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2025/09/28

難波八坂神社での風景

 難波八坂神社さんはなかなか大変なことになっています。

やはり「映えるスポット」っつうのでしょう。びっくりするくらいの外国人観光客であふれていました。

石碑の脇に座り込んでたり、通路をふさぎ三脚を立てて動画撮影をしていたり・・パンを食べていたり大声で騒いでいたり・・。あげればキリがないくらい。
すごく残念な気持ちでそんな外国人に厳しい態度をとってしまいました(;'∀')





タクシーじゃないのに客待ち??










実は、このあと、南方面にあるとても思い入れのある神社さんへ行きましたが、宮司さんとの会話やその態度がとても荒んでいるように感じて残念におもいました。
ダメなものはダメ!それでも「無財の七施」のようにトゲトゲしい言葉や態度はふさわしくありません。この神社さんは私の亡くなった母がとても愛していただけに名前こそ伏せますが本当に残念でなりません。そこで、おもったのがこの難波八坂神社での様々な風景です。異国の文化を単なる観光地として見るのはしょうがないことだけど、信仰の対象を冒涜する行為は絶対にしてはならない。観光客それぞれの祖国にも信仰の対象があるはず・・それを他の国から来た観光客が土足で踏みにじるようなことを見ていて黙っていますか?私は我慢できません。すべてを神社やお寺に委ねるつもりはありませんが、なんらかの啓蒙活動はしていただきたいものです。ダメなものはダメなのです。

木之本地蔵院

 北陸道木之本ICからすぐのところにある寺院。
恒例の余呉ウッディパルを利用する際は必ず手前にある平和堂さんを利用することにしていましたが、今回は待ち合わせまで1時間程度あったことからはじめて参拝させていただきました。

駐車場完備ですが、北國街道に面していることから道幅が比較的狭いので注意が必要、木之本小学校手前の駐車場に停めました。

お寺の裏手から入り正面から入りなおすと左側にご本堂・右側に6mのお地蔵様がおられます。お地蔵様のお足元には無数の片目を瞑ったカエルの像が!




奥には阿弥陀堂、その手前には明治天皇が行幸の際に立ち寄られた坊がありました。



お彼岸の期間中ということで、ご本堂の中まで参拝させていただき数々に秘仏に
手を合わせる機会を得ました。
なかでも曼荼羅図や閻魔王立像、阿弥陀如来像をはじめ三十三か所巡りを表す仏像の数々・・。
来年はさらに時間をとってじっくりと参拝させていただきたいとおもいました。


2025/09/21

ウッディパル余呉 第9回ファミリーキャンプ開催

今年で第9回目のファミリーキャプ。今年から例年通りの【ウッディパル余呉】に戻ってきました。いきなりのトリプル台風の発生でお天気が不安でしたが夕方に一時的に小雨が降った程度でほとんど影響なくBBQを楽しんできました。
※東京チームは不参加で残念・・。

このウッディパル余呉は2013年~2017年と連続。2018年は台風でロッジ倒壊で中止・2019年に開催。2022年・2023年は別会場。

ロッジは6人用と12人用の2種類。清潔に保たれている室内にはバスルームと冷暖房・流し台完備です。残念ながらwifiは無し。。
屋外にはBBQができる専用の炉があります。

食材は木之本駅近くの平和堂がおススメ。

今回は木之本地蔵堂へ参拝、素晴らしいお寺で超感動!詳細は後日UP予定です。


 




 

2日目は超ハードなアスレチック!








2025/09/01

五省と橿原神宮

 一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか 

一、言行に恥づる勿かりしか

一、氣力に欠くる勿なかりしか

一、努力に憾(うら)み勿かりしか

一、不精に亘(わた)る勿なかりしか


まったく存じ上げませんでした。畝傍山の麓にこの場所があるとは・・・。

橿原神宮へ参拝。北神門を出て5分ほど木々に囲まれた道を進むと左側に「瑞鶴之碑」が示す通りに50Mほど進むとそこには大東亜戦争で我が国の為に命を落とされた方々の慰霊碑があります。碑はUPしていません。。
それぞれに敬意をこめて合掌してまいりました。この場所はこんな世相だからこそ皆様にも参拝していただきたい。






2025/08/28

一心寺写経堂 三清庵 

私が小学生のころ、母につれられて京都大覚寺で写経をして以来、数十年ぶりの写経体験です。 
場所は大阪一心寺さん向かい側にある三清庵。
平日(水曜日以外)は朝9時~14時であれば随時体験可能。

受付で1,000円をお支払いし用紙を受け取り後、2階の写経場へ向かい、いよいよ写経開始です。およそ小一時間で書かれている般若心経の上に用紙をかぶせて順になぞっていきます。
細筆の使い方があまりにも久しぶりすぎてうまく運ぶことができず、太くなったり細くなったり震えたり。それでもできるだけ丁寧に移すことで心が少しづつ平穏になっていく気がします。



付近の喧騒を感じさせない素敵な空間でした。


一心寺


2025/08/15

大阪護国神社 みたま祭

 大阪護国神社 みたま祭へ参加してまいりました。
朝早くから多くの参拝者が来られ開催前の正午になると境内にはあふれんばかりの参拝者さんが来られていました。

本殿左右の日の丸と旭日旗の美しくたなびく中で、黙祷、そして国家斉唱のあといくつかの神事、そして80年前の正午に天皇陛下が語られた「終戦の詔書」いわゆる玉音放送の原稿が朗読されると、私の胸の中の熱い気持ちが涙とともに込み上げてきました。







昭和天皇御製   (昭和六十一年八月十五日)

この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし


つゝましく
陸軍憲兵軍曹 黒澤次男命
昭和二十一年八月十二日 上海にて殉難死 栃木県出身 三十四歲

野道の路傍に人に踏まれ、人にも見られず咲いてゐる花、それは人目を 惹く程美しくはない。そしてあでやかでもない。名なぞももつてゐない野 花、つゝましく咲いては散り、散っては咲く野花、香りなぞも人の注意を 喚起させる程の事はない野花、独り咲いては独り散る野花、なんといぢら しい可愛いつゝましい花であらう。
私はこんな花に云ひ知れぬ心の惹きつけられるのを覚える。
名もない戦場で誰にも知られず、天皇陛下万歳を絶唱して死んで行った戦友の事を思ひ出す。報道や宣伝に 浮び上った英雄ではない、一無名のインテリ兵士の友を思ふ時、私はこの 名もない路傍の野草を思ひ出す。
これでよいのだ。これが最高の美と云はなくて、なにを美と云ふべきか。
匂ひなき清香をかぐ思ひがする。
このつゝましきものに無限の涙をそゝぐと共に、無限の尊い慟哭を覚えずには居られない。

大阪護國神社社務所 令和七年八月社頭揭示




境内で、開催を待っていると「アイデンティティ」なる新聞を頂戴しました。この紙面の綱領としては下記の通り。
私たちは「天皇陛下を中心とした日本の歴史・文化」が、私たち日本民族のアイデンティティの根幹であると考えます。私たちは「天皇国日本」に込められた、民族の使命、理想、世界観、国家感、宗教観を多くの国民に啓蒙し、失われた民族の誇りを回復して、美しく、偉大で。明るい祖国に現成を目指します。

南北朝の後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成の「流れ菊水」や「七生滅國」、「君臣湊川」が幕末期に使われ、そして第二次世界大戦にも使われる・・日本のクーデターやテロは数多く行われており、乙巳の変、桜田門外の変、本能寺の変など数多く、また2.26事件5.15事件も含まれます。自分の信じた道を進むために阻害する人物を殺めることは許されるものではなく、解決の手段を暴力に委ねることは許されるものではありませんが、なによりも怖いのは、時代に流され、考えを持っていないこと。これが一番恐ろしい。
どんなきっかけでも構わないので、今の日本のあり方を自分なりに描くこと・・これが重要だといおもっています。
今日の、この法要に参加されている方々の多くは40歳以上の方々が多いように感じました。本当は20代の方々にぜひ護国神社へ参拝に来ていただき、鳥居の左右に配置されている多くの慰霊碑に手を合わせてほしいものです。なんとなくきな臭いいまの日本が有事に巻き込まれることは十分あり得る事です。隣国、周辺国が友好国だとは限らない日がやってくるかもしれないその日の為に、自分の意識を再認識してほしいと願っています。

2025/08/10

桜田門外の変 大阪の動き

大きく歴史が動いた幕末・・なかでも白昼堂々と老中を暗殺したいわゆるテロ事件が大きく歴史を変えた桜田門外の変。江戸城桜田門外で起こった事件ですが、実は大阪でもこの事件に連動していました。

戊午の密勅(幕府を飛び越えて水戸藩に直接に勅が下る)により、勅を幕府に返すのか返さないのか?返すならば天皇に返すのが筋・・いや・・返す必要はない・・・水戸藩の中で様々な論議の最中に井伊直弼が行った安政の大獄と呼ばれる時期将軍継嗣問題で井伊直弼は血筋を重んじる南紀派に対し実力を重んじる一橋派を弾圧することで、水戸の徳川斉彬を封じ込めたことで、水戸過激派がさらに過激に進むと同時に薩摩藩島津斉昭が数千人の兵を連れて上京する・・。江戸と大阪。京都で事を起こすそんなプランがドタキャン。。島津斉昭が病死し次の藩主島津久光たちは上京しなかった。。

生國魂神社の大鳥居を正面に見て左手に石碑があります。川崎孫四郎は幕末の志士で水戸藩士です。桜田門外の変における大坂での連絡役を務めた人物です。生國魂神社前で自刃を企てて翌日亡くなっています。勤王の志士と評価されて明治中期に正五位を贈られているようです。その明治の時点での顕彰碑だったのでしょうか。わかりやすい説明はなく、同じく桜田門外の変にかかわった島男也(しま-おなり)旧居跡の碑ときれいに並んでいました。こちらは生國魂神社の境内に道場を構えていた武術家だそうです。 

水戸藩士 川崎孫四郎健幹
那珂郡枝川村生まれ。農商家四男に生まれるも剣術と学問の才から水戸藩家老
安島帯刀に取り立てられ、その従者となる。安政の大獄により安島氏が切腹を命ぜられた後は、変の別動隊あとして江戸大阪間の連絡役を務める。
蔓延元年三月三日の水戸浪士による大老井伊直弼天誅の桜田門外の変後、
大阪挙兵を図るも幕吏に追われ、変の首謀者・高橋多一郎親子を逃がすために孤軍奮闘し致命傷を負い、生國魂神社前で割腹にて自刃する。
享年三十五。明治三十五年に正五位を贈位され、現在は靖国神社に合祀される。

笠間藩士 島 男也
大阪挙兵の誅議のため幕吏に捉えられ、江戸伝馬町獄にて死没。



生玉神社を出て谷町筋を南に10分ほどあるくと左手に四天王寺の西門が見えてきます。
西門を入り四天王寺学園の正門手間に下記の碑があります。

正四位高橋多一郎
従四位高橋荘左衛門 原瘞処 ※げんえいしょ⇒もともとのご遺体を埋葬していた場所




高橋多一郎父子墓

高橋多一郎は文化十年(一八一三)生まれ、水戸藩徳川斉昭に仕え、 十五石五人扶持という小身の出自であるが性利発、抜刀術も良くし、 徒士目付、祐筆、床机隊戦士等を務めていた。
安政の大獄の翌年、高橋ら水戸藩士は、藤摩藩の高崎五六らと組んで、大老井伊直弼の暗殺計画を立て、万延元年(一八六〇)三月三日、 十八名の浪士は江戸城桜田門外で直弼を襲い惨殺した。
その後、浪士は各地にて幕吏の厳しい詮議を受けることとなる。
高橋父子は四天王寺の塔頭の一つ、秋の坊の北隣にあった茶店春日屋まで逃げてくるが、もう駄目らしいと覚悟を決め、四天王寺の門内に入り、大黒堂の東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け、 後始末の費用にと六十二両を差し出し、祖先が武田信玄からもらったという貞宗の名刀を故郷へ届けるよう言い残し、時世を渡し切腹した。享年四十七歳であった。
父の死を見届けた庄左衛門はその時まだ十九歳であったが、父の後を追って自決した。 
欣司兵衛が預かった金子で墓を建て、懇ろに葬ったのがこの墓である。
明治二十四年に多一郎は正四位、明治三十五年に庄左衛門も従五位を贈られている。 (『大坂史蹟辞典』より抄出)



石碑に「怨霊消滅」と書かれている・・それくらいすさまじい切腹であったのだろうか。


四天王寺からさらに谷町筋を南へ。天王寺公園内の
大阪市立美術館のすぐ前の茂みの中にひっそりとたたずんでいます。

佐久良東雄先生の碑
当時の体制に対し衝撃を与えた「桜田門外の変」に関与し投獄されたものの、獄中で「徳川の粟は食まず」と断食され自ら命を亡くされています。

「花のあらしに散るをみて
  事しあらば我が大君の大御為(おおみため)
     人もかくこそ散るべかりけり」乃木希典書 大阪府知事安井英二撰文

昭和10年に建立さえたこの碑は忍び寄る日中戦争に対する政府のプロバガンダなのか・・それとも純粋な顕彰の思いなのかわかりませんが、今の国際社会を含めて終末に進まないように声を上げる事が必要です。


2025/08/04

和歌山県護国神社参拝 20250803

連日猛暑の中、思い立って和歌山方面へ散策に出かけました。
今年は戦後80年の節目の年。先日の大阪護国神社参拝をきっかけに護国神社に興味が高まっています。和歌山城不明門跡から入りすぐの駐車場へ停めすぐの位置にあります。

静寂な森の中に荘厳な雰囲気のこの護国神社さんも大阪と同様に戊辰戦争以降の英霊をお祀り、先の大戦に関する方々を厳粛にお祀りされています。それぞれの碑に刻まれている刻印内容を読み進めるのしたがって目頭が熱くなり、祖国のために戦ってくださった英霊の方々の御霊に合掌してまいりました。

日本人として、今、何ができるのか?私になができるのか?何をすべきなのか・・真剣に見つめるきっかけとなりました。





つつしみてこの碑を陸軍航空戦士たちの霊にそしてすべての陸軍少年飛行兵の還らざる青春に捧ぐ

若鷲に捧げる言葉

昭和九年(一九三四年)日本陸軍に少年飛行兵制度が誕生した皇誠 純真 元気 周到の校訓を旨に日夜訓練に励み操縦通信整備の分化に巣立った若者たちは祖国の危急を救うため戦乱に身を殺しその多くは蒼天の中に消えていったしかし昭和二十年夏敗戦辛苦に耐えている日本は画期的な飛躍を続けているけれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできないなかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶るここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる

陸軍少年飛行隊和歌山県出身生存者一同



歩兵第二百三十聯隊

昭和一四年八月七日歩兵第二百三十聯隊は第三十八師団隷下として編成完了同年十月から南支派遣軍として広東省付近に駐屯諸作戦に参加昭和十六年十二月八日大東亜戦争諸戦に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和十七年一月三日広東駐留の歩兵第六十一聯隊より兵員補充その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢一千余名昭和十七年三月ジャワ島スマトラ島作戦に参加昭和十七年十月十四日ガダルカナル島に上陸ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂に成らず補給絶え弾薬糧科なきまま、尚敢闘したが部隊の被害90%を超える昭和十八年七月ニュージョージア島作戦に参加
昭和二十一年五月復員完了


祖国と同胞の盾として戦野に散った三千余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐かしい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら
今日太平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い
年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがならん事を願ってここに
一碑を建てた
み魂やすらかに眠れ


鎮魂 歩兵第六十一聯隊

日本国の防人としてひたすら永遠の平和を目ざして栄えある軍旗のもと
北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ
自ら進んで国難に殉じた一万余柱の御霊よ
生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に
あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ
獅子奮闘の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ
我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず
戦友の赫々たる武勲は燎然として 千戴に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等の今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた
礎の上に憤念の心情にして我らの願いを建碑にこめ
後世に遺すものである 願わくば御霊よ
此処に静まりて俱会一処の妙果を証せんことを


あゝ予科練

予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度発足以来大東亜戦争終結迄学業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨と志し単越せる技量 旺盛なる攻防精神 崇高なる犠牲的精神を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり志那事変は海鷲として渡洋爆撃の初陣依頼開戦陣頭ハワイマレー沖航空戦はその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中●なるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大●に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の国難に殉じたり祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
予科練和歌山県人会

この円卓子は元歩兵第六十一聯隊酒保の藤の棚下にあったもので当時、兵士たちが
訓練の余暇にこの卓子を囲んで団らんしふるさとをしのんだのである。
終戦後この地に移して永くこれを保存するものである。


われわれは戦争の悲惨を身をもって知る
日本の高級平和願い子々孫々の繁栄を祈る




富国徴兵保険會社寄進の鳥居


※富国生命の創業者メンバー:初代社長




この後、和歌山城を見学。徳川八代将軍吉宗を皮切りに紀州徳川家より将軍職を輩出。十五代慶喜さんのみ一ツ橋家。残念ながら和歌山城城内や付近には耳成れず甲高い声の中国語、しかも大半のマナーが悪い。。彼らにとって旅の恥はかき捨てなのかもしれないが、郷に入れば郷に従うという心遣いはないものなのか。。。