図らい、時は恰も大阪市に於いてその買収に係る宅地32坪8合と残余1,200円を以て事務所6坪を建設し之を大阪市に寄付。
先週、吉野神宮へ参拝した際に宮司さんから質問をされました。「後醍醐天皇にどんな印象を追っていますか?」・・大変難しい質問です。
金峯山寺、吉水神社、そして如意輪寺を参拝し、後醍醐天皇の苦難の道のりと負けない心、そして「不撓不屈」の心を学びました。その理想を叶えるべく尽力された楠正成をはじめ北畠顕家など多くの有力な方々に支えられたということは、大変な魅力のあった方なのだと推察いたします。
私が生まれ育ったこの大阪の地、まだまだ知らないことがいっぱいと気付かされたのは今回訪問いたしました「阿倍野神社」です。後醍醐天皇に使え、足利尊氏軍とこの阿倍野の地で戦をまじえわずか21歳で命を落とした北畠顕家をお祀りしている神社です。
所用があり東京へ。
まずは久しぶりの泉岳寺さん。亡き主君の無念をはらさんと四十七士が松阪町吉良邸へ討ち入った史実。そして御首を上げたその後、この浅野家菩提寺の泉岳寺の殿のお墓の前へお供え、その後、一同切腹するはずが、残念ながら切腹は叶わず、それぞれ各邸へお預けとなりました。
神妙な気持ちで四十七士のお墓へお参りする際に、あら?強制的にお線香を購入?300円?特に惜しいことはまったく無いのですが、なんか違うような。。微妙な心境になりましたが、丁寧に各墓標にお線香を手向け手をあわせてまいりました。
なんど、この忠臣蔵をテーマにBLOGを書いたことか。
先日TVでインタビューされていた方が、「忠臣蔵って鳥貴族みたいな居酒屋チェーン?」って答えたのを見て愕然としました。
このキーワードを知っているかどうかの年代別ボーダーラインは45歳前後との事、きっかけは何でもいい・・どうぞ忠臣蔵に興味を持っていただきたいものです。
これだけ大規模なテレビドラマはもう制作できないのでしょうね。おそらく莫大なコストがかかる割には視聴率が取れない・・・商業主義であるかぎに難しいでしょう。だからこそNHKが赤穂義士本伝・銘々伝・外伝をきっちりと描いて日本の財産となるようなドラマを制作してほしいものです。
文楽、歌舞伎、演劇、ドラマ、映画、落語に講談、浪曲・・こんなにHITしたのにすっかり忘れ去られている忠臣蔵。
忠義の心と義理と人情の板挟みで揺れ動く様々な人物像は日本人ならわかるはす。こんな荒んだ世相だからこそ描いて欲しいものです。
6月上旬に山口県上関室津へ行くことが決まりました。前回は2022年7月なので約2年ぶりです。
前回は、赤根武人氏の居住地、克己堂跡、の阿月周辺。そして今回は、室津地区西方寺さんの境内に眠る義勇隊士高橋利兵衛さんの墓所を訪れたいとおもっています。
この高橋利兵衛氏は山本誠一郎氏・水井精一氏とともに上関三士と呼ばれており、幕末山口県内で佐々木亀之助氏(明治20年頃に北海道へ移住。入植者初代総代人)により結成された義勇隊(周防上関の農民で編成。非常部隊)の隊員で、今回訪問予定の西方寺が義勇隊の本陣。
文久3(1863)年12月24日深夜、薩摩藩士ら68人が乗った蒸気船「長崎丸」が、小倉藩領の豊前国白野江村(現北九州市門司区)の部埼(へさき)沖で炎上、沈没(長崎丸炎上事件)。28人が焼死、溺死した。
https://www.sankei.com/article/20170728-GB57BNGQZRMNPB765QQURTUV5I/
この蒸気船は薩摩藩が幕府より借りていたもので当然ながらその責任問題が問われ、薩摩と長州の間柄が当然悪化。長州藩は西洋商船と勘違いして誤射したとの言い訳に終始。そんな中でこの約2か月後に起こったのが、加徳丸事件(薩摩藩船焼き討ち事件)。長州藩義勇隊士が薩摩船加徳丸を沈没させ、船主大谷仲之進を殺害した事件が起こる。そしてその数日後の元治元年2月26日大阪南御堂の門前に船主の大谷仲之進の首と、長州武士二人が切腹していた。この二人は山本誠一郎氏・水井精一氏。その後、同じ義勇隊の高橋利兵衛氏は西方寺境内で3月10日に自害した。3人はともに長州萩藩出身の義勇隊士。船主大谷仲之進を殺害した理由は「薩摩藩は攘夷を唱えるも異国との貿易を行っている」とのこと、積み荷もろとも炎上させた。
この幕引きは当時の長州藩要職の久坂玄随が描いたシナリオで、できるだけ派手に謝罪をさせることで朝敵となった長州藩への同情を募長州贔屓を増やすの目的。加徳丸事件の犯人が見つからなかったために有志を募り山本誠一郎氏・水井精一氏が名乗り出たといわれる。享年25歳と30歳の二人の心情は如何なるものだったのでしょう。また、高橋利兵衛氏においてはわずか24歳。。
1853年の黒船来航から1889年の明治憲法発布のこの30年余りは本当に「狂った時代」。でも、今の日本も狂っているとは言い切れないのも事実。当時の人々と同じ風景を眺めることくらいしかできないのは寂しいことですね。
私の大好きなTV番組の一つ「歴史探偵」先日のエピソードは大変面白かった。
https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/
簡単に要約すると下記の通り。
<京都は歴史と伝統が詰まった千年続く古の都>というイメージは明治初年に作られ単なるイメージ戦略にすぎないということ。京都は破壊と再生が繰り返されてきた町。
794年 平安京遷都以降
1467年~1477年 応仁の乱
1536年 天文法華の乱
1867年 明治維新
現在の京都御所は広大な緑に囲まれた中に素晴らしい佇まいの御所。しかしこの姿は明治時代に作られた姿で江戸時代は御所の周りには公家屋敷が立ち並んでいた街並みで、すべての通りは周りの市街地と通じていて、お堀や石垣はなかった。しかも、公家たちが参内する宜秋門(いしゅうもん)前にはベンチがあり、檜垣茶屋(ひがきのちゃや:売店)があり、参内する公家の行列を侍や町人・農民・旅人・売り子たちが眺めている絵が残っている。(拾遣都名所図会:1787)しかも、御所はとても開かれていた場所で、色んなタイミングで町人立ちが御所内へ立ち入る機会が与えられていた。
1864年蛤御紋の変で、長州藩が御所を目指して攻め上り、会津、桑名、薩摩藩により撃沈。京都は火の海となる。その範囲は広大で、御所南側から京都駅。二条城から鴨川の範囲。
その後、大政奉還により、天皇が東京へ行かれたことにより公家も移住し、京都中心部は廃墟となった。30万人の人口は23万人に減少。
さらに、神仏分離令や廃仏毀釈でお寺も衰退、荒れ果て、しかも、町々にあったお地蔵様に手を合わせる行為や、五山の送り火さえも俗信であり止めるよう京都府より通達が発せられた。(京都府布令書:明治4年第16号)
日本は神武天皇の国造りを唱え、神道を日本の宗教としようとするために、旧来の伝統や仏教行事、秩序を否定、破壊した。これは、富国強兵や殖産興業のスローガンを浸透させ脱亜入欧を果たすために必要と考えた。仏教は現代化を阻害すると考えた。
<佐野恒民>(佐賀藩:日本赤十字社創設:明治政府官僚)
オーストリア ウィーン万博開催(明治6年:1873)団長として参加
大仏、提灯、しゃちほこ、陶磁器、漆器、武器、金蒔絵装飾、甲冑を展示。中でも、和風庭園はその後、英国に買い取られ大好評。日本の伝統工芸が大好評であり、文化保全の必要性を感じてきた。岩倉使節団も欧米視察で錦絵などの絵画、工芸品、仏像等が人気であることを感じた。また岩倉具視は、京都で何度も討幕派刺客に襲われかけ隠棲生活をしていたことから京都の隠棲地を特別視していたことから、京都の荒廃ぶりを嘆いていた
当時のロシアの首都はサンクトぺテルブルクだが、戴冠式は旧都のモスクワで行っていることになぞらえ、日本も首都は東京だが様々な慣例行事は特別な位置づけとした歴史都市京都で行えばよいのでは?と考えた。
京都復興建議書を建白、天皇即位式などの祭事は京都で行うこととし、全国から人々が集まるような仕掛けを行いたい。
明治10年ころから国内より流出する美術品にようやく歯止めがかかりだす。
実は平安神宮(1895年)は平安京の生庁(朝堂院)を縮小復元、内国勧業博覧会の会場として建設、平安遷都1400年祭とあわせて建造された。当時の大極殿を神社の拝殿として利用し、多くの参拝客を呼んだ(佐野恒民案)琵琶湖疎水を整備し水流発電による市街電車を整備。京都駅から会場までの全国からの顧客輸送を行った。4か月で113万人が来場。
これにより京都の観光都市化を促進。神社仏閣の修理保存、傷ついた森林の復旧。国有林の整備と寺社への返却、文化美術品の公開を促進し、千年の歴史、山紫水明の古都を目指した。
明治初年に日本の文化遺産、美術工芸品が海外へ流出し続けていたなら・・京都が廃れたままであったら・・とおもうぞぞっとする。
「大政奉還」1867年、徳川幕府が朝廷に政権を返上、この裏ではイギリスとロシアが覇権争いで大きく関わっている。小栗忠順日記では国際外交上にも関わるために政権を天皇へ返上と記されている。
幕府とロシアで国境線をめぐり争っている最中に、ロシアは樺太へ実効支配のために多量の兵士を送り混んでくる。海軍元帥コンスタンチン・ニコラエヴィチは英国が侵略してくると進言することによりサハリン全土をロシア領にするべく動く出す。
これに対し英国パークスも対馬事件があるためにロシアに乗り込まれることを防ごうとする。まさに大国同士の互いの不信感が幕府の存亡に影響を与えたことになる。
この中で強兵を進める小栗忠順は兵器強化をもとにフランスに武器を発注し支援を求めている。
まさに英国、ロシア、フランスの三つ巴。そこで英国パークスは幕府の資金源を止めるために英国銀行から日本への融資を停止することを決定、反幕府勢力をおさえきれずに大政奉還に進んでいく。
1868年、徳川慶喜とパークスは会談を行う、英国側の記録では日本の混乱を収拾できるのか?という質問を投げかけており慶喜は自分の身をもっても収めなければならない。と返答。これにより小栗忠順は幕府の要職を解かれ農村で塾を開くが、わずか40歳で新政府軍に捉えられ処刑。
「鳥羽・伏見の戦い」1年5ヶ月続いた戦争の起点。その裏では各国外交官が熾烈な争いをしていた。
旧幕府軍が発射した砲弾は四斤山砲(フランス製)から発射。2月16日にパークスの要請で各国の代表が集まり会談を実施(英国、フランス、アメリカ、プロイセン、オランダ、イタリア)。この時点では長州、薩摩は国際的には反乱勢力。。
国際法の取り決めに関してパークスは局外中立を宣言することを宣言、これにより幕府、反幕府に対して武器供与などはできなくなる。3日間の会談の結果、パークスは「フランスが徳川を支援すれば新政府は外国人を保護しなくなり大混乱が生じる」と発言。幕府が開港地である函館、横浜、兵庫、長崎の外国人を保護していたが戊辰戦争により長崎、兵庫は新政府軍が実効支配している。これらにより自国民の保護を優先する局外中立宣言を1868年2月に発した。そして5月に江戸城無血開城となる。
「奥羽越列藩同盟」1868年。19世紀後半の指導者オットー・フォン・ビスマルク首相は近隣市諸国を制圧、鉄血政策を推し進め、東アジアへの進行を目論む。
プロイセンが独自に戊辰戦争のキーとなる、会津藩、庄内藩を守るために結成された「奥羽越列藩同盟」を予想している。新潟の激戦区の朝日山の戦いではエンフィールド銃(南北戦争で活躍)の銃弾が発見された、本来は軍事物資は表立って軍事援助はできないはず。そこで独自で動いていた各国武器商人は新潟を開港、武器商人が新潟に集結する。特にプロイセンの武器承認は暗躍し、武器を供給する。。これはアメリカ南北戦争で使用されたスペンサー銃(連射式)エンフィールド銃などでした。なかでも河井継之助はガトリング砲を購入。(南北戦争で初めて実用化)。
「幻の植民地化計画」1868年
プロイセンの旧幕府軍への接近には大いなる狙いがあった。駐日プロイセン代理公使のマックス・フォン・ブラントはビスマルクに対し、蝦夷の土地は北ドイツとにており150万人のドイツ移民を送ることができると進言。ブラントの通訳を務めるハインリッヒ・シュネルは松平容保と会談。列藩同盟に接近する。シュネル銃を米沢藩主へ最新兵器として贈呈。そしてシュネルは列藩同盟の軍事参謀になるまで信用を勝ち取り、会津藩、庄内藩は蝦夷の土地を担保にシュネルに資金援助を依頼、これに応じれば蝦夷の土地を99年間担保として手に入る事となる。
しかしビスマルクは蝦夷の植民地化には実は消極的で経済的なメリットを疑うだけではなく他の国々との軋轢を懸念、英国からの支援が求められることを前提に交渉が開始。
駐日イギリス外交官アーネスト・サトウが西郷隆盛と接触し新潟港の海上封鎖を提案。これにより旧幕府軍は武器の供給が停止することとなる。しかも海上封鎖は国際法上問題がなく、批判を受けることがないと進言。1868年9月、新潟港を封鎖、上陸作戦を決行、占拠する。容保公に援軍を連れて戻ってくることを約束したシュネルは戻ってくることはありませんでした。11月6日会津藩降伏。これによりプロイセンの蝦夷地植民地化計画は中断となりました。
「箱館戦争」1868年
旧幕府軍開陽丸 旧幕臣榎本武揚は五稜郭を占拠、新政府軍と対峙。
英国パークスはロシアが榎本武揚との約束により蝦夷に南下してくるのでは?危機感を覚える。内戦を終わらせることを希望するパークスは、横浜港に停留している幕府がアメリカから購入するはずであったストーンウォール号に目をつけた。諸外国の中立宣言により引き渡しできない状態でした。機能は開陽丸を遥かに上回る機能の軍艦。1869年1月18日に再び開かれたパークス主催の諸外国外交官の会議では、局外中立を終了し新政府軍に与するべきと進言するもプロイセンは榎本武揚率いる函館により内戦終了は時期尚早と受け入れない。
徳川将軍が降伏した以上、榎本武揚は逆賊、反乱分子にすぎないと説き伏せ、局外中立は撤廃される事となった。ストーンウォール号は新政府軍に引き渡される事となった。6月には新政府軍の艦隊により函館は鎮圧される。6月27日榎本武揚降伏。「我らは薩長に負けたのではない、英国に負けたのだ」と談。
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日本が動乱の中、国外からどう見えていたのか?何を考えていたのか?のわずか一部分かもしれませんがまだまだ興味は付きません。明治政府になり様々な外国の支援を得て鉄道や製糸場、日本国憲法など諸外国の影響を受けて進んできた日本。
戊辰戦争後や第二次世界大戦後など本当に植民地化されなかったのは奇跡なのでしょう。
先人の働きに感謝です。
※録画を見ながらの記述に付き誤字などはどうぞご容赦。
1866年「改税約書」経済交渉の舞台裏。海外への金の流出を防ぐために幕末に発行された金貨、万延二分金の成分は金の成分は28%、銀が71%。この政策は当時の勘定奉行小栗忠順により実施。英国は各植民地でも自国のポンドを流通させることで国際取引で使用されることを狙っていました。※植民地用のポンド貨幣には流通国名が刻まれている。
ハリー・パークスが外交官として来日。狙いは大英帝国の貿易圏内に日本を組みこむこと。
そこで関税の引き下げを交渉。熾烈な交渉が小栗忠順と行われるが下関戦争の賠償金割引を持ち出されることで結果引き下げに同意することとなる。
日本の産業を守るためには、日本も産業革命を促す必要がある。そのためにはフランスとのパイプを強固にするためにフランス公使レオン・ロッシュと会談をする。特に造船技術を学びたいとの内容。フランス側も英国に追いつくために快諾。
その結果、横須賀造船所ができることとなった。
1866年「幕長戦争」(四境戦争)
幕府と長州が戦争となった、このときに長州を支えたのば最新鋭のミニエーライフル銃。このライフル銃は英国から購入。※下関戦争での敵国から武器を購入している。
アーネストサトウは、パークスに対し「薩摩藩は長州藩に接近している」という情報をリーク、裏では長州と薩摩は繋がっていることを伝え、そのままこの流れが薩長同盟となる。
英国のジャーディン・マセソン商会は、幕府側、長州側のいずれにも販売していたが、なんと幕府から受け取った代金4000ドルのうち3000ドルが薩摩藩へ融資されていた。※現在の価値で40億円。薩摩藩はこの資金で武器を購入し力を蓄える。この武器の運搬に活躍したのが坂本龍馬。これにより英国は実質的には、幕府VS反幕府の戦いを煽ることととなるが、どの勢力が日本を統治するかではなく、最優先すべきは英国の利益と割り切った考え。
幕府軍は10万人以上の兵力で戦いに望むも、なんと下関の戦いでは英国の商船に流れ弾があった場合どうするのか?と申し入れ、手が出せない幕府に対し長州軍奇兵隊が下関を制圧。
旧型銃は先込めに対しミニエー銃は元込め、しかもライフリングがされている。
およそ4ヶ月続いた戦争は幕府が敗北となった。
つづく
年明けより、様々な番組の録画を順に鑑賞。なかでもこの「新・幕末史 完全版」は興味深くその内容をまとめてみました。
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日本史の中でも時代の大きな転換期の一つの「幕末」。海外でもさまざまな「幕末」に関する覇権争いの根拠が発見されています。
この「幕末」を「対馬事件」「下関戦争」「改税約書」「幕長戦争」「大政奉還」「鳥羽・伏見の戦い」「奥羽越列藩同盟」「幻の植民地計画」「函館戦争」のキーワードで、どのように列強国が関わったのか?を読み解く内容です。
1853年の黒船の来航は偶然ではなく必然。海外で勃発した戦場からの武器の流入により日本が戦場となります。
1858年に修好通商条により、「ロシア・アメリカ・フランス・イギリス・オランダ」に函館、横浜、下田、長崎の港を開くこととなりました。しかし条約締結は反対派勢力である「攘夷派」を生み出すこととなりました。治安維持のための「新選組」などの働きがあったが国内政治は混乱の一途。
当時の19世紀の海外では、イギリス(大英帝国)とロシアの超大国が覇権争い。イギリスの産業革命による蒸気機関が「ゲームチェンジャー」。海外進出を加速していきます。
ロシア帝国は世界最強陸軍を誇りさらなる不凍港拡大を求め黒海獲得を乗り出します。
クリミア半島で英国と一戦を交えますが敗北(クリミア戦争)、その後、極東進出へ路線変更。日本を足がかりに中国に影響を与える方針へ転換。この舞台となったのが「幕末日本」ということになります。
1861年、「対馬事件」が起こります。2月ロシア海軍の巨大軍艦が対馬付近に到達。幕臣の小栗忠順が交渉に当たりました。この交渉に英国が介入し、対馬が戦場となる危機に直面。
首都のサンクトペテルブルグでは皇帝「アレキサンドル二世」と海軍元帥「コンスタンチン・ニコラエヴィチ」が軍事会議により対馬の占拠を目論む。
最近の現地調査で対馬には精密な測量をへて港や観測所、軍事施設が設置、実効支配を狙っていました。
小栗忠順は外交交渉に長けており即時退去を求めて交渉にあたりますが「対馬はイギリスが狙っている以上、ロシアの保護下に置くことが得策」と譲りません。
もちろんイギリスでは「強硬論」が優勢、日本は植民地同様に重要で、これは1840年のアヘン戦争で中国の権益を獲得したために、間近のロシア進出を防ぐことは必須。
日本はロシアにつくか英国につくか・・。小栗忠順の案は対馬を幕府の直轄領とした上で開港を進める。これで様々な国が介入することで手出しができない案だが幕府は却下。幕府は英国の軍艦を対馬へ迎え入れロシアと一触即発!ロシアは退去を選択したが、英国は今後日本への干渉を強めることとなりました。
1864年下関戦争ではイギリス軍率いる17隻の連合軍VS長州軍と戦い、わずか2時間あまりで長州は惨敗。日本の大砲は届きませんが、英国軍が搭載していたアームストロング砲は沖合から長州軍への砲撃を可能としていました。
アームストロング砲にはライフリング(砲身の中に螺旋状の溝)が刻まれたことで砲弾の飛距離を3kmへ伸ばし、精度を高める工夫がされています。
実は英国は日本との全面戦争を想定していたことが近年になって発覚!戦争経験の豊富な英国は①下関から大阪までの瀬戸内海回路を交通封鎖し海上では伊予灘、和歌山沖、下関沖に軍艦を配備することだった。そして②御所のある京都を制圧するために、海上から大阪城を砲撃し無力化。そして③江戸城への攻撃!江戸湾に建造された幕府の砲台を撃破し12,000人が進軍する。建物は木造であり炎による攻撃にくわえ、江戸城は長距離砲で攻撃する作戦でした。この原因は開国後の英国に対する待遇の悪化が要因で、攘夷派の抵抗があったためです。
その機会を狙う英国に対し好都合の事件、1863年外国船砲撃事件勃発。長州藩が外国商船を攻撃。
結果は幕府が巨額の賠償金を支払うことで一旦回避したものの、それでも英国は京都進軍の機会を狙っていました。
当時、幕府はオランダと友好関係を築いており諜報活動も行われており、その中で列強の機密情報も収集、英国の企てを掴んでいました。
軍艦奉行勝海舟は列強との戦いを回避するためにオランダ領事館で、「幕府が攘夷派を抑えこむことを約束」するとともに海軍力の増強のために、最新鋭のクルップ砲を6門搭載した「開陽丸」を購入する。クルップ砲の射程距離は4Km。小栗忠順は大砲の国産化を計画、富国強兵案が進められた。この情報を英国が把握!全面戦争になった場合英国は日本を手中におさめることができるが、そのための戦費を考えると当時の英国国会での承認は得られないとの判断で中止の流れとなった。同時に一橋慶喜さんは通商条約に反対する天皇の説得にあたりました。
つづく
今年はたぶん忠臣蔵の当たり年。
とくにBS東急松竹で放映されている「大忠臣蔵」にすっかりはまっており、ようやく折り返し地点!第25回「悲恋お軽勘平その一」・第26回「悲恋お軽勘平その二」を鑑賞しました。
萱野三平を演ずる石坂浩二さんと、お軽を演ずる山本陽子の美男美女カップルを取り巻く運命の歯車。本当に運が悪いとしか言いようがない萱野三平、そんな三平に健気によりそう遊女にまで身を落としたお軽。なんとも悲恋なお話でした。
その経緯をしり血判状の一番末尾に「萱野三平」と黒々と追記した大石内蔵助さん(三船敏郎)、すでに三平は亡骸となっているが仇討ちの同志だという痛々しい気持ちが伝わってきました。
下記のお写真は当方が2016年秋に行きました際の高輪の萬松山泉岳寺での写真。入口に近いところに萱野三平重實(しげざね)さんの墓標がありました。
さて2022年年末「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」では昨年亡くなられました田村正和さんが大石内蔵助を演じるドラマだけではなく、松平健さんが大石内蔵助を演じる忠臣蔵も放映!
忠臣蔵ってなに?って方にお勧めなのは「決算!忠臣蔵」。大石内蔵助をベタベタの関西弁で通す堤真一さんが演じており、当時の蕎麦16文を基準として、1文を現代の貨幣価値30円に換算しドラマが進んでいきます。
これ以外にも「最後の忠臣蔵」「四十七人の刺客」「忠臣蔵 決断の時」・・「サラリーマン忠臣蔵」や「わんわん忠臣蔵」なんてのもあります。
立川志の輔さんの創作落語「忠臣ぐらっ」も外せないし、講談では赤穂義士本伝・義士銘々伝・義士外伝がわんさかあるようです。
日本で一番数多く演じられた戯曲は忠臣蔵。
なぜ、忠臣蔵が私たちの心を掴んで離さないのでしょう?
主君の仇を取るために耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・そして本懐を果たす。この要素には、当時の賄賂が蔓延していた時代にくさびを打ち込むために、当時の政道に対し堂々と行う事をドラマで書かれていました。
いわばこれはテロであり現代では許されるべきものではありません。
先日の安倍晋三さんを襲った暴君を美化する訳では決してありませんが、巨大な力に立ち向かい、自分の信じる正道を顕示、社会を変えられるかもしれないというイデオロギーなのでしょう。
物事を部分的にしか見ず、解決の手段やにその無理難題のツケを民衆に向けるとどえらいことになることもあるという見本なのでしょうね。これは家庭内でも企業でも行政でも同じこと。。わが身を振り返りましょう。。
あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
By 大石内蔵助
はじめて一心寺さんに行ったのは何歳の頃でしょう。
大阪に古くからあるお寺さんで、おそらく大阪の人で知らない方はおられないでしょう。
私の祖母が亡くなったのは1981年10月、そして祖父が1983年3月。今では仲良く一心寺さんのお骨仏さんとなり毎日大勢の方々に手を合わせていただいています。
そして当家の代を母が仕切るようになってからは毎年8月1週目の日曜を法事と定め、春秋のお彼岸はもちろん、事あるごとに参拝をすることが当然のごとく習慣になっていました。
我が家と曹洞宗の経緯はちょっと変わっていて、本家は浄土宗だけどなぜか物心ついた時からお盆の法要はなぜか曹洞宗。正式に曹洞宗だと自覚できたのは昭和56年の祖母の枕経の時。
びっくりな経緯で曹洞宗になりました。
毎年我が家に来て下さる尼僧さん(庵主さん)は母と非常に懇意にしてくださっており。共に齢を重ね、母は母は帰らぬ人となりました。その毎週の法事では心のこもったお経をあげてくださりとても感謝しています。
母が好きであったお経は『四弘誓願』(しくせいがん)。もともと受戒を受けていた母は『和順』というお名前を頂戴しておりました。
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
この短い28文字を3回繰り返します。
また、「修証義」を全文あげてくださいました。
まさに亡くなった母を偲び、残されたものがどう生きるか?の手掛かりとなります。生を明らめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但、生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。
私は宗教者ではないけれど、悪いことをしたものは地獄に落ち、善行を積んだものは極楽に行くことは間違いのない道理。その時が来ないとどちらに行くのかわからないけれど、先日見た「当麻曼荼羅」では九品往生(くほんおうじょう)が書かれていました。「大河への道」を鑑賞。
この映画は立川志の輔さん原作。伊能忠敬記念館に行った際のインスピレーションがもとになり映画化されたそう。ご本人ももちろんご出演。
立川志の輔さんの中でも「忠臣ぐらっ」や「ガラガラ」「歓喜の歌」「メルシーひな祭り」「質屋暦」などいずれの創作落語もその世界観がすごく計算された落語だけどそれを感じさせることなく、普段から愛聴していましたおかげで早くのうちにこの「大河への道」の話はチェックしていました。
先日、本屋さんへいったときに、司馬遼太郎「峠」が山積みされていました。書籍の帯には
「待望の映画化」とある!これは見なきゃダメな映画ですねー。
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河合継之助さんに関する映画は【河井継之助 駆け抜けた蒼龍】をすでに鑑賞済。
https://sweet-mikan.blogspot.com/2017/07/2017-716.html
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会津藩、庄内藩赦免を目的としてできた奥羽列藩同盟だが、肝心の新政府軍は代表仙台藩の謝罪をまったく受ける気がない。江戸の彰義隊騒動で上野寛永寺の住職をしていた北白川宮能久親王(輪王寺宮)は東北て避難してきている。いざとなったらこの輪王寺宮を担ぎ出して、南北朝の再来をも考えていたらしい。
さて、ここで気をつける点は、この奥羽列藩同盟は戦う為の同盟ではなく、あくまでも戦争を回避する為の同盟。そこに、新発田、村上、松村、三根山、長岡、黒川の各藩が加わり奥羽越列藩同盟へと拡大することになる。(ちなみにこの新発田は、赤穂浪士で有名な堀部安兵衛が生まれたところ。)
この奥羽越列藩同盟の共通認識はひとつ・・それは<長州に対する不信感>。
たしかに、京都を騒乱に巻き込み天皇から長州は朝敵であると烙印を押されたはずの長州がいつの間にか新政府軍として我々を攻撃しようとしている・・。たしかにこれはおかしいと思うのも当然。
会津を制圧する為のTOPは九条直孝。鎮撫総督の名称であったはずが征討総督への呼称変更され5/11には会津征討大総督が決定。
そしてその作戦はあの大村益次郎さんが担当した。その作戦の本意は『枝葉を絶って根幹を孤立させる作戦』そして、その作戦参謀は下記の二人。
薩摩の黒田了介(後の北海道開拓)、長州の山県狂介(後の軍閥の親分)が担当する。
閏4/12、新潟の高田に到着した官軍は信州藩と合流。この信州藩を率いたのは土佐の宿毛出身の岩村精一郎。この時若干23歳。
すべての軍を山道軍(岩村)と海道軍(山県、黒田)に分けそれぞれが会津に向かった進軍を開始した。
閏5/2には山道軍は小出島を制圧し小千谷へ。海道軍は鯨波海岸で桑名軍を撃退。ちゃくちゃくと進軍を行う。
さて、今日のこの舞台はここからはじめる。
閏5/2に、河合継之助がこの小千谷にやってきた。目的は嘆願書を渡すこと。
河合継之助は長岡藩の家老職で長岡藩は7万4千石。<常在戦場>を訓とした質実剛健な藩。
藩主は牧野忠訓(ただくに)。あの山本五十六さんのご出身地。
河合継之助は変わり者だが人望のあつかった方で、遊郭好きだったが藩命として遊郭よ博打を禁止し、武士の石高は100石に統一するという大改革を行っている。
遊郭大好きな継之助のことを揶揄した詩「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」がのこっている。また、藩はフランス式の軍制を布いていてガトリング砲を保有していた。
さて、嘆願書を作成するに至る考えは下記の通り。
・会津や桑名と心中するつもりは無い。
・奥羽越列藩同盟を裏切ることは出来ない。
・この戦いは薩長の私戦。
すなわち、長岡藩は中立の立場を貫きたいとのこと。
この骨子をもって慈眼寺にて岩村精一郎と話し合うことになった。
ところが岩村は、その嘆願書を見ることもなくあっけなく却下!
長岡藩の態度をはっきりさせろ!はっきりしない藩は敵である!と、まぁ明快なこと。
宿に帰った河合は『この上は戦あるのみ・・・』と呟いたそう。
報告を受けた長岡藩は、打倒薩長で意見は統一された。
この時、藩士の小林虎三郎のみ大反対したらしい。
ちなみにこの小林虎三郎さんは、小泉純一郎さんが有名にした<米百表>の方。
<米百表>
北越戦争で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知、領地は焦土と化し藩士たちは貧困状態となった。そのときに支藩三根山藩から百俵の米が贈られることになり、これで飢えも免れると喜んだ藩士を尻目に藩士の小林虎三郎は、すべて売却し学校設立の費用にすることを決定。「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭した。
閏5/4には奥羽列藩同盟に加盟した長岡藩。1500人の兵隊が最新式の装備を持って官軍に戦いを挑むことになる。(北越戦争)
戦いの要所の榎峠を得るために進軍し見事獲得。この時、指揮官の岩村は酒を飲みながら談笑していたらしく、助けに来た山県に叱責されたらしい。
5/13には朝日山を目指す。この戦いで長州の時山直八氏(吉田松陰先生の弟子)が亡くなり、山県が詩を残している。
敵(あた)まもる砦の篝(かがり)かげふけて夏も身にしむ越の山風
官軍は作戦を変更し5/19に長岡城を攻めることとし、ついに運命の時が来た。
大手口で河合自らがガトリング砲を操作し、応戦したもののついに長岡城は落とされてしまい、河合は牧野父子を会津へ逃がすことになる。
5/22には長岡城の奪還計画を立て7/24には足場の悪い八丁沖を越えてなんと、奪還に成功した!この時の長岡軍の気迫は鬼気迫るものであった。
もう山県びっくり!妙見山へ敗走した官軍。
ところがこの戦いで河合継之助が負傷してしまう。実はこのときに外山虎太という河合継之助を師と仰ぐ方が従軍していた。河合は、この青年を『虎や・・虎や・・』と大層可愛がっていた。
河合の受けた傷は破傷風へ。ついに脚を切り落とす大手術をすれば助かる・・ということで戸板に乗せて会津へ向かうことに。
八十町 腰抜け武士の行く峠
自嘲ぎみの句を残して河合は亡くなってしまった。
実は河合は自分の死期が近いことを悟ると、虎に『これからの世界は武士ではなく商人・・』福沢諭吉への紹介状を書いて手渡したそう。
のちに外山修造。
日銀の初代理事となり、次は朝日ビールを起こし
http://www.asahibeer.co.jp/area/03/15/nagaokajin/
阪神電車をおこした。
http://www.hanshin.co.jp/company/about/history01.html
ちなみに阪神タイガースの虎は、外山虎太からきているそう。
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シネマトゥデイより引用)
『蜩ノ記(ひぐらしのき)』などの小泉堯史が司馬遼太郎の「峠」を映画化した時代劇。越後長岡藩の筆頭家老である主人公が激動の時代を生きた姿を、スクリーンに焼き付ける。主人公を数々の主演作を誇る役所広司、その妻を『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』などの松たか子、主人公の父をダンサーで『蜃気楼の舟』などに出演した田中泯が演じる。
年末年始のテレビ番組で様々な言葉を若者に問いかけて何パーセントが知っているかどうか?を当てる番組がありました。「PHS」や「カール・ルイス」「iモード」等など。でなんと1%しか知らない言葉が「忠臣蔵」だそうで、愕然としました。
たしかに、現在の俳優で忠臣蔵のテレビドラマを再現するには資金がかかりすぎますよね。セットが多く、江戸城松の廊下、赤穂城内、吉原の風景、松坂町吉良邸等。それ以上に演出によって忠臣蔵のどこに重きを置くかで相当変わってきます。
2021年年末にBSで「忠臣蔵〜決断の時」が放映されていましたので久しぶりに鑑賞しました。中村吉右衛門さんの内蔵助、橋爪功さんの上野介。やっぱ良いもんですね。
本伝を取り巻く様々なエピソードの中では天野屋利兵衛さんの武器調達に関するところや内蔵助東下りの垣見五郎兵衛さんの話、そしてなんといっても南部坂雪の別れ。赤垣源蔵 徳利の別れはいつもグッとくるし・・まだまだありすぎて選べないです。
そういえば数年前に公開の「決算忠臣蔵」も面白い視点で書かれていて秀逸だったし、寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門にスポットを当てた「最後の忠臣蔵」も新鮮でした。
さて、忠臣蔵の柱となっているキーワードはなんといっても「忠義」。この忠義という言葉は色々と利用されており、古くは「太平記」の湊川の戦い(1336年)。主君のために負けるとわかりながらも果敢に戦かった楠木正成。この太平記は江戸時代に書物として出版されており、また講談師の方々が語っていたそう。平穏な江戸時代に入り文化が発展すると庶民も親しんでいたのかもしれません。それだけに湊川の戦いから360年ほど経過した1702年の元禄時代に「主君の仇をうつ」という部分が美化され、また大好きな松陰先生も教えておられた「山鹿流」の「武士とはこうあるべき」という要素もあって江戸町民は仇討ちを賛美したのかもしれませんね。もちろん幕府は圧力をかけたのでしょう。
この忠義の心は戦争を軸としたプロバガンダにも利用され「君臣湊川」⇒「君臣報国」へ。現代も時々街宣車に大きく君臣報国と書かれて町を走っていることがあります。
昭和の高度成長期には、終身雇用である代わりに愛社精神が求められ忠誠や社是を声高々に叫ばされ「24時間戦えますか」等と言われていた時代がありました。いわゆる洗脳のような状態で新興宗教にも当てはまったのでしょう。
浅野内匠頭さんの自生の句。。
風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残をいかにとかせん
大石内蔵助さんの辞世の句。。
あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし
そういえば立川志の輔さんの落語「忠臣ぐらっ」でもいいし、Youtubeでも2分でわかる忠臣蔵などもあります。
きっかけなんてなんでもいい!ぜひ若い方々にもぜひ知っていただきたい物語です。
NHKBSで放映されたドキュメント番組『映像の世紀プレミアム「中国 “革命”の血と涙」』を見てあらためて自分自身の偏った知識を思い知りました。
1949年の建国直前の中国を記録したカラーフイルムがロシアから多数発見された。
国民党との戦いに勝利した中国共産党人民解放軍が北京入場のシーンから始まる。その映像は何万人もの人々が上気した顔で熱狂的に人民軍の行進を讃え、喜び、激しく手を降るシーンが延々と続く。ようやく中国に安寧が訪れるその喜びと期待を感じさせている。
その瞬間、テレビから驚きのテロップが入る。。。
『この映像は建国後に何十万人もの人を動員して撮影された作り物の映像である』
この録画は中国がソ連の映画技師に依頼して撮影を行った25人のカメラマン。社会主義の樹立を宣言するために作成したとのこと。
1917年のアメリカ映画に長江の風景が克明に清朝末期の様子が描かれている
中華思想に彩られた時代だが実際は1901年に天安門で北京議定調印式が行われ8カ国連合国の戦勝パレードが実施結果巨額の賠償金を払うことを課せられている。
清朝末期におこった義和団の乱(北清事件)では、アヘン戦争以降に続く不遇な待遇からの脱却を目的に結社義和団が『扶清滅洋』をスローガンに外国を排斥、清朝もこれ支持したために8カ国が共同出兵により鎮圧、そして中国の半植民地が始まった。(オーストリア(ハンガリー帝国)、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリス、アメリカ)
賠償金4億5千万海関両のうち、日本の取り分は3千479万海関両(約7.7%)・ロシアとドイツで約半分、フランスが16%、英国が11%弱、アメリカ7%くらい。当時の清朝国家予算の8倍。
租界という自由貿都市が開かれ各国が交易に乗り出し取引が活発化したが中国の利益にはまったく結びつことはなく、苦力(クーリー)と呼ばれる人足としての不遇な扱いを受けていた。また、香港ではイギリスや香港へ中国人労働者(クーリー)を輸出資源として扱っていた。これは黒人の奴隷制廃止の煽りでもあった。
この頃、清朝(清朝総理衛門大臣李鴻章)は近代国家建設を目指して多くの若者を海外留学、特に日本への留学が盛んで、日本では明治維新を成し遂げ第一次世界大戦の頃。Revolutionを革命と訳し、その概念が中国に持ち込まれた。
1903年日本に留学した学生が書いた書籍が上海でベストセラーとなる(革命軍:鄒容(すうよう)18歳)※中国人は奴隷だ。奴隷には自由がなく思想もない 列強と方を並べるとするなら革命しかない。奴隷を脱して自らの主となることだ!
皮肉なことに国費で留学させた多くの若者が清朝を倒す原動力となり、そんな若者を取りまとめていたのがハワイで教育を受け、日本へ亡命していた『孫文』。そして1911年に辛亥革命が勃発、若者たちの思想に感化した清朝の兵隊らが中心となり王朝政治が終焉を迎えた。
映画で有名な日活の創始者『梅屋庄吉』が11月武漢に撮影隊を派遣市記録映画を撮影。孫文の支援者で映画産業を活発化し革命資金として孫文を支援した。清朝は崩壊し最後の皇帝溥儀は6歳で退位した。
1912年孫文を中心とした中華民国が成立。議会制等の国民党が発足。三民主義を掲げ同時に古い慣習が廃止。(辮髪や纏足など)また上海ではファッションも代わりチャイナドレスが大流行。(モダンガール)
1921年7月 上海で13人のメンバーがあつまり非合法組織ができる(中国共産党の発足※ソ連の後ろ盾)都市労働者の革命を目指す。
このころから清朝の残留舞台が台頭し『軍閥』が孫文政治を脅かすために、ソ連を後ろ盾に持つ共産党と手を結ぶことで『軍閥』を排除しようと考え、ソ連より軍事顧問『マーリン』を招聘。軍監学校・軍隊を創設、中共合作をすすめ、その軍監学校では共産党の周恩来がイデオロギー教育を担当、校長は国民党の蒋介石。蒋介石は日本陸軍士官学校で学んでいる。そして徐々に蒋介石は孫文のソ連接近を反対し亀裂が生じていた。
1927年には「革命はいまだならず」の言葉をのこして孫文が死去。翌年、蒋介石は孫文の支援者の娘と結婚することで事実上指導者の地位を確立し、『軍閥』を殲滅。これにより中国の統一が成し遂げられ天安門に肖像画が掲げられた。この革命をソ連は賛美したがが蒋介石はソ連の侵攻や侵略を排斥するために、共産党への弾圧を行っていった。
そこに日中戦争が勃発。
1931年9月、奉天郊外での線路爆破事件をきっかけに関東軍が進軍を開始。
蒋介石は日本に対しては不抵抗制作をすすめ、共産党壊滅を優先、アメリカからの支援を受けて共産党員のすむ地域へ空爆をおこなう。国民党の攻撃を避けるために各地にいる共産党員は中国内陸部へ移動。
国内では共産党との戦いよりも日本軍排斥を望む声が強く民衆の不満は高まってゆく。
十二・九学生運動(1935年12月)が北京でおこり、学生たちが日本打倒を訴えかけたが国民党政府は武力で弾圧、このときに学生たちで歌われた義勇軍行進曲が、中国国歌となる。
共産党は中国内陸部の延安に逃れていた。アメリカ人ジャーナリスト(エドガー・スノー)の訪問に応対した将校が周恩来であり、毛沢東とも出会っている。
1937年 日中戦争。盧溝橋と国民軍が衝突。日本軍が次々と都市を制圧したことで、やむなく蒋介石は共産党とふたたび手を結び日本軍と戦うこととした。(二度目の国共合作)
ソ連スターリンは日本の動きを警戒。
毛沢東は女性や農民を戦力と捉え巧みな戦術を展開。多くの日本人捕虜の様子がフイルムに残っている。
1942年11月 日中戦争6年目のワシントンを宋美齢(蒋介石の妻)が訪問しルーズベルトと会談。議会での演説を経てアメリカの支援を取り付けた。ニューヨークの動物園に二頭のパンダを贈呈。アメリカの軍事支援が実現。
しかし蒋介石は共産党との軍事衝突に備えることで、国民軍の士気は非常に低いことにアメリカ兵は落胆した。
アメリカの延安視察(1944年7月)により共産党の民主的な政策と農民の主体主義や様々な民主的な政策で大変に驚いた。(共産党という名前が似つかないほど)同時に農民の多数は共産党へ参加増大。
1945年10月 日本軍の降伏式典が行われた。国民党軍が参加、共産党軍は呼ばれなかった。
そしてこのあと一党独裁体制へと変貌してゆく。
1945年ー1949年 第二次国共戦争。
共産党軍の毛沢東はソ連の後ろ盾を得て、満州と中国北部で足場を固める。
蒋介石国民党の都市部ではインフレが進み闇市などが乱立、民衆は離れていく
1948年人民解放軍と名前の変えた(共産党)は300万人となり国民党を上回った。
このとき放映されたカラーフイルム映像は戦争後に人民解放軍を動員して再現した映像が流されている。
鄧小平(第二野戦軍政治委員)の姿も見える。プロパガンダ映画である。
南京陥落し国民党の敗北、人民解放軍の入城が映像で強烈に描かれている。
1949年10月1日 中華人民共和国 建国式典開催。
蒋介石は台湾に逃れた。
アメリカでは中国が社会主義陣営に加わったことに不安がひろがり1950年からアメリカ国内でいわゆる『赤狩り』がはじまっている。
1956年国慶節(建国記念日)毛沢東は『百花斉放 百花争鳴』をスローガンとしソ連との差異を打ち出したが、共産党に対する不満が吹き出しこれを共産党は『毒草』『右派』として弾圧を行い55万人以上が思想改造を求められた。反右派闘争の言葉として『中国の知識人には二つの道しかない。声も立てず不条理に逆らわず従順な道具となるか、安全気楽な日和見主義体制追従派になるか。後者の道を行くものが続出した』
1958年毛沢東は社会主義をすすめるために『大躍進政策』を打ち出す。15年でイギリスを追い越すために鉄鋼を強化。農業の集団化により私有財産を没収して生産と行政を一体化する人民公社を設立。遊牧民の定住化を促進。チベット制圧を目的とした軍が派遣された。
農業政策は失敗し飢餓、餓死が増加。生産量の捏造による腐敗が横行。
社会主義における経済発展への道を模索した結果が『文化大革命』(造反理念の暴走)につながった。
1959年4月国家主席が毛沢東から劉少奇に代わったが、上には共産党主席の毛沢東がいる。
劉少奇は現状を調査下蹴った、農業の生産量減少は自然災害でなはく、嘘の報告による人災であると結果付けた。
1962年1月大躍進政策総括の決算に対して、劉少奇は誤りを指摘した。
嘘の報告をしたものに対して処罰。
劉少奇や鄧小平(党総書記)による経済政策の修正により人民公社の縮小と自由売買、穀物の輸入を認めたが毛沢東はこれを革命の堕落と批評、不快感を顕にした。
毛沢東は経済政策空手を放し、死亡説も流れたが1966年7月武漢長江で毛沢東が現役をアピール(遠泳)。
劉少奇の追い出しを画策、その後、機関紙人民日報に毛沢東の言葉が掲載。
<司令部を砲撃せよ。プロレタリア文化大革命は人々の魂に触れる革命である。資本主義野道を歩む実権派を打倒し指導権を革命派に取り戻せ>
ここで言う実権派は毛沢東の経済政策に異を唱えた劉少奇や鄧小平のこと。
1966年8月18日天安門広場で紅衛兵(学生)が集結。早朝にあらわれた毛沢東は『造反有利』(反逆にこそ道理がある)と若者を煽り、文化大革命が始まった。『毛主席万歳』の声が響き渡る。
周恩来が演説。共産党万歳!歴史ある地名や建築物は取り壊され文化財はブルジョワ的で取り壊される。古い思想はブルジョワ分子とされ再教育、そして粛清される。焚書もあいつぎ、党の最高幹部や人民解放軍の英雄(初代国防部長)も処罰された。海外(フランス)では毛沢東を英雄と信じ、アンディ、ウォーホールも絵画題材、『造反有利』はフランス革命の心境を呼び起こし若者が体制を大きく批判した。思想家のサルトルも文化大革命を支持、既存の権力に対して若者たちが疑問を投げかけているのだから自由を勝ち取る上で重要な大きな進歩。
1967年7月紅衛兵は権力の中枢、国家主席の劉少奇を襲う。2年後幽閉先で死亡する。
1976年9月 毛沢東死去。国内で追悼集会がおこなわれ、翌年文化大革命に終了を宣言。先導した4人がさらされて裁判にかけられた。1980年5月劉少奇の追悼式で名誉を回復。
共産党は毛沢東に対して功績が7割、誤りが3割と総括。
文化大革命では1000万人が死亡、被害にあった人は1億人以上と言われる。
最高実力者として鄧小平が選ばれる。
1978年市場経済の論理を取り入れた経済改革を乗り出し、外国資本を受け入れ西洋文化が参入。
GDPは10年で5倍!ソ連ではゴルバチョフではペレストロイカを推し進め情報公開や政治改革を実施していた。社会主義体制が変革、経済自由化が政治の自由に繋がりついに1989年4月に天安門広場で事件が起こる。
胡耀邦は言論の自由を推進し、様々な方の名誉回復に努め民衆の高い支持をあつめていたが、政治的に抹殺され失脚した。そんな胡耀邦元総書記の追悼の花を捧げるためだった。
そして4月26日の人民日報の社説に集まった若者らに対して『民主を旗印に民主制度を破壊し全国を混乱させた。これは陰謀であり動乱である』との記事が掲載される。これに対し、社説の撤回を求めて10万人以の学生が天安門広場に集結。政府との対話を求めたが、鄧小平は1989年5月20日に戒厳令を発し25万人の軍事的な制圧をおこなった。
学生たちは軍部兵隊にも労を労いともに仲間となることを勧めた。この映像を見る限りでは大変奇妙な映像です。
暴力に訴えず破壊行動を起こさず、政府との対話を求めた学生たちの姿は市民の支持を集め、100万人の大人たちも集まってきた。大企業も人民日報や新華社通信、国営放送の社員らも参加した。しかし1898年6月4日午前0時17分装甲車が突入し民衆に発砲。過激化してゆく。午前5時、若者たちは退却した。
世界中のメディアにながされたタンクマン映像の真実はわからない。
5日後、鄧小平は人民解放軍に対して『中国を取り巻く国際環境や国内の情勢によってもたらされた避けて通りことのできないもの』と語った。
共産党100年。激動の100年。これからどう進んで行くのか。