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2025/09/01

五省と橿原神宮

 一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか 

一、言行に恥づる勿かりしか

一、氣力に欠くる勿なかりしか

一、努力に憾(うら)み勿かりしか

一、不精に亘(わた)る勿なかりしか


まったく存じ上げませんでした。畝傍山の麓にこの場所があるとは・・・。

橿原神宮へ参拝。北神門を出て5分ほど木々に囲まれた道を進むと左側に「瑞鶴之碑」が示す通りに50Mほど進むとそこには大東亜戦争で我が国の為に命を落とされた方々の慰霊碑があります。碑はUPしていません。。
それぞれに敬意をこめて合掌してまいりました。この場所はこんな世相だからこそ皆様にも参拝していただきたい。






2025/08/30

藤原宮跡散策

 日本史の中でなかなか興味を持つ事ができなかった時代が、思わぬ出来事から身近に感じる事があります。私自身、強烈な幕末史や近世史が得意だと自負している反面、戦国時代以前は不得意でしたが、先日の吉野神宮へ参拝して以降、南北朝時代や飛鳥時代等様々な歴史知識の断片が繋がりだし、それとともにとても楽しくなってきました。

毎日の日課のように撮りだめたテレビ録画をチェックしていたら「三田村邦彦さんのおとな旅あるき旅」が目に留まりました。その放映は奈良県の大和八木駅周辺で、オープニングが藤原宮跡のハスの花が咲き乱れる風景でした。一瞬に心奪われ、衝動的に出かけることにしました。

自宅からは高速道路+高田バイパスを使うと小1時間で藤原宮跡へ到着。超広大な草むらを歩きハス池に向かいましたが・・よく考えると咲いているはずがありません。テレビ収録はおそらく7末頃。。
ふと周りを見渡すと、「ここに超巨大な都があったんだ」と熱射病寸前のふらふらの頭の中になんとなく景色が見えてきました。

駐車場横にある「藤原京資料室」までたどり着きそのスタッフさんの会話を聞きながら頭の中には、20代のころに何度も読んだ「宇宙皇子」の小説の登場人物像やエピソードが、繋がりだし強烈なアハ体験!もっと知りたいという気持ちが高まりました



藤原宮は日本初の中国様式を取り入れた日本最大!北にそびえる耳成山・西に畝傍山・東には香久山に囲まれた三角形のほぼ内側に位置しています。この藤原宮の前の都は、わずか東南に位置する飛鳥浄御原宮、そして藤原宮の後が平城京となります。


広大な風景をご覧ください!


春車菊を一輪見つけました

大極殿跡

畝傍山

今までの都は板葺きでしたがこの藤原宮から以降は瓦葺・・奈良県の有名な観光名所の薬師寺も元々は藤原宮にあり天武天皇が妻の持統天皇の病気平癒を祈願したお寺です。平城京にある中国式の大極殿等の建物はこの藤原宮より移築されたものとの事。念願の中央集権国家設立の都・・でしたがわずか16年しか使われなかったそうです。

2025/08/10

桜田門外の変 大阪の動き

大きく歴史が動いた幕末・・なかでも白昼堂々と老中を暗殺したいわゆるテロ事件が大きく歴史を変えた桜田門外の変。江戸城桜田門外で起こった事件ですが、実は大阪でもこの事件に連動していました。

戊午の密勅(幕府を飛び越えて水戸藩に直接に勅が下る)により、勅を幕府に返すのか返さないのか?返すならば天皇に返すのが筋・・いや・・返す必要はない・・・水戸藩の中で様々な論議の最中に井伊直弼が行った安政の大獄と呼ばれる時期将軍継嗣問題で井伊直弼は血筋を重んじる南紀派に対し実力を重んじる一橋派を弾圧することで、水戸の徳川斉彬を封じ込めたことで、水戸過激派がさらに過激に進むと同時に薩摩藩島津斉昭が数千人の兵を連れて上京する・・。江戸と大阪。京都で事を起こすそんなプランがドタキャン。。島津斉昭が病死し次の藩主島津久光たちは上京しなかった。。

生國魂神社の大鳥居を正面に見て左手に石碑があります。川崎孫四郎は幕末の志士で水戸藩士です。桜田門外の変における大坂での連絡役を務めた人物です。生國魂神社前で自刃を企てて翌日亡くなっています。勤王の志士と評価されて明治中期に正五位を贈られているようです。その明治の時点での顕彰碑だったのでしょうか。わかりやすい説明はなく、同じく桜田門外の変にかかわった島男也(しま-おなり)旧居跡の碑ときれいに並んでいました。こちらは生國魂神社の境内に道場を構えていた武術家だそうです。 

水戸藩士 川崎孫四郎健幹
那珂郡枝川村生まれ。農商家四男に生まれるも剣術と学問の才から水戸藩家老
安島帯刀に取り立てられ、その従者となる。安政の大獄により安島氏が切腹を命ぜられた後は、変の別動隊あとして江戸大阪間の連絡役を務める。
蔓延元年三月三日の水戸浪士による大老井伊直弼天誅の桜田門外の変後、
大阪挙兵を図るも幕吏に追われ、変の首謀者・高橋多一郎親子を逃がすために孤軍奮闘し致命傷を負い、生國魂神社前で割腹にて自刃する。
享年三十五。明治三十五年に正五位を贈位され、現在は靖国神社に合祀される。

笠間藩士 島 男也
大阪挙兵の誅議のため幕吏に捉えられ、江戸伝馬町獄にて死没。



生玉神社を出て谷町筋を南に10分ほどあるくと左手に四天王寺の西門が見えてきます。
西門を入り四天王寺学園の正門手間に下記の碑があります。

正四位高橋多一郎
従四位高橋荘左衛門 原瘞処 ※げんえいしょ⇒もともとのご遺体を埋葬していた場所




高橋多一郎父子墓

高橋多一郎は文化十年(一八一三)生まれ、水戸藩徳川斉昭に仕え、 十五石五人扶持という小身の出自であるが性利発、抜刀術も良くし、 徒士目付、祐筆、床机隊戦士等を務めていた。
安政の大獄の翌年、高橋ら水戸藩士は、藤摩藩の高崎五六らと組んで、大老井伊直弼の暗殺計画を立て、万延元年(一八六〇)三月三日、 十八名の浪士は江戸城桜田門外で直弼を襲い惨殺した。
その後、浪士は各地にて幕吏の厳しい詮議を受けることとなる。
高橋父子は四天王寺の塔頭の一つ、秋の坊の北隣にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、 後始末の費用にと六十二両を差し出し、祖先が武田信玄からもらったという貞宗の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、時世を渡し切腹した。享年四十七歳であった。
父の死を見届けた庄左衛門はその時まだ十九歳であったが、父の後を追って自決した。 
欣司兵衛が預かった金子で墓を建て、懇ろに葬ったのがこの墓である。
明治二十四年に多一郎は正四位、明治三十五年に庄左衛門も従五位を贈られている。 (『大坂史蹟辞典』より抄出)



石碑に「怨霊消滅」と書かれている・・それくらいすさまじい切腹であったのだろうか。


四天王寺からさらに谷町筋を南へ。天王寺公園内の
大阪市立美術館のすぐ前の茂みの中にひっそりとたたずんでいます。

佐久良東雄先生の碑
当時の体制に対し衝撃を与えた「桜田門外の変」に関与し投獄されたものの、獄中で「徳川の粟は食まず」と断食され自ら命を亡くされています。

「花のあらしに散るをみて
  事しあらば我が大君の大御為(おおみため)
     人もかくこそ散るべかりけり」乃木希典書 大阪府知事安井英二撰文

昭和10年に建立さえたこの碑は忍び寄る日中戦争に対する政府のプロバガンダなのか・・それとも純粋な顕彰の思いなのかわかりませんが、今の国際社会を含めて終末に進まないように声を上げる事が必要です。


2025/08/04

和歌山県護国神社参拝 20250803

連日猛暑の中、思い立って和歌山方面へ散策に出かけました。
今年は戦後80年の節目の年。先日の大阪護国神社参拝をきっかけに護国神社に興味が高まっています。和歌山城不明門跡から入りすぐの駐車場へ停めすぐの位置にあります。

静寂な森の中に荘厳な雰囲気のこの護国神社さんも大阪と同様に戊辰戦争以降の英霊をお祀り、先の大戦に関する方々を厳粛にお祀りされています。それぞれの碑に刻まれている刻印内容を読み進めるのしたがって目頭が熱くなり、祖国のために戦ってくださった英霊の方々の御霊に合掌してまいりました。

日本人として、今、何ができるのか?私になができるのか?何をすべきなのか・・真剣に見つめるきっかけとなりました。





つつしみてこの碑を陸軍航空戦士たちの霊にそしてすべての陸軍少年飛行兵の還らざる青春に捧ぐ

若鷲に捧げる言葉

昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵制度が誕生した皇誠 純真 元気 周到の校訓を旨に日夜訓練に励み操縦通信整備の分化に巣立った若者たちは祖国の危急を救うため戦乱に身を殺しその多くは蒼天の中に消えていったしかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えている日本は画期的な飛躍を続けているけれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできないなかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶るここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる

陸軍少年飛行隊和歌山県出身生存者一同



歩兵第二百三十聯隊

昭和一四年八月七日歩兵第二百三十聯隊は第三十八師団隷下として編成完了同年十月から南支派遣軍として広東省付近に駐屯諸作戦に参加昭和十六年十二月八日大東亜戦争諸戦に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第六十一聯隊より兵員補充その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戦に参加昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず補給絶え弾薬糧科なきまま、尚敢闘したが部隊の被害90%を超える昭和十八年七月ニュージョージア島作戦に参加
昭和二十一年五月復員完了


祖国と同胞の盾として戦野に散った三千余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐かしい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら
今日太平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い
年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがならん事を願ってここに
一碑を建てた
み魂やすらかに眠れ


鎮魂 歩兵第六十一聯隊

日本国の防人としてひたすら永遠の平和を目ざして栄えある軍旗のもと
北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ
自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ
生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に
あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ
獅子奮闘の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ
我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず
戦友の赫々たる武勲は燎然として 千戴に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等の今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた
礎の上に憤念の心情にして我らの願いを建碑にこめ
後世に遺すものである 願わくば御霊よ
此処に静まりて俱会一処の妙果を証せんことを


あゝ予科練

予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度発足以来大東亜戦争終結迄学業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨と志し単越せる技量 旺盛なる攻防精神 崇高なる犠牲的精神を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり志那事変は海鷲として渡洋爆撃の初陣依頼開戦陣頭ハワイマレー沖航空戦はその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中●なるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大●に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の国難に殉じたり祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
予科練和歌山県人会

この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保の藤の棚下にあったもので当時、兵士たちが
訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんしふるさとをしのんだのである。
終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。


われわれは戦争の悲惨を身をもって知る
日本の高級平和願い子々孫々の繁栄を祈る




富国徴兵保険會社寄進の鳥居


※富国生命の創業者メンバー:初代社長




この後、和歌山城を見学。徳川八代将軍吉宗を皮切りに紀州徳川家より将軍職を輩出。十五代慶喜さんのみ一ツ橋家。残念ながら和歌山城城内や付近には耳成れず甲高い声の中国語、しかも大半のマナーが悪い。。彼らにとって旅の恥はかき捨てなのかもしれないが、郷に入れば郷に従うという心遣いはないものなのか。。。

2025/07/30

倉敷浅尾騒動について まとめ

前回のエントリーの追記として内容を独立させました。
先般、岡山倉敷のアイビースクエアに宿泊する機会がありこの地に倉敷代官所があったことを知りました。ということはあの幕末に起った倉敷浅尾騒動の現場!


背景となった慶応2年は幕末史の中でも大きく歴史が動いた年の一つ。龍馬が襲われた寺田屋騒動や第二次長州征伐の最中に徳川14代将軍の家茂が亡くなり徳川慶喜が15代将軍となる。そんな年の4月に倉敷浅尾騒動が起こる。

前日に訪問していた山口県柳井市・上関町と所縁のある第二奇兵隊が、アイビースクエアの地にあった倉敷代官所を襲撃。その3日後には倉敷の北部にある浅尾藩陣屋を襲撃。長州藩は幕府との揉め事をなんとか

回避しなければならない時期、木戸孝允(桂小五郎)は事態を収束させるために、兵を逮捕、捕縛させる指令をだした。おそらくこの時の第二奇兵隊の一部が上関白浜で処刑されたのでは?と推察しています。という記事を書きましたが今回は少々補足してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、公武合体策実施後、公明天皇から「で・・攘夷はいつ実施するのか?」に対して14代将軍家茂は上洛。将軍の上洛は3代将軍家光以来229年ぶり。およそ3000人の供奉人数を連れていたらしい。文久3年2月13日江戸を出て、3月4日に二条城着。ちなみに帰路は6月13日に大阪から海路を使い、16日に江戸に到着。

で家茂は「文久3年5月10日(1863年6月25日)から攘夷を行います」と返答をする。これにより攘夷決行日の詔勅が出される。
これにより、長州藩は1863年5月に下関海峡を通過するアメリカ商船やフランスやオランダの軍艦を砲撃と同時に郷土防衛のための意思が育ち特に6月には高杉晋作による騎兵隊が著名で、各地に有志の軍が結成された。

今回の騒動のテーマとなる第二奇兵隊が1865年慶応元年に結成。
その生い立ちとして上関半島東側に位置する阿月の領主、毛利家の重鎮の浦靱負(うらゆきえ)が、家臣の子弟を教育する場所として学問所克己堂(こっきどう)を設立、第二奇兵隊は、この学問書で学んだ浦家の家臣の白井小助が中心となって結成した家臣団と、地元農民らが結集した農町民の2派があり結成当初は125名前後。熊毛郡の岩城山山麓を本拠とした際は300名余り。

1866年4月4日、隊内部での倒幕に対する考え方がまとまらず鬱憤が高まり、ついに倒幕穏健派の隊員(樽崎郷一郎)を殺害する事件が起こったことをきっかけに、幹部の立石孫一郎郎(第二銃隊副隊長兼応接係)とともに100名前後の大多数が脱走!本来はこの出来事を山口政府へ釈明に行くはずが首謀の立石孫一郎は岡山県倉敷代官所へ向かう。

この立石孫一郎は岡山県津山の庄屋生まれ、倉敷で学び、いわゆる強行攘夷派。倉敷代官所へ向かった理由は下津井屋事件(元治元年1864年12月18日)による。

当時、年寄役であった立石孫一郎(大橋敬之助)は、1859年の大凶作により津留(つどめ)が行われ藩外への物資流出が制限されたが、密かに地元の豪商下津井屋吉左衛門は他藩へ物資を流出させ大儲けをしたことが露見。立石らは1864年10月に倉敷代官所へ訴えた。しかし、取り調べの4日後に突然代官が別人となり、下津井屋吉左衛門はなぜか釈放。そして激しく立石孫一郎(大橋敬之助)を罵り罵倒した。

その約二か月後に黒装束の5人が下津井屋に押し入り、惨殺。当時犯人は不明であったがその後立石孫一郎であることが判明。立石はその後、大阪へ行き佐幕派の新選組襲撃を企むも失敗し、奇兵隊へ入隊。という経歴。彼の中では当然、下津井屋を無罪釈放した倉敷代官への恨みがあったと思われる。

4月10日早朝に代官所襲撃し、その後、観龍寺で休息後浅尾藩陣屋へ向かい、陽動作戦で襲撃成功。ちなみに浅尾藩は、1864年の禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに、長州藩を攻撃していた藩。


観龍寺と山門に残る槍傷




アイビースクエア内にある倉敷代官所跡




応援もなく立石の目論んだ倒幕は失敗、この脱退に参加していた者たちは追われる身とり、立石らは山口県光市で追手により島田川の千歳橋で殺害され、千歳橋の畔に曝される。その後、地元民が祠を立てようやく昭和10年に碑建立。(碑文:『君ハ石城山奇兵隊長ニシテ当時我藩ヲシテ速ニ倒幕ノ義兵ヲ挙ケシメムカ為掟ニ背キ慶応二年四月四日隊兵九十余人トトモニ同隊ヲ脱走、倉敷ニ出テ幕府ノ陣営ヲ打払ヒ帰国シタルヲ同年四月二十六日千歳橋上二於テ殺害サル 行年三十六歳  昭和十年四月二十五日  島田村青年団』)

その後、この隊に参加していた者らは捕縛され断罪となった。私の故郷の上関の白浜でも7人が断罪となったと考えている。

※克己堂で学んだ著名人
学頭 秋良敦之助 赤祢武人(奇兵隊第三代総督)世良修蔵(奥州陳部使総督参謀)白井小助(第二奇兵隊軍監)秋良雄太郎(真武隊総督)芥川義天(第二奇兵隊書記)坂田直亮(第二奇兵隊大砲隊長)堀江芳介(陸軍少将・国会議員)坂田昌熾(海軍少佐・国会議員)※物理学者坂田昌一の祖父

※克己堂はなかなか行きにくい場所にあり探すのに苦労しました

2025/07/04

豊受大神宮(外宮)・皇大神宮(内宮)

 35年くらいぶりの伊勢参りです。西名阪⇒名阪国道⇒東名阪⇒伊勢自動車道で伊勢西ICまでおよそ3時間。平日のおかげで外宮駐車場は余裕!

伊勢参りは外宮⇒内宮へ参拝しなきゃ・・ということでまずは外宮。豊受大神宮は衣食住の恵みをお与えくださる守護神。ちなみに20年に一度行われる第63回神宮式年遷宮は令和15年とのこと。


鳥居を潜り砂利道を進む音だけが・・・と言いたいところだけれど静寂を破る中国語・・ええかげんにしてくれ・・・。心静かに参拝できないのか。。。と自分の心を荒立てるのは私の精神修業が未熟なのか。



白装束に身を包まれたご婦人方が御敷地に沢山しゃがみこまれて何かを拾われています。「なにをなさっているのですか?」「はい。私たちはこの御敷地に生えている雑草や小さな枯葉や等を拾わさせていただいています。」と・・素晴らしいご奉仕の精神。「本当にありがとうございます」とお礼を申し上げ、この地の横にある正宮 豊受大神宮へ参拝させていただきました。

その後、「せんぐう館」で式年遷宮についてお勉強をさせていただきました。


遅めの昼食&デザートを済ませたのち、本宮へ移動。


皇室の御祖神の天照大神が御祭神の皇大神宮(内宮)です。
手入れの行き届いた参道を進み正宮へ。下記の横に正宮があります。


無事、伊勢参りを済ませたあとは「おかげ横丁」へ。





日本人のDNAに刷り込まれている自然崇拝をはじめ、あらゆるものに神が宿っているその美しい心。他人を思いやり、慈しむ心。悲しいことにどんどん忘れている。本当に恥ずかしい事です。いかに生きるか・・の問いに対して神道があり、いかに死ぬかの問いに対して仏教があるようにおもいます。決してそれだけではありませんが、あたりまえの事をあたりまえに行う事が欠けているように反省してばかり。





2025/06/27

大阪四ツ橋 新町廓

        絵師 一鶯斎芳梅の浪花百景四つ橋の浮世絵です。
今の四橋は長堀通りと四橋筋が交差する大きな交差点ですが
昭和35年以前までは長堀川が流れていました、西横堀も昭和40年前後に
埋め立て照られて完全に姿を消しましました。

当時は河川が直角に交差する場所であるだけに、その水流は激しい箇所が
あったらしく上方落語 辻占茶屋では心中を偽装する場所になっています。

現在の四ツ橋の交差点東側に、記念碑が残されており
当時存在していた橋、上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋が描かれており
そのモニュメントがあります。

涼しさや 四つ橋を 四つわたりけり 小西来山
後の月 入りて貌よし 星の空 上島鬼貫


絵師 一養亭芳瀧の浪花百景 新町郭中九軒夜桜の浮世絵です。
現在のオリックス劇場前の公園あたりにあった日三大遊郭の一つ。新町遊郭です。
(京の島原、江戸の吉原、上方の新町)
絵の右側土手には桜が咲き、とても美しかったようです。また左側にはズラッと
揚屋が軒を連ねている様子が描かれています。


現在は寂しくも歌碑がぽつんとあるだけで、「加賀千代女」が読んだ
【だまされて来て 誠なりはつ桜】がありました。
また、この地から南へ100メートルあたりに、歌舞伎役者「初世 中村鴈治郎生誕の地」の
碑があり、彼は、この新町廓の揚屋【扇屋】で三世中村翫雀の子として生まれたそうです。


https://sweet-mikan.blogspot.com/p/blog-page.html



2025/06/07

北畠顕家卿之墓参拝

 先日、吉野神宮へ参拝してから後醍醐天皇をはじめとした北朝方の興味が止まらず、北畠顕家を主祭神とした阿倍野神社へ。そして今日は享年21歳でこの地で絶命したお墓を参拝してまいりました。

天王寺から阪堺線・・ちんちん電車に10分ほどの地にある「北畠」下車。東へ徒歩5分程度。メガネの愛眼の向かいにある「北畠公園」にあります。

長い間、その存在は知っていましたが興味が持てなかったことから訪問することを躊躇っていましたが、先日来より急に興味が出て、今日の機会を得ました。


昭和3年7月に北畠顕家卿顕章会を興し墓域拡張修築の為に篤志家の寄付を勧奨し、某額5,400円を得たり。依て年次祭典を行い墓域隣接の民家並びに宅地買収し、以て浄化構築を図らい、時は恰も大阪市に於いてその買収に係る宅地32坪8合と残余1,200円を以て事務所6坪を建設し之を大阪市に寄付。



その墓標は湊川神社にある楠正成公の墓標と似て亀趺の上に乗り、永遠に受け継がれたいようにという願いを感じました。ただ、大変残念なことに石壁は子供たちのサッカーの練習に使われ、入口周辺は消して美観に優れているとは言えず。残念な思いです。
生まれ育った地域に根付いた歴史や伝統にどんな形で触れ合っても良いしどんな形で出会っても良い!そう!きっかけはなんでも良いからまずは知ることの興味から始まってほしいものです。