久しぶりに九度山を訪問、
ちなみにはじめての訪問は2008年5月で、



フランス風懐石料理中華風・・・お寺や神社が大好きです。 大阪市内住人です。尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん ・・
久しぶりに九度山を訪問、
ちなみにはじめての訪問は2008年5月で、



様々な観光名所にいくと「明治天皇聖躅の碑」に出会えるときがあります。これは明治の世となり近代国家を目指したことをきっかけに天皇の役割が変わったと思っています。
明治天皇の父の孝明天皇は1831年生まれ、16歳の弘化三年(1846年)に即位。ちょうど幕府はアメリカからの鎖国解除の要請で幕府内の意見が揺れ動いていた時期。そして孝明天皇の崩御から明治天皇のご即位。この時わずか満14歳。
1868年(慶應4年)9月8日に「明治」と改元され、この年の慶応4年が明治元年となる。
明治元年(1年)旧暦9月下旬~10月中旬の23日間に京都御所紫宸殿(下記画像)を出立し陸路東海道で東京へ巡行。岩倉右大臣はじめ3千人以上。
そういえば、いままで様々な観光地等へ行った際に「「明治天皇聖躅の碑」を見かけたことがありました。
第一回目は偶然にも通った西成区天下茶屋公園。
明治11年8月30日から11月初 旬の72日間にわたって上信越から北陸へ5回目の巡行をされています。往復いずれも陸路を用いて岩倉右大臣、大隈、井上参議以下300人、警官400人と大規模。
この場所をさがすのに相当苦労しました。
細い通りにある石材店さんの裏側です。実はこの細い道は旧中山道であり、本陣宿であったと思われます。
(有)森石材店 〒520-2315 滋賀県野洲市辻町264
1878年(明治11年)10月12日と10月21日、明治天皇は森六兵衞宅で休憩されています。
この場所から国道8号線を北へ進むと【道の駅 竜王かがみの里】(〒520-2573 滋賀県蒲生郡竜王町鏡1231−2)に到着します。
この竜王の地は【源義経元服の地】であり、また【平家終焉の地】でもあります。詳しくは下記をご参照ください。
明治11年10月12日
鏡村 辻熊次郎宅御小休⇒道の駅脇の小道沿い
辻町 森六兵衛宅御小休⇒森石材店の裏庭
守山 守山小学校御小休
草津行在所 田中森之助宅御泊
という順序で巡行されています。
滋賀県には神社建築で国宝は八つあります。
大津日吉神社本殿と拝殿・東本宮本殿と拝殿・竜王町苗村神社西本殿、長浜竹生島の都久夫須麻神社本殿、野洲市御上神社本殿・・そしてこの大笹原神社本殿。
ということで参拝をさせていただきました。
8号線から細い道を5分ほど進むといきなり空気感が変わり張りつめてきます
10台程度駐車可能な駐車場があり、左右に杉の木立道を進むと、その張りつめた空気の源、本殿と篠原神社本殿(餅の宮)を拝むことができます。
さて、大笹原神社社殿の棟札で応永21年(1414年)であることが判明。そして篠原神社は応永34年(1427年)。小鳥の鳴き声と風の音以外に聞こえない静かなたたずまいの神社です。
京都三条大橋に「高山彦九郎先生」三条大橋より御所へ向かい拝礼をする「高山彦九郎先生の像」が有名で昭和59年高山彦九郎祭世話人会が建立。
一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、氣力に欠くる勿なかりしか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
一、不精に亘(わた)る勿なかりしか
日本史の中でなかなか興味を持つ事ができなかった時代が、思わぬ出来事から身近に感じる事があります。私自身、強烈な幕末史や近世史が得意だと自負している反面、戦国時代以前は不得意でしたが、先日の吉野神宮へ参拝して以降、南北朝時代や飛鳥時代等様々な歴史知識の断片が繋がりだし、それとともにとても楽しくなってきました。
毎日の日課のように撮りだめたテレビ録画をチェックしていたら「三田村邦彦さんのおとな旅あるき旅」が目に留まりました。その放映は奈良県の大和八木駅周辺で、オープニングが藤原宮跡のハスの花が咲き乱れる風景でした。一瞬に心奪われ、衝動的に出かけることにしました。
自宅からは高速道路+高田バイパスを使うと小1時間で藤原宮跡へ到着。超広大な草むらを歩きハス池に向かいましたが・・よく考えると咲いているはずがありません。テレビ収録はおそらく7末頃。。
ふと周りを見渡すと、「ここに超巨大な都があったんだ」と熱射病寸前のふらふらの頭の中になんとなく景色が見えてきました。
駐車場横にある「藤原京資料室」までたどり着きそのスタッフさんの会話を聞きながら頭の中には、20代のころに何度も読んだ「宇宙皇子」の小説の登場人物像やエピソードが、繋がりだし強烈なアハ体験!もっと知りたいという気持ちが高まりました
藤原宮は日本初の中国様式を取り入れた日本最大!北にそびえる耳成山・西に畝傍山・東には香久山に囲まれた三角形のほぼ内側に位置しています。この藤原宮の前の都は、わずか東南に位置する飛鳥浄御原宮、そして藤原宮の後が平城京となります。
空
つつしみてこの碑を陸軍航空戦士たちの霊にそしてすべての陸軍少年飛行兵の還らざる青春に捧ぐ
若鷲に捧げる言葉
昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵制度が誕生した皇誠 純真 元気 周到の校訓を旨に日夜訓練に励み操縦通信整備の分化に巣立った若者たちは祖国の危急を救うため戦乱に身を殺しその多くは蒼天の中に消えていったしかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えている日本は画期的な飛躍を続けているけれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできないなかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶るここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる
陸軍少年飛行隊和歌山県出身生存者一同
魂
歩兵第二百三十聯隊
昭和一四年八月七日歩兵第二百三十聯隊は第三十八師団隷下として編成完了同年十月から南支派遣軍として広東省付近に駐屯諸作戦に参加昭和十六年十二月八日大東亜戦争諸戦に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第六十一聯隊より兵員補充その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戦に参加昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず補給絶え弾薬糧科なきまま、尚敢闘したが部隊の被害90%を超える昭和十八年七月ニュージョージア島作戦に参加
昭和二十一年五月復員完了
礎
祖国と同胞の盾として戦野に散った三千余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐かしい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら
今日太平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い
年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがならん事を願ってここに
一碑を建てた
み魂やすらかに眠れ
鎮魂 歩兵第六十一聯隊
日本国の防人としてひたすら永遠の平和を目ざして栄えある軍旗のもと
北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ
自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ
生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に
あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ
獅子奮闘の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ
我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず
戦友の赫々たる武勲は燎然として 千戴に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等の今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた
礎の上に憤念の心情にして我らの願いを建碑にこめ
後世に遺すものである 願わくば御霊よ
此処に静まりて俱会一処の妙果を証せんことを
あゝ予科練
予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度発足以来大東亜戦争終結迄学業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨と志し単越せる技量 旺盛なる攻防精神 崇高なる犠牲的精神を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり志那事変は海鷲として渡洋爆撃の初陣依頼開戦陣頭ハワイマレー沖航空戦はその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中●なるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大●に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の国難に殉じたり祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
予科練和歌山県人会
この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保の藤の棚下にあったもので当時、兵士たちが
訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんしふるさとをしのんだのである。
終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。