左甚五郎作 眠り猫やら鳴き竜の下で手を叩いたことをうっすらと覚えています。そんな東照宮は大阪にもあったそうですが明治維新後の徳川幕府の崩壊から反徳川 豊臣再興の流れがあったのや廃仏毀釈の風潮で廃寺とされました。
元和二年(1616年)に徳川家康が没すると、その子供で江戸幕府二代将軍である秀忠は、家康を東照大権現という神様として奉り各地に東照宮という神社を建てることを命じました。
大坂では、当時の大坂城主・松平忠明が家康の他界した元和2年(1616)に建立し、瓦には葵の御紋がつけられ、川崎御宮と名づけられました。
一般の町人は日ごろはこの東照宮に入ることは許されませんでしたが毎年家康の命日である4/17を中心に5日間の間にわたって行われた権現まつりのときは特別にお参りすることができました。
※上記地図の右の赤色が川崎東照宮。左の赤色は大阪天満宮。
■川崎東照宮
皮肉にも維新戦争では長州藩の本営となり、明治6年(1873)に明治維新後の反徳川、豊臣再興の風潮で廃社になりました。(忠明寄進の灯籠が大阪天満宮のこっています)そして月日は流れ昭和57年に東光院 萩の寺の経蔵から発見された文書や絵図から川崎東照宮が廃社直前に遷座されていたことが判明。
それが萩の寺の地蔵堂が東照宮本地堂「瑠璃殿」であり薬師如来が御本地仏であることが判明、寺紋が東照宮葵紋となっています。 明治維新まで250年間続いた川崎東照宮「権現まつり」は、明治6年のその廃社後も天満六組の応援をえて、明治40年まで続けられたそうです。
■東照宮の息吹
東照宮は姿を消しましたが様々なところにその足跡を残してる事が分かりました。豊中市 萩の寺に残る地蔵堂
山号を仏日山吉祥林、寺号を東光院と呼び、天平7年(735)行基開創による曹洞宗別格寺院です。もとは大坂豊崎の里(摂津国西成郡豊崎村下三番、現在の北区中津)にあって、境内に萩多く、通称「萩の寺」として親しまれ、「南の四天王寺、北の東光院」と並び称された格式ある古刹であった。
大正3年(1914)、阪急電車敷設により現在地に移転するも、戦争にはばまれ、移転復興も中途の仮住まいを余儀なくされました。
昭和57年当院経蔵から発見された文書や絵図により、川崎東照宮が廃社直前に当院に遷座されていたことが判明した。現地蔵堂が東照宮本地堂「瑠璃殿」であり、その際文書類と一緒に発見された薬師如来が御本地仏であることがわかったのである。 それらの文書には、今は廃絶した別当寺・建国寺の名跡を継いだ当山八世大雄義寧禅師による、艱難辛苦の護法運動の結果、完遂された護持であったことが克明に記録されている。当院の寺紋が東照宮葵紋となった所以である。
瓦には葵の御紋と菊の御紋がはいっています。明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元年)3月に発した太政官布告「神仏分離令」、1870年(明治3年)の詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊のことで、神仏分離令や大教宣布は決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こし、神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われました。1871年(明治4年)ごろ嵐がおさまりましたが、元には戻らない貴重な文化財を失いました。
■大阪天満宮に移されたお堂と常夜灯
元和2年(1616年)徳川家康が没した翌年全国に東照宮を建設することとなり、大阪では造幣局のあたりに川崎東照宮が建設されました。しかし明治6年(1873年)に廃社となり取り壊されましたが当時の建築物のごく一部はさまざまな場所に点在していることがわかっています。
また天満宮の境内にある東西の登竜門には、大阪城代 松平忠明が川崎東照宮へ寄進した石灯篭があります。
■北区にある豊崎神社への分社
川崎東照宮の存在がきっかけとなって天満宮や萩の寺、また和歌山東照宮、日吉東照宮などをお参りしましたがおそらく手がかりとしては最後の地である大阪中津の豊崎神社さんに突き当たりました。
豊崎神社 伝承によりますとこの地は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮跡地で、宮の廃された後、 荒地となり、跡地一帯は松林となったため、八本松と称されるようになったという。 正歴年間(990~995)、藤原重治がこの地を開墾する際に跡地が埋滅してしまう事を恐れ、 樹林中に小祠を建立して孝徳天皇を祀ったといわれこれが豊崎神社のはじまりです。 のちには村人たちの願いにより、須佐男命が合祀された。 明和 9年(1772) 6月29日の火災により、社殿等のみならず、由来書なども悉く焼失。 豊崎神社の由緒等については定かではないといわれる。
※明和9年で有名な出来事の「明和の大火」は江戸の大火事。「明和9年は迷惑年」
この豊崎神社・東照宮のくだりは《長柄郷士詩》には下記のように記載されています。
明治五年村社に列せられ、明治四十一年四月七日大字南長柄の村社八幡神社を本殿に合祀 し、又近くにあった無格者東照宮社(徳川家康)を境内に合併し、更に同嚴島神社(市杵島姫命) を同東照宮社に合祀した。 東照宮社は慶長十九年大阪冬の陣のとき徳川家康微傷を帯び、同村足立市兵衛の宅へ立寄 りたる際、市兵衛より差出せる麥飯を食べ頗る満足その姓を尋ね足立であると答へたによ り、家康大に喜び永く足立と唱へよとて紋章等を賜った因みにより、安永五年三月旧領 主田安家へ出願許可を得て足立家邸宅内へ鎭守として崇奉祭祀したものだといふ。 境内は二千五百四十一坪を有し、本殿、幣殿、拜殿、神輿庫、神具庫、社務所等相連り、 末社に豊受皇太神宮、恵美須神社、鹿島神社がある。 鹿島神社の祭神は武甕槌命で寛永の初め、諸國に疫病流行したので常陸國から勧請し、神 輿を渡して平寧を祈ったといふ。 當時鹿島踊が盛んであったが今はない。攝津名所圖會にいふ。 ※摂津名所図会に掲載されているそうです。
つまり《東照宮》に関して簡単に整理するとこうなります。
・元和2年(1616)川崎東照宮創建
・安永5年(1776)本庄杉山の足立家邸宅内へ鎮守として東照宮が勧請
・明治5年(1872)豊崎神社が村社に列せられる
・明治6年(1873)廃社
・明治40年(1907)廃社後も「権現まつり」はこの年まで続く ・明治6年(1873)廃社
・明治40年(1907)南長柄の村社の八幡神社を本殿に合祀。同時に東照宮を境内に遷し、相殿として厳島神社を東照宮に合祀。
・昭和57年(1982)萩の寺の古文書により廃社直前に遷座されていることが判明■紀州東照宮