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2025/06/22

浄瑠璃寺と私

 思い出の詰まった地。私や私の身の回りでなにか起こったときに報告にいく大切な場所。

はじめてこの地を訪れたのは小学生。おそらく今から50年前。当時はまだ機関車が走っていた国鉄奈良線加茂駅を降りてひたすら山道を歩いて行きましたが、いまでは自宅から車で下道を走っても90分程度。駅付近は今では素晴らしいニュータウンと化してその発展ぶりには驚かされます。

当初の予定通り、今の職場は7月31日を以て満了となりこの1ヶ月近くはのんびり過ごすこととなりました。

 私の信念「武魂商才」は、いわば「是々非々」。商いは三方よしを基本に正しく仕入れ、正しく売る。お客様には笑顔になってもらえるようなビジネスが基本で、売れればどんな方法でも手段を選ばず、お客様に喜んでいただくという姿勢が希薄であれば必ず破綻する。いくら素晴らしい知識や実行力があっても組織の中に入れば、従わざるを得ないそんな才能の無駄使いの方々が多い環境ではなく、本当にネット通販で苦慮、苦戦されている会社に出会いたいと願い、報告と相談させていただきました。


真西には阿弥陀様を、真東には薬師如来をいただき此岸と彼岸を表すが如く、上生上品から下生下品の9段階を示す九品仏様がおられます。また大切な特別の思いがある吉祥天女像も。

人生の節目を迎えたら必ず訪問させていただき、時には悩みを打ち明け、時には信念を伝え、時には大切な人を紹介し、時には岐路を相談させていただく、そんな大切な場所。「浄瑠璃寺」さんです。


2025/06/07

北畠顕家卿之墓参拝

 先日、吉野神宮へ参拝してから後醍醐天皇をはじめとした北朝方の興味が止まらず、北畠顕家を主祭神とした阿倍野神社へ。そして今日は享年21歳でこの地で絶命したお墓を参拝してまいりました。

天王寺から阪堺線・・ちんちん電車に10分ほどの地にある「北畠」下車。東へ徒歩5分程度。メガネの愛眼の向かいにある「北畠公園」にあります。

長い間、その存在は知っていましたが興味が持てなかったことから訪問することを躊躇っていましたが、先日来より急に興味が出て、今日の機会を得ました。


昭和3年7月に北畠顕家卿顕章会を興し墓域拡張修築の為に篤志家の寄付を勧奨し、某額5,400円を得たり。依て年次祭典を行い墓域隣接の民家並びに宅地買収し、以て浄化構築を図らい、時は恰も大阪市に於いてその買収に係る宅地32坪8合と残余1,200円を以て事務所6坪を建設し之を大阪市に寄付。



その墓標は湊川神社にある楠正成公の墓標と似て亀趺の上に乗り、永遠に受け継がれたいようにという願いを感じました。ただ、大変残念なことに石壁は子供たちのサッカーの練習に使われ、入口周辺は消して美観に優れているとは言えず。残念な思いです。
生まれ育った地域に根付いた歴史や伝統にどんな形で触れ合っても良いしどんな形で出会っても良い!そう!きっかけはなんでも良いからまずは知ることの興味から始まってほしいものです。

雅楽と俗楽 覚書

 機内に伝わった雅楽は三方楽所として、四天王寺、奈良興福寺、京都宮内で定着。四天王寺では、聖徳太子のご命日の精霊会(4月22日)に石舞台で演じられます。管弦・舞楽・謡物に大別されます。


雅楽は楽譜における縦の線に相当するリズムは希薄というか・・無いし、メロディラインは龍笛を主に全員で奏でるために、口伝による伝承。息を如何に音色にするか?というフルートのような奏法ではなく、ノイジーな音色が求められる龍笛。テンポは一定ではない上に早くなっていく。音量は常にフォルテ等。わざとずらして叩く羯鼓と鉦鼓と太鼓・・。

今では、神社で演奏されるイメージは明治時代の日本の誤った国策「廃仏毀釈」で押し付けられたイメージに過ぎず、宗教音楽のなかでも仏教とは切り離せられないもの。明治になり俗楽が入り雅楽に対して俗楽という理念が成立したとのこと。

全員が全員の様子を把握しながら演奏されるものの、その先導者を「音頭」と呼ぶことから「音頭を取る」という言葉が広がった。他にも、「呂律が回らない」「調子が良い・悪い」「野暮」「二の句が告げない」「二の舞になる」「楽屋」なども。

吹奏楽で「能面」の中から、増女と大癋も見を演奏、また越天楽も有名だし、蘭陵王も。でしかしこれくらいしか知識のない自分に驚きました。


2025/05/18

2025 05/18 阿倍野神社〜北畠顕家

 先週、吉野神宮へ参拝した際に宮司さんから質問をされました。「後醍醐天皇にどんな印象を追っていますか?」・・大変難しい質問です。
金峯山寺、吉水神社、そして如意輪寺を参拝し、後醍醐天皇の苦難の道のりと負けない心、そして「不撓不屈」の心を学びました。その理想を叶えるべく尽力された楠正成をはじめ北畠顕家など多くの有力な方々に支えられたということは、大変な魅力のあった方なのだと推察いたします。
私が生まれ育ったこの大阪の地、まだまだ知らないことがいっぱいと気付かされたのは今回訪問いたしました「阿倍野神社」です。後醍醐天皇に使え、足利尊氏軍とこの阿倍野の地で戦をまじえわずか21歳で命を落とした北畠顕家をお祀りしている神社です。

なかなか行きにくい場所にある神社という印象でしたが、実は駐車場ありのわかりやすい場所にあります。今回は天王寺から出ているちんちん電車「北畠」から15分ほど歩きました。
土地柄、大きな家が多い場所と住吉高校を通り過ぎると大きな鎮守の森が見えてきます。



NHKの太平記が放映されたとき、この北畠顕家さんを演じたのはなんと「ゴクミ」!
相当な美形であったのでしょう。


鎌倉幕府を倒し、天皇集権国家を取り戻した後醍醐天皇。しかし皇位継承における持明院統と高台寺統のいざこざから、南朝、北朝樹立・・建武の新政における理想とのギャップ、2度に渡る島流し、比叡山、吉野山へでの政治等・・。いろんな出来事で苦しんだ主君を支えた家臣たち。




阿部野神社の境内には、物事を興し成功へ導く「旗上稲荷社」、芸能関連の上達を祈る「旗上芸能稲荷社」他、数多くお祀りしています。

いままで、幕末関連に興味をもっていましたが、この南北朝時代を挟んだ、鎌倉時代と室町時代の面白さに気づいたかもしれません^^


2025/05/12

2025 05/12 吉野散策〜吉野神宮・金峯山寺・吉水神社・如意輪寺

私の飛び石GWは今日が最終日。ということで日頃参拝できない「吉野神宮」へ行ってまいりました。
当BLOGで何度か登場した後醍醐天皇、楠正成や建武の忠孝、鎌倉幕府、足利尊氏、南北朝時代・・・等、私の理解の及ばぬ時代。でも君臣湊川をはじめ時代を大きく動かした素晴らしい概念は私のポリシーでもあります。
誰しもが考えが行き詰まったときに救いを求めるのは至極当然。そんなときに「不撓不屈」の精神を与えてくださったのが今日、参拝させていただいた「吉野神宮」です。






武士の世を改めるべく鎌倉幕府を倒し建武の忠孝、新政をおこなうも足利尊氏の北朝と対立。後醍醐天皇は京都から抜け出し、吉野に逃れ南朝を興し以降、南北朝時代は、約60年にわたって続き、後醍醐天皇の死後も、南朝は存続。足利義満の南北朝統一まで続きました。

後醍醐天皇は吉野に移り僅か3年で病により崩御されましたが以降60年以上が吉野を中心に南朝がつづきました。

この一目千本と言われる吉野山から、いつか京都へ戻り復権するんだ!そんな気持ちであったことでしょう。

身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん

吉野神宮も当尾陵も北を向いてい作られていました。

如意輪寺の上部にある後醍醐天皇陵は、若葉薫る緑でイキイキしてました。その陵の前で「不撓不屈」でいられるように手を合わせました。


※神社の参拝の方法には色々ありますが、後醍醐天皇が南朝を開いた書院のある吉水神社さんは初の参拝方法でした。






2025/05/03

浄瑠璃寺と恭仁京

 この3月20日で大好きな母が入寂し丸3年が経ちました。この木津市にある浄瑠璃寺は母の愛した古寺でもあり、私の人生の節目に必ず参拝させていただく大切な場所。今年も訪れることができました。

ご本堂の中には何百年と変わらない阿弥陀仏と吉祥天女さん、お不動さんの両脇に佇む矜羯羅童子さんと制吒迦童子さんがおられ、黙って私の思いや悩みを聞いてくださいます。


今回は大変お世話になった方と一緒に参拝させていただき、この当尾にある「浄瑠璃寺」「岩船寺」「海住山寺」「恭仁京跡」などをじっくりと巡らせていただきました。
新緑の美しい季節に、歴史と伝統ある当尾地区へは、私が小学生の頃にはじめて来たときからすっかりと様変わりし快適で便利になりました。たしかに道中は変わりましたが社寺の空間は変わることがありません。また様々な仏像、磨崖仏は何一つ変わることがありません。

いずれのお寺にもある仏塔もそれぞれ趣が異なり心を惹きつける魅力があります。
特に、海住山寺さんへは、参拝を思わず躊躇ってしまうくらいにい道が細かったのですが、専用道路が敷設され安心して行くことができます。
その昔、ユースホステルをされていたときに利用させていただいた記憶があります。




この当尾は恭仁京を含む歴史ある地域で、話題の平城京の次に遷都された場所がこの恭仁京で紫香楽宮をへて難波宮後期へと繋がっていきます。

何度か訪問にチャレンジしましたが車を駐車することができず断念、今回はじめて来ることができました。高低差の少ない広大な野原が一面に広がり、およそ1300年前はこの地が日本の首都だったとおもうと驚きです!


また会える日を楽しみにしてこの地を後にしました。

2025/04/19

東京散策 忠臣蔵考

 所用があり東京へ。

まずは久しぶりの泉岳寺さん。亡き主君の無念をはらさんと四十七士が松阪町吉良邸へ討ち入った史実。そして御首を上げたその後、この浅野家菩提寺の泉岳寺の殿のお墓の前へお供え、その後、一同切腹するはずが、残念ながら切腹は叶わず、それぞれ各邸へお預けとなりました。

神妙な気持ちで四十七士のお墓へお参りする際に、あら?強制的にお線香を購入?300円?特に惜しいことはまったく無いのですが、なんか違うような。。微妙な心境になりましたが、丁寧に各墓標にお線香を手向け手をあわせてまいりました。



いつもは早朝の参拝のために開いていなかった記念館へはじめて入りました。中でも驚いたのは、「御印の受取書」。御印を泉岳寺へ預けた直後に吉良の使者より御首を返してほしいとの使いがあったことから二人の僧が本所吉良邸に届けた際の吉良側の受取書の現物が展示されています。この泉岳寺の裏手には、大石内蔵助が切腹された場所が、マンションの入口の一角に石碑としてみることができます。

場所を変え浅野内匠頭が切腹された場所へ移動。


おそらく、名物なのでしょう。「切腹最中」を頂きました。

上品な最中の皮に包まれた粒あん仕立てのお団子が入っています。


他にも数か所巡りましたが赤穂浪士関連であれば、本所松阪吉良屋敷跡へ。
今では小さな敷地ですがという地はこのあたり一体の広大なお屋敷であったことは
言うまでもありません。御印を洗ったと言われる井戸や稲荷神社さん、木造などがありました。


今回は他にも、神田明神さん、浅草寺さん、耕書堂跡地、皇居と十指公園を訪問。東京エリアは見どころがいっぱいですね。

さて、「忠臣蔵」をご存知の方はどれくらいおられるのでしょう?おそらく今の40代位を境にして知らない方のほうが多いかもしれません。戯曲として最大数、かつありとあらゆる分野に影響を与えたのがこの忠臣蔵だと思います。
もう、年末に新しく作り直されることもなく昔の映画を再放送する程度。わずか2時間程度の映画サイズでは丁寧に描かれることもなくまた、1年をかけてエピソードを描くにはコストがかかりすぎるからもう現代では無理かもしれませんね。
なぜ、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけたのか?真相はわかりません。また、その処罰として即座に切腹、お家お取潰し、城明け渡しという厳しい処分が降り、お家再興も叶わず・・そして家老の大石内蔵助らは翌年の年末に主君の無念を晴らそうと吉良邸に討ち入り、御首をあげて、墓前にお供えをし・・数カ月後、1名を除き全員切腹する。。
現代の感覚だと、おもいっきりテロ行為で許されるものではありません。しかし、仇討ちの感覚は古来の日本には根付いており、ようやく明治6年に「仇討ち禁止令」が発布されています。
また、日本人の根付いている感覚を恐れて第二次世界大戦後のGHQは忠臣蔵の放映や上演を禁止しています。
敵討ちはけして称賛されるべきものではありませんが、日本人ゆえの「血の記憶」が、正当性を叫ばすのかもしれません。無念を晴らすために、町人や商人に身を変え耐えて偲んで成就するそんなノスタルジックな部分が私を熱狂させるのでしょう。フィクションだけど「天野屋利平」「赤垣源蔵徳利の別れ」「三村の薪割り」「高田馬場の仇討ち」や「最後の忠臣蔵」や「決算・忠臣蔵」なんかも大好きです。
きっかけはなんでもいい。だからぜひ忠臣蔵に興味をもつ方々が増えることを切に願っています。


2024/12/14

忠臣蔵におもう。

 なんど、この忠臣蔵をテーマにBLOGを書いたことか。

先日TVでインタビューされていた方が、「忠臣蔵って鳥貴族みたいな居酒屋チェーン?」って答えたのを見て愕然としました。

このキーワードを知っているかどうかの年代別ボーダーラインは45歳前後との事、きっかけは何でもいい・・どうぞ忠臣蔵に興味を持っていただきたいものです。





これだけ大規模なテレビドラマはもう制作できないのでしょうね。おそらく莫大なコストがかかる割には視聴率が取れない・・・商業主義であるかぎに難しいでしょう。だからこそNHKが赤穂義士本伝・銘々伝・外伝をきっちりと描いて日本の財産となるようなドラマを制作してほしいものです。
文楽、歌舞伎、演劇、ドラマ、映画、落語に講談、浪曲・・こんなにHITしたのにすっかり忘れ去られている忠臣蔵。
忠義の心と義理と人情の板挟みで揺れ動く様々な人物像は日本人ならわかるはす。こんな荒んだ世相だからこそ描いて欲しいものです。

2024/11/17

勧請縄

 滋賀県野洲市にある「行事神社」で見られる勧請縄。

神の領域を思わせる静かな佇まいを感じさせる領域。

見事というほか‥言葉が見つからない。

https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/414/






2024/06/21

四天王寺 舎利出

 今日21日は「お大師さんの日」。弘法大師の月ご命日ということで境内には所狭しと様々な露天が並んでいて大変な賑わいです。
 骨董品、古道具屋さんに着物等の和装や洋装等の様々な古着屋さん、雑貨、インテリア等をはじめ、お好み焼きなどの粉もんの軽食等など。それはびっくりするくりのお店の数。
目当てにご年配の方々だけではなく学生さんもちらほら。もちろんインバウンドの影響なのか、各国の言葉も飛び交っていて驚きます。

21日は実は無料で中心伽藍に入ることができます。
今日の大阪は30度超えで境内はすごい熱気ですが、不思議なことにこの中心伽藍のは、とても心地よい爽やかな風が通り抜けてゆきます。

南側から仁王門・五重塔・金堂・講堂がそびえたち、西側と東側にはそれぞれ西重門・東重門があります。

さて、「舎利出」は四天王寺さんのHPには下記のように記載されています。
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毎日、11時より中心伽藍内の金堂において舎利出しの法要を厳修しています。お舎利とは、お釈迦様のご遺骨のことを言い、このお舎利を頭に頂き、御仏のお導きを祈る厳かな法会です。同時に、ご回向・ご先祖供養が厳修され、お経木にお舎利をお受けいただけます
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昨日、はじめてこの「舎利出」を体験することができました。
金堂には救世観世音菩薩とその四方を守護する持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、壁面には 中村岳陵画伯の「仏伝図」が、釈迦の誕生から入滅までをわかりやすくそして美しく彩っています。

そして薄暗くも蠟燭の揺らめく金堂には「舎利礼文」が響いています。

一心頂礼。万徳円満。釈迦如来。 

真身舎利。本地法身。法界塔婆。

我等礼敬。為我現身。入我我入。

仏加持故。我証菩提。以仏神力。

利益衆生。発菩提心。修菩薩行。

同入円寂。平等大智。今将頂礼。

曹洞宗の我が家では、毎年の法事で聞き覚えのあるお経。。

「舎利出」は毎日朝11時より行われていますがなかなか機会がなく、参拝することがありませんでしたが、その厳かで神秘的なその儀式には感動を覚えました。
「舎利職」が救世観世音菩薩の向かって左前にある舎利塔より「南無佛のお舎利」を取り出し、供養し、参詣者の頭上に頂く儀式となります。

太子は生まれたときに左の手を握りしめたままであったが1歳になられた2月15日に東の空に向かって合掌され南無佛と唱えられました。その時に左手より仏舎利がこぼれ落ちたという。その舎利が南無佛舎利で太子信仰の中心。

四天王寺には守屋祠の謎、大阪には、上ノ太子(叡福寺),中ノ太子(野中寺)、下ノ太子(大聖勝軍寺)等、まだまだ聖徳太子に纏わる場所が沢山あります。

もちろんこの堂内は聖域につき、静粛かつ撮影禁止エリアです。

帰りはMIOの蔵元豊祝で軽くいっぱい!昼飲みが止まりませんww

2024/04/26

一心寺さん:徳川仙千代公のお墓を参拝

 数日前に訪れた「徳川美術館」。この入口に掲げられていた徳川家系図。
その中にはいくつも聞いたことのあるお名前があります。
私の母や祖父母の眠る一心寺さんにはわずか六歳で亡くなられた家康公の八男「仙千代公」のお墓があります。







心を込めて参拝させていただきました。ただ、縁故の方がは長らく来られていない様子。。

浅香山のツツジと浅香山稲荷神社さん

 この先の見えない休暇中に、いままで行きたくてもなかなか行くことができなかった場を巡っています。
今日は、この時期ならではの場所「浅香山のツツジ」です。浄水場の通り抜けは来週からですが、その横になる緑道はすでに見頃でした。

JR阪和線「浅香」下車 徒歩10分程度。








さて、別のBLOGに掲載している内容を再掲載。
この浅香駅のすぐ南にある神社のお話です。

今の大和川の流れを確認してみてください。
柏原市の石川合流地点からまっすぐ大阪湾には流れこんでいないことがわかります。
なにがあったのでしょう。相次ぐ洪水の回避で北に流れていた大和川を西に変えた際にどうしても迂回する必要がでてきたようです。



もともとこの松原の地域には古代からの灌漑のために、ため池が多くありその中のひとつの依羅(よさみ)池を利用することで大和川の工事計画を立て着工しましたがこの浅香山のふもとの工事に入った際に不思議なことが相次いだそうです。



一日の予定通りの工事を終えても、翌日にはなぜか元通りに復旧。。。。


また道具がこわれたりする事故が相次ぐことからこの浅香山を迂回することで回避したそうです。
※工事を遂行した中甚兵衛氏の家に狐が武装して襲ってきたり、この浅香山に古くからの伝承である狐の話があります。

 奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えられた。

 城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。



 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、
と伝えている。
太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。

 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。

この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。



 時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。

 後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。 尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。  
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。