大阪の春の風物詩「造幣局の通り抜け」。今のようなインバウンドが盛んではなかった頃は、通り抜け期間中であれば何時行っても入ることができましたが、数年前から予約制となり、申込みの日となると、申込みページにアクセスが集中してなかなか予約が難しくなりました。それでもできるだけ毎年参加するようにしています。
さて、この造幣局の通り抜けのときにいつも目にしていながらなかなか訪問する機会のない施設「造幣局博物館」に行く機会に恵まれ、もちろん今回も「明治天皇聖躅」に出会ってまいりました。
江戸時代を舞台としら映画やドラマ、落語や講談にも出てくる様々な貨幣単位はどうも馴染みがないのでわかりにくいものです。その上、幕末に諸外国との貿易が始まると、その為替の不平等さにより、貨幣や様々なモノが流出し国内物価が高騰、幕末には様々な藩だけで使える藩札や金、銀、銭が入り乱れ、含有量も徐々に減らしていった貨幣が登場、日本経済はとんでもない状況に見舞われ、少しでも早く、貨幣の統一が必要な状態でした。
ちなみに江戸経済は金貨の両目で両・分・朱。上方経済は銀貨の両目で貫・匁・分・厘・毛。
銀貨十分で1匁、千匁で1貫。金貨は四朱で一分、四分で一両。元禄年間より金一両は銀六十匁で銭四貫文と定められたが金銀は相場性。そこで幕末に銀目廃止の令が出たことで銀目の手形を持っている商人は両替屋仁殺到、大阪経済は混乱をきわめたそう。※百年の大阪第1巻幕末維新 昭和41年 浪速社発刊引用
さて、明治天皇は明治5年、明治10年、明治31年の合計3回この地に来られており、造幣寮の応接所として建てられた西洋式建築へ明治5年の6月4日から7日に滞在。6月6日に明治天皇が「泉布観」と命名されています。また、2回目は明治10年2月14日から16日に滞在。さらに、明治31年には陸軍特別大演習統監に際し、11月19日に行幸されています。
※明治20年に昭憲皇太后(明治天皇の皇后)行啓、明治24年に英照皇太后(孝明天皇の女御)行啓、明治36年に昭憲皇太后が行啓。
広大な土地と物流を背景とした川があることなどを考慮し、この天満川崎の地が選ばれ、建築が進められたが途中で火事がおこるやら、海外から購入した資材を積んだ船が難破するやらで前途多難。アヘン戦争で香港に建設した造幣工場が廃止となることをきっかけに6万両で資材を買い受け、以降華々しく東洋一の造幣寮の開業式は明治4年2月15日。右大臣三条実美や参議の大隈重信、大蔵卿の伊達宗城ら政府高官38人、イギリス公使のパークス氏、フランス公使ウオートレーら使臣57人、地元の名士や外人職員220人!文明の進歩を表明するこの式典に乗り込んできた政府高官は烏帽子姿の衣冠束帯!ちょんまげ姿の侍らも入り乱れたなんとも不思議な写真が撮られています。
天保山沖の各国軍艦の祝砲と大阪城からの礼砲、式典後の西洋流の祝宴が繰り広げられたそう。
造幣には、金属を鋳造する機械技術、硫酸やソーダなどの薬品を作る精密など様々な知識が必要とされお雇い外国人の力を借りるしかない状態から開始、徐々に日本人だけで貨幣が作られる様になっていきました。




















































