一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、氣力に欠くる勿なかりしか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
一、不精に亘(わた)る勿なかりしか
橿原神宮へ参拝。北神門を出て5分ほど木々に囲まれた道を進むと左側に「瑞鶴之碑」が示す通りに50Mほど進むとそこには大東亜戦争で我が国の為に命を落とされた方々の慰霊碑があります。碑はUPしていません。。
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、氣力に欠くる勿なかりしか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
一、不精に亘(わた)る勿なかりしか
日本史の中でなかなか興味を持つ事ができなかった時代が、思わぬ出来事から身近に感じる事があります。私自身、強烈な幕末史や近世史が得意だと自負している反面、戦国時代以前は不得意でしたが、先日の吉野神宮へ参拝して以降、南北朝時代や飛鳥時代等様々な歴史知識の断片が繋がりだし、それとともにとても楽しくなってきました。
毎日の日課のように撮りだめたテレビ録画をチェックしていたら「三田村邦彦さんのおとな旅あるき旅」が目に留まりました。その放映は奈良県の大和八木駅周辺で、オープニングが藤原宮跡のハスの花が咲き乱れる風景でした。一瞬に心奪われ、衝動的に出かけることにしました。
自宅からは高速道路+高田バイパスを使うと小1時間で藤原宮跡へ到着。超広大な草むらを歩きハス池に向かいましたが・・よく考えると咲いているはずがありません。テレビ収録はおそらく7末頃。。
ふと周りを見渡すと、「ここに超巨大な都があったんだ」と熱射病寸前のふらふらの頭の中になんとなく景色が見えてきました。
駐車場横にある「藤原京資料室」までたどり着きそのスタッフさんの会話を聞きながら頭の中には、20代のころに何度も読んだ「宇宙皇子」の小説の登場人物像やエピソードが、繋がりだし強烈なアハ体験!もっと知りたいという気持ちが高まりました
藤原宮は日本初の中国様式を取り入れた日本最大!北にそびえる耳成山・西に畝傍山・東には香久山に囲まれた三角形のほぼ内側に位置しています。この藤原宮の前の都は、わずか東南に位置する飛鳥浄御原宮、そして藤原宮の後が平城京となります。
空
つつしみてこの碑を陸軍航空戦士たちの霊にそしてすべての陸軍少年飛行兵の還らざる青春に捧ぐ
若鷲に捧げる言葉
昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵制度が誕生した皇誠 純真 元気 周到の校訓を旨に日夜訓練に励み操縦通信整備の分化に巣立った若者たちは祖国の危急を救うため戦乱に身を殺しその多くは蒼天の中に消えていったしかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えている日本は画期的な飛躍を続けているけれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできないなかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶るここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる
陸軍少年飛行隊和歌山県出身生存者一同
魂
歩兵第二百三十聯隊
昭和一四年八月七日歩兵第二百三十聯隊は第三十八師団隷下として編成完了同年十月から南支派遣軍として広東省付近に駐屯諸作戦に参加昭和十六年十二月八日大東亜戦争諸戦に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第六十一聯隊より兵員補充その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戦に参加昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず補給絶え弾薬糧科なきまま、尚敢闘したが部隊の被害90%を超える昭和十八年七月ニュージョージア島作戦に参加
昭和二十一年五月復員完了
礎
祖国と同胞の盾として戦野に散った三千余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐かしい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら
今日太平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い
年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがならん事を願ってここに
一碑を建てた
み魂やすらかに眠れ
鎮魂 歩兵第六十一聯隊
日本国の防人としてひたすら永遠の平和を目ざして栄えある軍旗のもと
北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ
自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ
生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に
あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ
獅子奮闘の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ
我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず
戦友の赫々たる武勲は燎然として 千戴に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等の今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた
礎の上に憤念の心情にして我らの願いを建碑にこめ
後世に遺すものである 願わくば御霊よ
此処に静まりて俱会一処の妙果を証せんことを
あゝ予科練
予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度発足以来大東亜戦争終結迄学業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨と志し単越せる技量 旺盛なる攻防精神 崇高なる犠牲的精神を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり志那事変は海鷲として渡洋爆撃の初陣依頼開戦陣頭ハワイマレー沖航空戦はその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中●なるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大●に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の国難に殉じたり祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
予科練和歌山県人会
この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保の藤の棚下にあったもので当時、兵士たちが
訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんしふるさとをしのんだのである。
終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。
前回のエントリーの追記として内容を独立させました。
先般、岡山倉敷のアイビースクエアに宿泊する機会がありこの地に倉敷代官所があったことを知りました。ということはあの幕末に起った倉敷浅尾騒動の現場!
背景となった慶応2年は幕末史の中でも大きく歴史が動いた年の一つ。龍馬が襲われた寺田屋騒動や第二次長州征伐の最中に徳川14代将軍の家茂が亡くなり徳川慶喜が15代将軍となる。そんな年の4月に倉敷浅尾騒動が起こる。
前日に訪問していた山口県柳井市・上関町と所縁のある第二奇兵隊が、アイビースクエアの地にあった倉敷代官所を襲撃。その3日後には倉敷の北部にある浅尾藩陣屋を襲撃。長州藩は幕府との揉め事をなんとか
回避しなければならない時期、木戸孝允(桂小五郎)は事態を収束させるために、兵を逮捕、捕縛させる指令をだした。おそらくこの時の第二奇兵隊の一部が上関白浜で処刑されたのでは?と推察しています。という記事を書きましたが今回は少々補足してみます。
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さて、公武合体策実施後、公明天皇から「で・・攘夷はいつ実施するのか?」に対して14代将軍家茂は上洛。将軍の上洛は3代将軍家光以来229年ぶり。およそ3000人の供奉人数を連れていたらしい。文久3年2月13日江戸を出て、3月4日に二条城着。ちなみに帰路は6月13日に大阪から海路を使い、16日に江戸に到着。
で家茂は「文久3年5月10日(1863年6月25日)から攘夷を行います」と返答をする。これにより攘夷決行日の詔勅が出される。
これにより、長州藩は1863年5月に下関海峡を通過するアメリカ商船やフランスやオランダの軍艦を砲撃と同時に郷土防衛のための意思が育ち特に6月には高杉晋作による騎兵隊が著名で、各地に有志の軍が結成された。
今回の騒動のテーマとなる第二奇兵隊が1865年慶応元年に結成。
その生い立ちとして上関半島東側に位置する阿月の領主、毛利家の重鎮の浦靱負(うらゆきえ)が、家臣の子弟を教育する場所として学問所克己堂(こっきどう)を設立、第二奇兵隊は、この学問書で学んだ浦家の家臣の白井小助が中心となって結成した家臣団と、地元農民らが結集した農町民の2派があり結成当初は125名前後。熊毛郡の岩城山山麓を本拠とした際は300名余り。
1866年4月4日、隊内部での倒幕に対する考え方がまとまらず鬱憤が高まり、ついに倒幕穏健派の隊員(樽崎郷一郎)を殺害する事件が起こったことをきっかけに、幹部の立石孫一郎郎(第二銃隊副隊長兼応接係)とともに100名前後の大多数が脱走!本来はこの出来事を山口政府へ釈明に行くはずが首謀の立石孫一郎は岡山県倉敷代官所へ向かう。
この立石孫一郎は岡山県津山の庄屋生まれ、倉敷で学び、いわゆる強行攘夷派。倉敷代官所へ向かった理由は下津井屋事件(元治元年1864年12月18日)による。
当時、年寄役であった立石孫一郎(大橋敬之助)は、1859年の大凶作により津留(つどめ)が行われ藩外への物資流出が制限されたが、密かに地元の豪商下津井屋吉左衛門は他藩へ物資を流出させ大儲けをしたことが露見。立石らは1864年10月に倉敷代官所へ訴えた。しかし、取り調べの4日後に突然代官が別人となり、下津井屋吉左衛門はなぜか釈放。そして激しく立石孫一郎(大橋敬之助)を罵り罵倒した。
その約二か月後に黒装束の5人が下津井屋に押し入り、惨殺。当時犯人は不明であったがその後立石孫一郎であることが判明。立石はその後、大阪へ行き佐幕派の新選組襲撃を企むも失敗し、奇兵隊へ入隊。という経歴。彼の中では当然、下津井屋を無罪釈放した倉敷代官への恨みがあったと思われる。
4月10日早朝に代官所襲撃し、その後、観龍寺で休息後浅尾藩陣屋へ向かい、陽動作戦で襲撃成功。ちなみに浅尾藩は、1864年の禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに、長州藩を攻撃していた藩。
観龍寺と山門に残る槍傷
アイビースクエア内にある倉敷代官所跡
応援もなく立石の目論んだ倒幕は失敗、この脱退に参加していた者たちは追われる身とり、立石らは山口県光市で追手により島田川の千歳橋で殺害され、千歳橋の畔に曝される。その後、地元民が祠を立てようやく昭和10年に碑建立。(碑文:『君ハ石城山奇兵隊長ニシテ当時我藩ヲシテ速ニ倒幕ノ義兵ヲ挙ケシメムカ為掟ニ背キ慶応二年四月四日隊兵九十余人トトモニ同隊ヲ脱走、倉敷ニ出テ幕府ノ陣営ヲ打払ヒ帰国シタルヲ同年四月二十六日千歳橋上二於テ殺害サル 行年三十六歳 昭和十年四月二十五日 島田村青年団』)
その後、この隊に参加していた者らは捕縛され断罪となった。私の故郷の上関の白浜でも7人が断罪となったと考えている。
※克己堂で学んだ著名人
学頭 秋良敦之助 赤祢武人(奇兵隊第三代総督)世良修蔵(奥州陳部使総督参謀)白井小助(第二奇兵隊軍監)秋良雄太郎(真武隊総督)芥川義天(第二奇兵隊書記)坂田直亮(第二奇兵隊大砲隊長)堀江芳介(陸軍少将・国会議員)坂田昌熾(海軍少佐・国会議員)※物理学者坂田昌一の祖父