知らなかった事柄を映像を交えて教えてくれる大好きな番組「映像の世紀 バタフライエフェクト」。
今回は「台湾」について。
2021年3月に公共の場所にある蒋介石の銅像がすべて撤去された。その映像はとても無慈悲でクレーンなどの重機を使って取り壊していた。かつて中国を統治した中国国民党の指導者の銅像へペンキで落書きをされ、無惨にも首だけが道端に転がっている。
政府は独裁政治を行った蒋介石を批判した。その是非をめぐり市民は対立。200体以上の銅像が「慈湖紀念彫塑公園」に集められている。映像を見る限りなんとも恐ろしい光景です。
台湾は日清戦争により割譲され、1895年〜1945年の間、日本が統治。いわゆる植民地。戦後は、共産党との戦いに敗れた蒋介石が中華民国総統として国民党を率いて台湾にやってきた。
「我々は一刻も早く大陸の同胞を解放せねばならない 中華民国万歳!」と演説。共産党を倒すために1949年〜1987年の間戒厳令を維持、町中にはトーチカが作られた。大陸から来た外省人が、台湾出身者の本省人を統治。
本省人の娘が外省人に嫁ぐと親子の縁を切り、本省人の青年は国民党への入党を拒む。。外省人と本省人の間には根強い不信感が生まれる。
1971年に国際連盟から脱退を余儀なくされ「世界の孤児となり地球村の一員としての尊厳を失った」中華人民共和国が代表となる。
2013年に植民地時代の記録映画フイルムが多数見つかった。
「南進台湾」(国策記録映画)1937年に制作。台湾総督の小林躋造(せいぞう)が威厳ある敬礼をしている映像が映し出される。ダム、水路、灌漑用水を整備。道路、建築すべて総力をあげて発展に寄与。
当時の人口の大半を占めていたのは漢民族。17世紀に中国を支配していた清朝時代に多くの移民が入っている。山岳地帯には伝統的な暮らしをおこなっていた先住民の高砂族がいた。日本はすべての住民に対して同化政策を取る。
1937年の盧溝橋事件を発端とした日中戦争が始まると、同化政策を強化し軍人として精神修養をはじめ、皇軍としての自覚を植え付ける精神修養を目的とした国民道場を開始。名前を日本人風に改めさせることを推奨。
当時40歳の台湾作家「呉濁流」は漢民族で有りたいと願い、台湾をでて中国へ渡る。しかし、日本の植民地であった台湾から来たものへの風当たりは強く「台湾はアジアの孤児」と呼ぶ。
「台湾人は日本のスパイだと見られ嫌われている悲しい存在」、しかし戦争になると「日本人は台湾人を信用せず、日本官憲に監視されている」 苦しく辛い立場。
全土に徴兵制が開始。昭和19年9月1日全台湾に徴兵制度実施。日本国民として台湾人も戦地に送られた。のちに、台湾総統となる「李登輝」(岩里政男)※京都大学共 もいた。「1945年の22歳まで日本人だった、日本の正統な教育を受けた私の教養は日本の伝統につながっていた」
1945年9月9日 日本軍降伏調印式(南京)により、蒋介石率いる中華民国は第二次世界大戦の勝者となった。2ヶ月後、台湾を統治するために台湾に国民党軍を派遣する。
「呉濁流:50年間の植民地的桎梏から解放された島民は有頂天で喜び勇んだ」
しかし、期待は裏切られ失望した。横領、暴力、日本語禁止による失業、・・外省人と内省人という言葉が生まれた。「犬が去って豚が来た」
1947年2月27日、ついに本省人の不満が爆発、暴動がひろがる。二二八事件が勃発、蒋介石が派遣した軍隊は無差別に多数の市民を殺害してゆく。
この時期をおなじくして、本土の蒋介石は毛沢東率いる共産党と戦っていた。いわゆる第二次国共内戦(1946年ー49年)。
国民党はアメリカの軍事支援を受けていたが、ゲリラ戦を仕掛ける共産党に苦戦。ついに1949年10月に中華人民共和国が建国を宣言。蒋介石は台湾へ政府を移転。当時の台湾人口600万に100万人の外省人が移動。
アメリカ当時のトルーマン大統領は台湾に軍事援助を打ち切る宣言を行うものの、翌年1950年−53年に朝鮮戦争が勃発。トルーマンは台湾海峡の警戒監視のために部隊を派遣、軍事的な価値を見出され再度台湾への支援を再度開始した。
1951年9月 サンフランシスコ講和会議で日本は独立復権(吉田茂)、しかし植民地であった台湾の地位はあいまいなまま据え置かれる。
条文;日本は朝鮮の独立を承認し、台湾、澎湖諸島、南樺太、千島列島などの領土を放棄。
→放棄のみが書かれており返還先は明示されていない。
蒋介石:英米は私を対日講和条約から排除した。この外交は劣悪の極みこれ以上悪化しようがない。
毛沢東:我々はかならず台湾を解放せねばならない。1954年・1958年 台湾海峡危機〜毛沢東は蒋介石が実効支配する金門島に砲撃をしかける。
毛沢東も蒋介石も一つの中国という理念では一致、どちらが正当な中国か?の争いが切り広げられる。
蒋介石(国民党)♪反攻大陸去 の歌が流行。中国本土の奪還を狙う手始めとして、台湾本土に増えている共産党員の根絶を強化、戒厳令を発布し政治犯を処分。密告を奨励、大金がもらえる世相に変わってゆく。いわゆる白色テロ。抵抗の証として笑みを浮かべながら処刑場へ向かう。冤罪が増え、でっち上げが増える。
李登輝も一時期は共産党に入党した経緯から密告に怯える日々が続いた。
本土では大躍進政策により多数の餓死者が出たことをきっかけに、本土から亡命してきた者を反共義士とよび英雄扱いをすることで、共産党を心理作戦を用いて非難した。故宮博物館(当時:中山博物院)を公開し北京からの宝物を展示した。台湾南部での軍事演習から毛沢東は軍隊を台湾反対側の沿岸に集結させ、一触即発状態になる。
1964年10月に中国が核実験に成功!これにより蒋介石は本土奪還を急ぐこととなりついに1965年8月に八六海戦が始まる。(本土上陸奇襲作戦)しかし失敗におわり蒋介石は落胆。
蒋介石;海軍指揮官の無知と無能を殊に憂う
1960年半ばからGDPは10%以上の伸びで経済躍進時代に突入!これは、海外企業の下請けで繊維業や電子機器を手掛ける本省人の中小企業の働きによるもの。すでに大陸敢行ではなく経済発展に資金を投入した結果となる。政治や軍の要職から締め出されていた本省人の働きは目覚ましく経済面での活躍の場を見出した。
しかし、経済発展に取り残された退役軍人達(外省人)は肉体労働に従事するしかなく「東西横貫公路」の工事に従事した。大陸の故郷に帰ることもできず、大陸反抗が叶う日を待ち続けるしかなかった。
1971年7月 周恩来はニクソン大統領の訪中を受け入れることを表明、米中接近の流れから国連から台湾を締め出し、中華人民共和国を代表とした。翌年、田中角栄も中国との外交回復、台湾とは断絶。そんななかで蒋介石は1975年4月5日に87歳で死去した。
1979年に後ろ盾としていたアメリカからも断交を申し渡された。
台湾の歌手により「アジアの孤児」という歌が流行する。
独自の生存戦略を模索するしかなかった台湾。蒋介石の息子も独裁政治を継承、戒厳令、言論統制を続ける政府に対して40年前の二二八事件が蒸し返される。
退役軍人の外省人からも不満が吹き出す・・ついに1987年7月に40年間続いた戒厳令が解除され、本土への親族訪問が許されたがすでに故郷の景色も変わり、自分の住んでいた場所も知人もいない。
1988年1月 李登輝が総統に就任、ついに本省人による政治が始まった。民主化へのうねりが大きくなり、李登輝は学生たちとの対話を重視、圧倒的な支持を集め民主主義を突き進める。
TSMC(半導体のシェア60%)が台湾経済を牽引、本土ではなく経済で世界を圧倒させる方針。
台湾との国交はわずか12カ国、しかし貿易相手国は190カ国以上。それが今の台湾。
映像の世紀バタフライエフェクト 激動アジアの隣人たち
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私からすれば、中国人も台湾人も同じに見える。同じように我が強く大声で話す。
日本はどうあるべきなのか?今の若者には日本人の日本人たる誇りはあるのか?
外省人や本省人、国民党と共産党・・日本もかつては戊辰戦争で内戦が勃発した時期があるが1年半程度。そもそも中国は権力争いを基盤とした陥れ合戦。。日本はそうではない。互いを信じ、性善説に基づいた国民のはず。たぶん、解りあえないとおもう。






















