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2023/11/19

阪急少年音楽隊 はじめに

 吹奏楽は今やすっかりメジャーな存在で、中学校や高校、大学や社会人等それぞれの世代や地域を核にした団体は相当あるのでしょう。そしてそれぞれの団体には各々の歴史があり、所属していた方々が情熱を注いだ事は忘れることなどは無いでしょう。

昭和、平成、令和と時代が移り変わるとともに日本に溢れる音楽も相当移り変わり替わるとともに楽曲構成、音楽性も相当変化があり、誰しもが嗜好はあることと思いますが私はやはり最近の楽曲は苦手でこの音楽は楽しむことができないって感じ始めると頭が拒否反応を示すようです。
さて、宝塚音楽学校でのあの大変不幸な出来事についてどうしても触れておきたく筆を執りました。

宝塚音楽学校は阪急グループの創始者「小林一三翁」が築いたに他なりませんが実は姉妹校ともいえる男子校を秘書の清水雅氏が築いておりこの学校が「阪急商業学園」で、いわゆる「阪急少年音楽隊」となります。
大変厳しい統制が引かれた学園生活であったからこそ、素晴らしいサウンドと規律の取れたマーチングができたのだと実感しています。現在すでに学園の名前はなく精神のみが受け継がれているとの事ですがその学園生活はいかがなものかはかり知ることはできません。
行き過ぎた指導なのか、指導という名の暴力なのか・・決して肯定するつもりはありませんが、昭和50年前後ではまったく普通に様々な事象が行われていたのは事実です。

令和の時代に昭和チックな指導を進めるのは明らかに誤りで、お互いを思いやり、お互いが切磋琢磨し、お互いが気遣いながらというのが求められているのでしょう。
しかし、プロの世界では労働の提供と対価・条件が事細かに決められ雇用契約で縛られている以上、大きな声でNOとはいえず、その矛先を弱者に向ける事は一般的にあることとおもいます。どうぞすべてをオープンにして新しい伝統を築く努力をしていただきたいものです。

以降、不定期ながらに「阪急少年音楽隊」の事を記述してまいります。







2023/07/01

阪急幼年音楽隊 夢のたわごと

私の手元にとても懐かしい本があります。

昭和41年発行11月10日発行された「夢のたわごと」著者は清水雅氏。発行所は梅田書房で住所は阪急百貨店内となっています。

この清水雅氏は阪急百貨店社長を経て、東宝会長、東京タワー、後楽園、東京新天地、東京テアトル、千代田生命、京阪神急行電鉄、阪急不動産等を歴任、兼務。なによりもその功績が大きいのは阪急初年音楽隊の創設者であるということ。

音楽隊員は年に1度、六甲山バーベキューテラスへご招待いただき、さすがに演奏はできないので合唱を披露することが習わしとなっていました。

さて、この清水雅氏が書かれた「夢のたわごと」によると、「小林一三翁が亡くなられてしばらくして翁の書かれた書物を読んでいたら、三越の少年音楽隊を見たときの記述を発見。」

この記述を遺言と捉え運命に引っ張られるような気がしたとのこと。世界各国を視察した際の思い出をからめて阪急少年音楽隊の構想を練ったそう。

開校に向けて、三越少年音楽隊のその行き方を調べてみると音楽家となった方もいる反面、多数の方のその存在がはっきりせず少年が成長した後、正業がなくなり身を滅ぼすものもいるのではないか。だから卒業後は正業をつけて余暇に音楽をやるという形態をとりたいと思われたそう。

中学を卒業したフレッシュな音楽好きの少年を採用して三年間高等学校科目を教育し午後からは音楽の勉強をさせ、卒業後は社員に登用するという骨子を作り上げました。すると色々な企業から演奏に来てほしいという依頼が殺到したそうですが、すべてお断りされました。この音楽隊は宣伝用に作ったものではなく社内におけるうたごえ運動を作るものであったからです。

清水雅氏は小林一三翁の秘書を長らくされておりましたが1994年の12月に他界されました。

先日NHKの朝ドラで放送された「ファミリア」に焦点をあてた「べっぴんさん」の中で伊武雅刀氏が演じた大急百貨店社長は実はこの清水雅氏なんですね。

ちなみに音楽隊の中では親しみを込めて「がーさん」ってお呼びしていたそうです。