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2025/06/08

京都伏見 橦木町・・

京都山科に隠棲した大石内蔵助。 仮名手本忠臣蔵7段目祇園一力茶屋の段。実際はこの伏見橦木町郭のよろづやで興じたらしい。

当時のお住まいのあとは、「大石神社」なので徒歩90分程度、およそ8km程度。籠を使われたのかもしれませんが、稲荷山超えは相当大変だったとおもいます。




カナートモール伏見の裏手あたりなので、駐車場から徒歩5分程度。



2025/05/18

2025 05/18 阿倍野神社〜北畠顕家

 先週、吉野神宮へ参拝した際に宮司さんから質問をされました。「後醍醐天皇にどんな印象を追っていますか?」・・大変難しい質問です。
金峯山寺、吉水神社、そして如意輪寺を参拝し、後醍醐天皇の苦難の道のりと負けない心、そして「不撓不屈」の心を学びました。その理想を叶えるべく尽力された楠正成をはじめ北畠顕家など多くの有力な方々に支えられたということは、大変な魅力のあった方なのだと推察いたします。
私が生まれ育ったこの大阪の地、まだまだ知らないことがいっぱいと気付かされたのは今回訪問いたしました「阿倍野神社」です。後醍醐天皇に使え、足利尊氏軍とこの阿倍野の地で戦をまじえわずか21歳で命を落とした北畠顕家をお祀りしている神社です。

なかなか行きにくい場所にある神社という印象でしたが、実は駐車場ありのわかりやすい場所にあります。今回は天王寺から出ているちんちん電車「北畠」から15分ほど歩きました。
土地柄、大きな家が多い場所と住吉高校を通り過ぎると大きな鎮守の森が見えてきます。



NHKの太平記が放映されたとき、この北畠顕家さんを演じたのはなんと「ゴクミ」!
相当な美形であったのでしょう。


鎌倉幕府を倒し、天皇集権国家を取り戻した後醍醐天皇。しかし皇位継承における持明院統と高台寺統のいざこざから、南朝、北朝樹立・・建武の新政における理想とのギャップ、2度に渡る島流し、比叡山、吉野山へでの政治等・・。いろんな出来事で苦しんだ主君を支えた家臣たち。




阿部野神社の境内には、物事を興し成功へ導く「旗上稲荷社」、芸能関連の上達を祈る「旗上芸能稲荷社」他、数多くお祀りしています。

いままで、幕末関連に興味をもっていましたが、この南北朝時代を挟んだ、鎌倉時代と室町時代の面白さに気づいたかもしれません^^


2025/05/12

2025 05/12 吉野散策〜吉野神宮・金峯山寺・吉水神社・如意輪寺

私の飛び石GWは今日が最終日。ということで日頃参拝できない「吉野神宮」へ行ってまいりました。
当BLOGで何度か登場した後醍醐天皇、楠正成や建武の忠孝、鎌倉幕府、足利尊氏、南北朝時代・・・等、私の理解の及ばぬ時代。でも君臣湊川をはじめ時代を大きく動かした素晴らしい概念は私のポリシーでもあります。
誰しもが考えが行き詰まったときに救いを求めるのは至極当然。そんなときに「不撓不屈」の精神を与えてくださったのが今日、参拝させていただいた「吉野神宮」です。






武士の世を改めるべく鎌倉幕府を倒し建武の忠孝、新政をおこなうも足利尊氏の北朝と対立。後醍醐天皇は京都から抜け出し、吉野に逃れ南朝を興し以降、南北朝時代は、約60年にわたって続き、後醍醐天皇の死後も、南朝は存続。足利義満の南北朝統一まで続きました。

後醍醐天皇は吉野に移り僅か3年で病により崩御されましたが以降60年以上が吉野を中心に南朝がつづきました。

この一目千本と言われる吉野山から、いつか京都へ戻り復権するんだ!そんな気持ちであったことでしょう。

身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん

吉野神宮も当尾陵も北を向いてい作られていました。

如意輪寺の上部にある後醍醐天皇陵は、若葉薫る緑でイキイキしてました。その陵の前で「不撓不屈」でいられるように手を合わせました。


※神社の参拝の方法には色々ありますが、後醍醐天皇が南朝を開いた書院のある吉水神社さんは初の参拝方法でした。






2025/04/19

東京散策 忠臣蔵考

 所用があり東京へ。

まずは久しぶりの泉岳寺さん。亡き主君の無念をはらさんと四十七士が松阪町吉良邸へ討ち入った史実。そして御首を上げたその後、この浅野家菩提寺の泉岳寺の殿のお墓の前へお供え、その後、一同切腹するはずが、残念ながら切腹は叶わず、それぞれ各邸へお預けとなりました。

神妙な気持ちで四十七士のお墓へお参りする際に、あら?強制的にお線香を購入?300円?特に惜しいことはまったく無いのですが、なんか違うような。。微妙な心境になりましたが、丁寧に各墓標にお線香を手向け手をあわせてまいりました。



いつもは早朝の参拝のために開いていなかった記念館へはじめて入りました。中でも驚いたのは、「御印の受取書」。御印を泉岳寺へ預けた直後に吉良の使者より御首を返してほしいとの使いがあったことから二人の僧が本所吉良邸に届けた際の吉良側の受取書の現物が展示されています。この泉岳寺の裏手には、大石内蔵助が切腹された場所が、マンションの入口の一角に石碑としてみることができます。

場所を変え浅野内匠頭が切腹された場所へ移動。


おそらく、名物なのでしょう。「切腹最中」を頂きました。

上品な最中の皮に包まれた粒あん仕立てのお団子が入っています。


他にも数か所巡りましたが赤穂浪士関連であれば、本所松阪吉良屋敷跡へ。
今では小さな敷地ですがという地はこのあたり一体の広大なお屋敷であったことは
言うまでもありません。御印を洗ったと言われる井戸や稲荷神社さん、木造などがありました。


今回は他にも、神田明神さん、浅草寺さん、耕書堂跡地、皇居と十指公園を訪問。東京エリアは見どころがいっぱいですね。

さて、「忠臣蔵」をご存知の方はどれくらいおられるのでしょう?おそらく今の40代位を境にして知らない方のほうが多いかもしれません。戯曲として最大数、かつありとあらゆる分野に影響を与えたのがこの忠臣蔵だと思います。
もう、年末に新しく作り直されることもなく昔の映画を再放送する程度。わずか2時間程度の映画サイズでは丁寧に描かれることもなくまた、1年をかけてエピソードを描くにはコストがかかりすぎるからもう現代では無理かもしれませんね。
なぜ、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけたのか?真相はわかりません。また、その処罰として即座に切腹、お家お取潰し、城明け渡しという厳しい処分が降り、お家再興も叶わず・・そして家老の大石内蔵助らは翌年の年末に主君の無念を晴らそうと吉良邸に討ち入り、御首をあげて、墓前にお供えをし・・数カ月後、1名を除き全員切腹する。。
現代の感覚だと、おもいっきりテロ行為で許されるものではありません。しかし、仇討ちの感覚は古来の日本には根付いており、ようやく明治6年に「仇討ち禁止令」が発布されています。
また、日本人の根付いている感覚を恐れて第二次世界大戦後のGHQは忠臣蔵の放映や上演を禁止しています。
敵討ちはけして称賛されるべきものではありませんが、日本人ゆえの「血の記憶」が、正当性を叫ばすのかもしれません。無念を晴らすために、町人や商人に身を変え耐えて偲んで成就するそんなノスタルジックな部分が私を熱狂させるのでしょう。フィクションだけど「天野屋利平」「赤垣源蔵徳利の別れ」「三村の薪割り」「高田馬場の仇討ち」や「最後の忠臣蔵」や「決算・忠臣蔵」なんかも大好きです。
きっかけはなんでもいい。だからぜひ忠臣蔵に興味をもつ方々が増えることを切に願っています。


2024/12/14

忠臣蔵におもう。

 なんど、この忠臣蔵をテーマにBLOGを書いたことか。

先日TVでインタビューされていた方が、「忠臣蔵って鳥貴族みたいな居酒屋チェーン?」って答えたのを見て愕然としました。

このキーワードを知っているかどうかの年代別ボーダーラインは45歳前後との事、きっかけは何でもいい・・どうぞ忠臣蔵に興味を持っていただきたいものです。





これだけ大規模なテレビドラマはもう制作できないのでしょうね。おそらく莫大なコストがかかる割には視聴率が取れない・・・商業主義であるかぎに難しいでしょう。だからこそNHKが赤穂義士本伝・銘々伝・外伝をきっちりと描いて日本の財産となるようなドラマを制作してほしいものです。
文楽、歌舞伎、演劇、ドラマ、映画、落語に講談、浪曲・・こんなにHITしたのにすっかり忘れ去られている忠臣蔵。
忠義の心と義理と人情の板挟みで揺れ動く様々な人物像は日本人ならわかるはす。こんな荒んだ世相だからこそ描いて欲しいものです。

2024/11/17

勧請縄

 滋賀県野洲市にある「行事神社」で見られる勧請縄。

神の領域を思わせる静かな佇まいを感じさせる領域。

見事というほか‥言葉が見つからない。

https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/414/






2024/04/26

浅香山のツツジと浅香山稲荷神社さん

 この先の見えない休暇中に、いままで行きたくてもなかなか行くことができなかった場を巡っています。
今日は、この時期ならではの場所「浅香山のツツジ」です。浄水場の通り抜けは来週からですが、その横になる緑道はすでに見頃でした。

JR阪和線「浅香」下車 徒歩10分程度。








さて、別のBLOGに掲載している内容を再掲載。
この浅香駅のすぐ南にある神社のお話です。

今の大和川の流れを確認してみてください。
柏原市の石川合流地点からまっすぐ大阪湾には流れこんでいないことがわかります。
なにがあったのでしょう。相次ぐ洪水の回避で北に流れていた大和川を西に変えた際にどうしても迂回する必要がでてきたようです。



もともとこの松原の地域には古代からの灌漑のために、ため池が多くありその中のひとつの依羅(よさみ)池を利用することで大和川の工事計画を立て着工しましたがこの浅香山のふもとの工事に入った際に不思議なことが相次いだそうです。



一日の予定通りの工事を終えても、翌日にはなぜか元通りに復旧。。。。


また道具がこわれたりする事故が相次ぐことからこの浅香山を迂回することで回避したそうです。
※工事を遂行した中甚兵衛氏の家に狐が武装して襲ってきたり、この浅香山に古くからの伝承である狐の話があります。

 奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えられた。

 城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。



 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、
と伝えている。
太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。

 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。

この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。



 時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。

 後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。 尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。  
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。