遊郭について色々とネットを検索していたら興味が尽きないですねー。
今回初めに調べだしたのは「大石順教尼さん」の居られた堀江遊郭。
そもそもの疑問は、立地的に最大の遊郭である「新町」のすぐ側なのになぜこの場所にできたのか?でした。
堀江遊郭はWIKIによると元禄11年(1698年)に川村瑞賢によって長堀川と道頓堀川の間に堀江川が掘削されて西横堀川と木津川を結ぶ為に堀江新地の開発が始まったと書かれており、大阪最後発の街のために産業振興の手段としていろんな特権を許したと書かれています。
そして掘削した現在の北堀江の北半分が花街となり、新町に比べると娼妓主体の花街で、相撲場や人形浄瑠璃の芝居小屋も近くにあり、新町より「庶民性」を強調していたそうです。
※上の赤枠は新町、左下が堀江。赤く塗られているのが和光寺です。この地図は萬寿大阪細見図(1863年)です。
堀江遊郭ですが現在の北堀江1丁目・2丁目あたりということで和光寺さんの東側一体ということです。大石順教尼さんのおられた堀江山海楼楼の場所はわかりませんが、中川万次郎さんのお墓は四天王寺にあるそうで辞世の句は「昨日まで鬼の我をも弥陀頼み、今日より仏になるぞうれしき」ということでした。大石順教さんがお生まれになられたのは明治21年(1888年)なのでこの地図よりも後となりますが堀江遊郭は見て取ることはできません。
また同時期に建設されたのが通称《阿弥陀池》和光寺。1800坪の敷地面積を持つ巨大なお寺さんで、富くじ等のイベントが催されたそう。
本田善光さんが池から拾われた阿弥陀如来さんは物部守屋氏が堀江の浜に投げ捨てたとの事、きっとその跡地にこの池ができたのでしょうね。ちなみに1800坪っちうと3.3を掛けると5940平方メートル。100m×60mくらいなのかな?
それでは【新町】は 幕府公認の遊郭で1616年、木村又次郎という浪人が幕府に遊郭の設置を願い出、江戸の吉原遊廓開業後の1627年、それまで沼地だった下難波村に新しく町割りをして散在していた遊女屋を集約、遊廓が設置された。新しく拓かれた地域の総称で あった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。 (WIKI参照)
その後どんどん発展し新京橋町・新堀町・瓢箪町・佐渡島町・吉原町の5曲輪(くるわ)を中心として構成されるようになり、五曲輪年寄が遊郭を支配。東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川と廓の周囲には堀がめぐらされており、新町遊郭の古地図には東西方向にのみ出入り口を見る事ができます。
そして、マリア・ルス号事件(明治5年 1872年)がきっかけとなって芸娼妓解放令が明治5年に発布された後、自由往来が認められたことや松島遊廓へ歓楽地が移行したことでに商店街化していった後、大阪大空襲によって一帯が焼け野原となり消滅したということです。
続いてキタでは、北新地(1685-)・曽根崎新地(1708-)が有名です。
1685年に堂島に拓かれた新地は繁華街となり、大坂市街の北に位置したため、「北の遊里」と呼ばれた。その後、堂島に米市場が移転して来たのに伴い、遊里の殆どは、1708年に新たに曽根崎川の北対岸に拓かれた曽根崎新地へと移り、以後、曽根崎新地は、「北の遊里」「北の色里」「北の新地」と呼ばれ、米商らの遊興場所として繁栄しました。
現在の東西方向に3本の主な通りがあり、「新地本通」を中心に北から「永楽町通」「新地本通」「堂島上通」となっている。東南東から西北西に貫かれているのは、明治時代初期まで、新地本通と堂島上通の間を曽根崎川(蜆川とも言う)が流れていたため。
※赤い線が蜆川。
その曽根崎川(蜆川)は1909年に発生した「北の大火(天満焼け)」で瓦礫の廃棄場所になり埋め立てられて、1924年には緑橋より下流部の埋め立てが完了して消滅。
※天満焼け
明治42年(1909 7/31)午前4時20分に北区空心町2丁目(現扇町総合高等学校付近)メリヤス商より出火。翌8月1日午前4時ごろまで燃え続けた。延焼は福島区(現大阪厚生年金病院付近)まで到達。被災面積は約37万坪、1万1,365戸が消失した。この火災がきっかけで1910(明治43)年4月に大阪府北消防署(現大阪市消防局北消防署)が開庁した。延焼25時間。死者6人。負傷69人。面積36万坪。損害1502万4500円。焼失家屋11365戸。
南地
江戸時代から道頓堀の劇場街とともに発展。南地には細かく分けて、五つの花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)があり、それらを総称して「南地五花街」と呼んだ。
明治以降は新町や堀江に代わって大阪最大の花街となり、最盛期には芸妓と娼妓を合わせて3000人以上在籍していた。
南地五花街の場所を知りたかったが現在の地図ではわからないので古地図で調べてみた。上)萬寿大阪細見図(1863年)下)S18大阪地図。
ミナミの大火(明治45年 1912年1/16)
焼失戸数5268戸。南区難波新地遊郭、四番町百草湯の煙突より吹き出した火の子が西風にあおられ千日前から高津、生国魂神社あたりまでが焼失した。遊郭の東北西3方に延焼。死者3名。負傷者79名。損害3千万円。(日本火災史)これを機会に宗右衛門町を通る筈の市電が焼け跡を通ることとなり、現在の千日筋ができました。
この千日前の歴史を整理すると下記のとおり。
慶長20年、元和元年(1615年)大阪夏の陣以降に千日墓地が形成。
(市内の墓地整理し、焼き場を統合)
明治初年 (1868年~)繁華街の形成
明治45年 (1912 1/16) ミナミの大火
大正3年 (1914-1930) 楽天地
昭和7年 (1932-1958) 大阪歌舞伎座
昭和33年 (1958/12/1-1972) 千日デパートビル
昭和47年 (1972年 5/13) 千日デパートビル 火災 死者118名・重軽傷者78名。
昭和59年 (1984年) プランタンなんば
平成13年 (2001年) ビッグカメラ
松島遊郭 (1869-1945)
明治初年に新町が廃れていったことで、木津川と尻無川 の当時の分流点である
寺島(現在の松島公園付近)に成立。
以後、市電の便もよい松島は歓楽街として繁栄し、周囲の九条新道も都心有数の商店街として栄えたが、大阪大空襲で消滅、売春防止法施行で廃止された。
1921年(大正10年)松島の最盛期には、約4,000人の女性が働いており、
幅約12m、長さ360mの本通に面して275軒の楼閣が並んでいた。
飛田新地 1916or1918(大正5年) 開業1920(大正7年)
飛田新地は明治45年(1912)ミナミの大火を期に、大阪都心からの売春宿の一掃を狙った大阪府が難波新地甲部、乙部のうち格式の低い乙部を旧処刑場、飛田へ移転させて成立した大阪で最も歴史の浅い花街(いろまち)。貧窮した農家の娘達や、夫の虐待に耐えかねた妻が集まった。
1918年(大正7年)には既に100軒を数える妓楼が並んでおり、その数は昭和初期(1925-1989)には200軒に達していた。
1930年代(昭和初期)以後の軍国主義体制下では、芸術家、音楽家、反戦主義者や反軍国主義者の隠れ家となった。
■関連の法令
1872年(M5年) 芸娼妓解放令(公娼制度を廃止したが実効性に乏しかった)
1900年(M33年)公娼制度を認める前提で娼妓取締規則が存在。
1946年(S21年)1月にはGHQが日本中で公娼廃止を指令
1956年(S31年)「売春防止法」が施行
1958年(S33年)に赤線が廃止