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2012/11/17

2012 11/17 歴史と人間 人物編 梅田雲浜

一坂先生の冒頭のお話は田中眞紀子文部科学大臣が世間を賑わした大学の認可問題について。
大学を開講するために準備をしてきて最終的に認可をしてもらおうとしたが田中大臣の答えはNO!そんなニュースは記憶に新しく、私もこのNEWSを聞いて「え~!それはあかんやろ!」って言った覚えがあります。しかしながら現状は、大学を立ててから許可を取るという流れの認可は形骸化しているために素通りでOKが出ている・・これは天下り先の拡大という背景がある・・・。という

田中大臣のおかげでこの事実が表面化しさまざまな議論に発展することを私も心より望んでします。あ~・・私ももっと勉強をしておいたらよかったなぁ。。。お仕事が落ち着いたら大学に行きたいなって真剣に考えちゃってます。

さて、今日は梅田雲浜さん。
幕末の歴史が大好きなのに、実は梅田雲浜さんについては〔尊王攘夷思想の持ち主で、安政の大獄で井伊直助さんの弾圧により亡くなられた方〕また松陰先生大好きな私は[幕府の取り調べの時に梅田雲浜との関係を調べられた・・・]とか[松陰さんが尋ねて行ったくらいの思想家]ってくらいの知識でした。

 
梅田 雲浜は文化12年6/7生まれ。この日とまったく同じ日に生まれた方がいる。。それはなんと・・・井伊直助さん。。なんと歴史って皮肉なんでしょう。弾圧する側とされる側。。
矢部家(150石取り)の次男として生まれ源次郎。諱は定明(さだあきら)
よく一坂先生は武家の次男坊、三男坊は大変だと話されます。長男は家督を継ぐことで世に出ることがあるけれど次男以下は努力しないと嫁すらもらえず寄生しないと生きては行けない。。
雲浜の父も50歳で隠居し家督を長男に継いだ。
 
父は雲浜に『自分で食っていけるようになれ』と教育したためか、幼少のころからお利口さんの雲浜さん。
 
15歳で小浜から京都へでて二条堺町にある望楠軒(ぼうなんけん)という塾に入る。
この塾は崎門派(きもんは)で、これは儒教のながれを汲む朱子学+神道+仏教を組み合わせた日本的な学問。この望楠軒に通うためにアルバイトをしながら雲浜さんはがんばった!
 
翌年の1830年(天保元年)は江戸へ。この年に松陰先生が誕生されているので二人の年齢差は15歳。昌平坂学問所 山口菅山に学ぶ。
 
18歳でいったん帰国するもすぐさま京都へ。ここでは医者の書生となることで医学の知識も身に着ける
19歳から26才まで江戸へいきついに山口菅山門下生の第一人者となり梅田姓を名乗ることになる。当時は蛮社の獄の時代で、言論弾圧が行われており高野長英、渡辺崋山などが捕まった時代。
 
27才では熊本藩へ行き様式兵学を学ぶ。
そして再び京都へ。
 
当時の崎門派のTOPの上原甚太郎(立斎)の娘の信子が雲浜の妻となる
 
この後、大津で湖南塾を立ち上げ、生徒には奈良五条出身で天誅組に加わった乾十郎がいる。
 
1843年(天保14年)望楠軒の講首(校長先生)となり、木屋町二条に住むが生活は苦しい。
1850年(嘉永元年)には小浜藩主の酒井忠義(ただよし:京都所司代)に海防の意見書を提出。この内容は日本の海防は小浜が中心となって見本を示さねばならず、役人を非難・・ついには自分を責任者とせよという強烈な内容。
 
この年にはいろんなことが起こっており7月には京都所司代から溜場詰となり10月には高野長英が自殺。11月には井伊直助さんが彦根藩主に。
 
1852年(嘉永2年)意見書が藩政批判ととられてしまい小浜藩をクビになった雲浜さん。比叡山の麓にある 一乗寺村へ転居した。 貧しく・・苦しい暮らしが続きます。。
 
この時のエピソードが芝居に残っているそうで、客をもてなすためにお琴を演奏する事になった信子さん。ところが琴は質屋さんにあるために自分の着ていた着物を質にいれたため襦袢姿で隣の部屋で琴を演奏したあとまた質屋へ。。。
 
そして寺町四条下る 大雲院中の 原隆院 へまた引っ越し。
嘉永7年12月には吉田松陰さんと宮部 鼎蔵さんが長崎の帰りしなに立ち寄ってきた。
この時の印象を松陰先生は兄の梅太郎さんに、「事務に長けた人」として印象を残している。
 
安政元年1月には鳥山新三郎の家で松陰先生や藤田東湖さんらと再会。東湖さんは[奇男子]という印象を残している。また三上是庵さんは[カリスマ性があるがこれが世の中の禍になるかも]という印象をのこしている。
 
そして松陰さんの密航事件では、その志を高く評価し同情を寄せている。
 
 
もともと梅田雲浜さんは尊王主義であり京都の防衛にすごく不安を感じており、京都の防衛にたいする必要性を強く説いていた。その防衛を実現するために水戸藩に打診。
ここでは高橋多一郎さんや斎藤監物(桜田門外の変)、武田 耕雲斎(水戸天狗党党首)と会うが結果はNG!福井藩へも依頼するが相手にされない。。
 
このタイミングでなんと御所で出火・・誰かが守らねばならないと考えた末に、防衛の話を奈良県十津川へ持って行く。この結果、文久3年から明治維新直前まで2000人の郷士が御所の警備を行い毎年5000両をいただくことになった。
 
そして安政元年には大阪天保山沖にロシア船に乗ったプチャーチンがやってきた。
知らせを受けた雲浜はその心境を漢詩に残している。
 
妻臥病牀兒叫飢
挺身直欲拂戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知
 
妻は 病牀(びょうしょう)に 伏(ふ)し、兒(こ)は 飢(うえ)に 叫(な)く
身を挺して直ちに戎夷(じゅうい)を拂(はら)はんと欲(ほっ)す
今朝(こんちょう)死別と生別と唯(ただ)皇天(こうてん)后土(こうど)の知る有り
 
信子さんは労咳で、子供は貧困に苦しんでいた。。。
その家庭を振り切って大阪に向かった。。。。
 
しかし天保山についたときはすでに舟は下田へ・・そして日露和親条約を締結。
 
安政2年 3/2 信子さん死去。。4/26 信子さんの母も死去。。
 
その悲しさから抜け出すために肥後藩のまつだじょうすけの紹介で大和高田のチヨさんが後妻に入る。しかし7月には雲浜は腸チフス。同月子供も亡くなってしまう。
 
やはり信念も必要だが生きてゆくためには金が必要と悟ったのか。。
 
長州藩へ向かう雲浜。この藩は他の藩とは違い皇族を先祖に持っている。
坪井 九右衛門と面会しなんと物産の交易を提案する。
紙、蝋、塩を大阪へ持ってくる←→織物、茶、薬種、木材を長州へ持ってくることに決定!
また萩で尊敬と注目を浴びた雲浜さんは松下村塾の看板を書いたらしい。
 
京都へ帰る雲浜さんについてきたのは赤根 武人さん。また門弟となった月性さんは紀州藩へ海防を説きに行く。あまりの素晴らしさに雲浜に紀州藩士にならないかとオファが入るが断ってしまう。
 
この後、井伊直助さんの条約問題が勃発。皇族との付き合いのあった雲浜さんは色んな意見を出した。そして孝明天皇より戊午の密勅が入る。
事前に情報をキャッチした雲浜さんは、京都所司代に復権していた酒井忠義に所司代を辞めるように話したがNG!
そして安政の大獄が。。。。
梁川 星巌(やながわせいがん)と梅田雲浜が捕縛されたが梁川 星巌はコレラで亡くなる。
 
安政5年12/25に江戸で捕まり翌3/12に取り調べ。そして9/14には小倉藩邸で45歳で亡くなった。毒殺という話もある。
 
尊王攘夷思想を曲げることなく、清貧な生活を行うも貿易をビジネスモデルと定着させた雲浜さん。実は12月に小浜に行く予定があります。あ・・冬の味覚体験ツアーなんですけど。。
せっかくなので梅田雲浜さんの足跡を訪ねてこようと思います。