◆北陸東海御巡行
明治11年8月30日に青山御所(青山御用地)ご出立されていますが、なぜ青山御所だったのか?これは東京への奠都されたときには、江戸城本丸御殿は6回目の火災で消失していたために、西の丸御殿を臨時の皇居として使われていたため。
この西の丸御殿は1873年(明治6年)5月5日に奥女中の失火により全焼!
この明治6年は旧暦を新暦に定めた年(明治5年12月3日⇒明治6年1月1日)で変更した12月分は不支給、しかも明治6年は閏年なので本来は13か月分の給与が必要でしたが新暦になったので1か月分の負担が無くなった。
当時の日本は国費財政が大変厳しく国内は征韓論や地租改正法(米から現金へ)やまだまだ国内の政治は混乱を極めた時代。
もちろんすぐに新宮殿造営計画が盛り上がりましたが明治天皇は勅語を太政大臣三条実美に伝え、計画を却下見送りとしました。
「朕前日同禄の災に遭い、宮殿之が為に蕩書すと雖も、いまや国用夥多 の時に際し、増築の事固り之を亜にするを希わず。朕が居室の為に民産を損し黎庶を苦ましむること勿るべし。汝実美其れ斯意を体せよ」
この赤坂離宮はもともと旧紀州徳川家の中屋敷でわずか15畳一間だったそう。
江戸城西の丸の再建は明治17年に着工し明治22年に竣工され明治宮殿と呼ばれこの地で大日本帝国憲法発布式が行われました。※でも昭和20年(1945年)5月に東京大空襲で焼失しちゃってます。
さて、木之元地蔵堂へは明治11年10月10日に行幸。資料には次の行に下記の記述もありました。⇒水戸藩士武田伊賀守等411名の墳墓に祭典費を賜う、墳墓敦賀にあり
水戸藩士武田伊賀守は水戸天狗党の武田耕雲斎。実はその直前に明治天皇は武田耕雲斎らが祀られている敦賀市の松原神社へ祭祀料を下賜。そのまま水戸天狗党が通ったルートを巡行、木之元に着かれたのでしょう。














































