明治新政府となって急務は北海道の開拓でした。それは豊富な資源がある上に、ロシアの圧力を感じていたから。
そこで明治2年7月にフォーレスケプロンら外国人を雇い、開拓使が創設され北海道の開拓に乗り出した。開拓使は明治15年2月まで続き様々な産業を民間に払い下げ。これでまた一悶着がおこる。
さて、明治政府は開拓を応募と強制的に参加させる藩をピックアップ。合計24藩の参加となった。実際はどこの藩でも、開拓どころではない為に各藩はやるき無し・・。
さて、映画となった『北の零年』のモデルとなった『稲田家』について記載してみる。
稲田家は徳島藩蜂須賀家の家老の家。淡路の洲本が本拠地。蜂須賀家の家来5000人の内、半分がこの稲田家の家来であり、蜂須賀家からすると陪臣。尊王派。徳島藩は佐幕派・・様々な確執がおこってくる。
大名ではないので参勤交代も無く、名産の藍玉や米等の売買で資金力が豊富。様々な活躍で文久3年に天皇より杯を頂戴する栄誉を与えられる。また、明治3年には錦の御旗の番をする役もあたえられ、西宮警備役など、その信用の厚さが伺える。
さて『岩根静一 北海道移住回顧録』を参照すると色々な事実がわかる。
版籍奉還が行われ、陪臣は卒族、武士は士族となった。もちろん稲田家の家来もすべて卒族となり、しかも蜂須賀家へ直属となるように命令が下った。これは
稲田家の繁栄に対するやっかみがあったわけで、実際に明治維新で最前線で戦ってきた者が卒族となることに当然不満がでる。
そこで稲田家は洲本を藩として独立したい旨を申し出たが、却下。徳島藩は歩み寄りを見せたものの、結果ぶち切れ!
明治3年5/13に洲本城下の稲田藩を襲い多数の死者を出す事件がおこってしまった。(庚午騒動(事変):『お登勢』船山馨著)さて、この事件を重く見た政府は、稲田家は徳島藩では無く、兵庫県に属することを指示。そして北海道開拓の静内を与えるということを名目として旅立つこととなった。
映画では、ここから始まる。
明治4年4/13に第一弾が洲本を出発。5/1に静内へ到着。
元々静内には幕府の会所があったので開拓の足がかりと決めたわけだが、温厚な洲本育ちの武士達が始めてみた北海道の風景は「山の頂に見える白いものは雪ではなく雲と勘違い」その気候の厳しさに「老幼婦女は海岸に打ち伏せ号泣」とある。
映画では香川照之が演じる商人が開拓に着いてきている。実際も「岡屋惣助」という商人が着いてきているがすぐに神戸に逃げ帰っている。
ところが開拓は試練続き。そこに追い討ちをかけるように不幸が襲う。
7/30には静内に建設した沢山の家々が火事で焼けてしまう。8/23には第二弾の薩摩よりチャーターした平運丸が紀州沖で暴風雨にあい沈没。80人以上が溺死する事件がおこり北海道への移住は実質打ち止めとなってしまった。
静内では開拓に専念したが、さすが武士。12月には益習館という学校を建築している。
(M8の記録では32人が在籍。朝8時から16時までが授業であった)
さて、北海道のその厳しい気候で、実際、脱落者がでていたらしい。そこでその脱落者を食い止めるために稲田家の誰かを北海道へ移住させる話が持ち上がる。選ばれたのは藩主の妹の「陽子さん」。
M6の3月28日に浅川繁が洲本までお迎えに行き5月15日に到着。そのまま陽子さんと合流し静内を目指すも途中、奥州三本松(現在の十和田湖)で赤松を手に入れ静内に植える、これは今でも100年の赤松として現存している。ちなみにM7の5/8には浅川は、陽子のお付きの「きくよ」さんと結婚した。
さて、岩根静一は静内に到着した際に野生の馬を見つけ、また実際に乗ってみたらしい。その評価は高く、その後、馬種改良に人生をかける。現在の静内は有名な名馬の産地で、オグリキャップやタニノギムレットが有名。現在、現在の静内町は洲本町と姉妹提携町。
1984年の五社英雄監督の映画「北の蛍」では北海道の月形を開拓する実話をもとに作成された。
慶応元年に福岡藩黒田家の勤皇党の弾圧で乙丑の獄(いっちゅうのごく)が起った。薩摩や長州からは同士を殺したということで目の敵にされ、結局明治新政府には誰一人として人材を送り込む事ができなかった福岡藩。明治4年7月には廃藩置県を待たずに贋金を作ったということで強制的に廃藩させられてしまう。と同時に、福岡藩の月形潔(つきがたきよし)という武士は、大久保より引きついた伊藤博文内務卿より引っ張られて内務省入りさせた。
当時、急務であった北海道開拓は沿岸部より手をつけられた。それは手ごわい気候に森林や熊をはじめとした猛獣がいたから。当時は各地でおこった動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)と、盛り上がる自由民権運動のために囚人が増加。日本に2箇所しかない刑務所は既にいっぱい(東京の小菅・仙台の宮城)そこで伊藤博文は「囚人を開拓民として使うことを提唱。」その担当者としてこの月形潔を任命した。
明治13年4月18日 横浜 4月21日 函館 そして4月29日に札幌に到着、さっそく集治監(刑務所の呼び名)を立てる場所を探し始め、黒田清隆開拓使長官があげた3つの候補地、「十勝川沿岸、石狩川沿岸須部都太(スベツブト;川が合流する地点の意味)、羊蹄山山麓」の中で、・石狩川は交通手段として活用できる・裏手には山があり脱走を阻止できる・民家が密林地帯・肥沃な大地で農耕利用可能ということで、この須部都太がまさに集治監建設地に最適と決定した。
明治13年8/7集治監の建設が開始、樺戸集治監と名付けられ、その規模は3500万坪、最大12,000人を収監できる施設。これを建設させるために40人の終身刑の者を送り込み建設に従事。そして大正8年にようやく廃止となった。
明治14年9/14には式典がおこなわれ初代の典獄にはもちろん月形潔、そして同時に月形村の村長として多くの人に慕われた。
他の作業としては石狩平野の道路工事。オレンジ色の服を着せ、2人1組で、足に鎖を付けさせた。この鎖は今でもところどころから発見されるらしく、鎖塚として各地に残っている。明治14年~大正6年までの期間で1046人が死亡。
月形は明治19年に体を壊し帰郷。明治27年48才に福岡でなくなっている。また、月形は何度も伊藤博文へ視察しに着て欲しい旨を伝えたが結局伊藤はこの地へ行くことは無かった。
この月形の地は昭和50年代に正式に刑務所を誘致したことで再度有名となった。
さて郷里に帰った月形は実は様々な事をしている。
福陵新聞を創設。これは現在の西日本新聞の前身。また九州は非常に鉄道の対応が速かったのはこの月形の尽力によるもの。いわば福岡、九州の発展に非常に寄与した方。
さてこの樺戸集治監で有名なエピソードはある。
新撰組で有名な永倉新八は明治4年以降は杉村義衛と改名しこの樺戸集治監で働いている。
また五寸釘の寅吉という脱獄名人がいた。その記録は5回。人殺し以外は大概やったというもので、
追われて逃げる時に五寸釘を踏み抜いたまま3里を逃走したそう。藤田組贋札事件で有名になった熊坂長庵がいた。
記載内容は一坂先生が話された内容を私が筆記+記憶を辿り脚色しています。