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ラベル 寺社仏閣 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2024/12/14

忠臣蔵におもう。

 なんど、この忠臣蔵をテーマにBLOGを書いたことか。

先日TVでインタビューされていた方が、「忠臣蔵って鳥貴族みたいな居酒屋チェーン?」って答えたのを見て愕然としました。

このキーワードを知っているかどうかの年代別ボーダーラインは45歳前後との事、きっかけは何でもいい・・どうぞ忠臣蔵に興味を持っていただきたいものです。





これだけ大規模なテレビドラマはもう制作できないのでしょうね。おそらく莫大なコストがかかる割には視聴率が取れない・・・商業主義であるかぎに難しいでしょう。だからこそNHKが赤穂義士本伝・銘々伝・外伝をきっちりと描いて日本の財産となるようなドラマを制作してほしいものです。
文楽、歌舞伎、演劇、ドラマ、映画、落語に講談、浪曲・・こんなにHITしたのにすっかり忘れ去られている忠臣蔵。
忠義の心と義理と人情の板挟みで揺れ動く様々な人物像は日本人ならわかるはす。こんな荒んだ世相だからこそ描いて欲しいものです。

2024/11/17

勧請縄

 滋賀県野洲市にある「行事神社」で見られる勧請縄。

神の領域を思わせる静かな佇まいを感じさせる領域。

見事というほか‥言葉が見つからない。

https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/414/






2024/06/21

四天王寺 舎利出

 今日21日は「お大師さんの日」。弘法大師の月ご命日ということで境内には所狭しと様々な露天が並んでいて大変な賑わいです。
 骨董品、古道具屋さんに着物等の和装や洋装等の様々な古着屋さん、雑貨、インテリア等をはじめ、お好み焼きなどの粉もんの軽食等など。それはびっくりするくりのお店の数。
目当てにご年配の方々だけではなく学生さんもちらほら。もちろんインバウンドの影響なのか、各国の言葉も飛び交っていて驚きます。

21日は実は無料で中心伽藍に入ることができます。
今日の大阪は30度超えで境内はすごい熱気ですが、不思議なことにこの中心伽藍のは、とても心地よい爽やかな風が通り抜けてゆきます。

南側から仁王門・五重塔・金堂・講堂がそびえたち、西側と東側にはそれぞれ西重門・東重門があります。

さて、「舎利出」は四天王寺さんのHPには下記のように記載されています。
*****************************************
毎日、11時より中心伽藍内の金堂において舎利出しの法要を厳修しています。お舎利とは、お釈迦様のご遺骨のことを言い、このお舎利を頭に頂き、御仏のお導きを祈る厳かな法会です。同時に、ご回向・ご先祖供養が厳修され、お経木にお舎利をお受けいただけます
*****************************************
昨日、はじめてこの「舎利出」を体験することができました。
金堂には救世観世音菩薩とその四方を守護する持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、壁面には 中村岳陵画伯の「仏伝図」が、釈迦の誕生から入滅までをわかりやすくそして美しく彩っています。

そして薄暗くも蠟燭の揺らめく金堂には「舎利礼文」が響いています。

一心頂礼。万徳円満。釈迦如来。 

真身舎利。本地法身。法界塔婆。

我等礼敬。為我現身。入我我入。

仏加持故。我証菩提。以仏神力。

利益衆生。発菩提心。修菩薩行。

同入円寂。平等大智。今将頂礼。

曹洞宗の我が家では、毎年の法事で聞き覚えのあるお経。。

「舎利出」は毎日朝11時より行われていますがなかなか機会がなく、参拝することがありませんでしたが、その厳かで神秘的なその儀式には感動を覚えました。
「舎利職」が救世観世音菩薩の向かって左前にある舎利塔より「南無佛のお舎利」を取り出し、供養し、参詣者の頭上に頂く儀式となります。

太子は生まれたときに左の手を握りしめたままであったが1歳になられた2月15日に東の空に向かって合掌され南無佛と唱えられました。その時に左手より仏舎利がこぼれ落ちたという。その舎利が南無佛舎利で太子信仰の中心。

四天王寺には守屋祠の謎、大阪には、上ノ太子(叡福寺),中ノ太子(野中寺)、下ノ太子(大聖勝軍寺)等、まだまだ聖徳太子に纏わる場所が沢山あります。

もちろんこの堂内は聖域につき、静粛かつ撮影禁止エリアです。

帰りはMIOの蔵元豊祝で軽くいっぱい!昼飲みが止まりませんww

2024/04/26

一心寺さん:徳川仙千代公のお墓を参拝

 数日前に訪れた「徳川美術館」。この入口に掲げられていた徳川家系図。
その中にはいくつも聞いたことのあるお名前があります。
私の母や祖父母の眠る一心寺さんにはわずか六歳で亡くなられた家康公の八男「仙千代公」のお墓があります。







心を込めて参拝させていただきました。ただ、縁故の方がは長らく来られていない様子。。

浅香山のツツジと浅香山稲荷神社さん

 この先の見えない休暇中に、いままで行きたくてもなかなか行くことができなかった場を巡っています。
今日は、この時期ならではの場所「浅香山のツツジ」です。浄水場の通り抜けは来週からですが、その横になる緑道はすでに見頃でした。

JR阪和線「浅香」下車 徒歩10分程度。








さて、別のBLOGに掲載している内容を再掲載。
この浅香駅のすぐ南にある神社のお話です。

今の大和川の流れを確認してみてください。
柏原市の石川合流地点からまっすぐ大阪湾には流れこんでいないことがわかります。
なにがあったのでしょう。相次ぐ洪水の回避で北に流れていた大和川を西に変えた際にどうしても迂回する必要がでてきたようです。



もともとこの松原の地域には古代からの灌漑のために、ため池が多くありその中のひとつの依羅(よさみ)池を利用することで大和川の工事計画を立て着工しましたがこの浅香山のふもとの工事に入った際に不思議なことが相次いだそうです。



一日の予定通りの工事を終えても、翌日にはなぜか元通りに復旧。。。。


また道具がこわれたりする事故が相次ぐことからこの浅香山を迂回することで回避したそうです。
※工事を遂行した中甚兵衛氏の家に狐が武装して襲ってきたり、この浅香山に古くからの伝承である狐の話があります。

 奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えられた。

 城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。



 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、
と伝えている。
太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにまつられたのがこの神社の創始と言われています。

 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。

この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われます。



 時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。

 後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。 尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。  
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。




























2024/04/07

「古都」京都誕生

私の大好きなTV番組の一つ「歴史探偵」先日のエピソードは大変面白かった。

https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/

簡単に要約すると下記の通り。

<京都は歴史と伝統が詰まった千年続く古の都>というイメージは明治初年に作られ単なるイメージ戦略にすぎないということ。京都は破壊と再生が繰り返されてきた町。

794年 平安京遷都以降
1467年~1477年 応仁の乱
1536年 天文法華の乱
1867年 明治維新

現在の京都御所は広大な緑に囲まれた中に素晴らしい佇まいの御所。しかしこの姿は明治時代に作られた姿で江戸時代は御所の周りには公家屋敷が立ち並んでいた街並みで、すべての通りは周りの市街地と通じていて、お堀や石垣はなかった。しかも、公家たちが参内する宜秋門(いしゅうもん)前にはベンチがあり、檜垣茶屋(ひがきのちゃや:売店)があり、参内する公家の行列を侍や町人・農民・旅人・売り子たちが眺めている絵が残っている。(拾遣都名所図会:1787)しかも、御所はとても開かれていた場所で、色んなタイミングで町人立ちが御所内へ立ち入る機会が与えられていた。

1864年蛤御紋の変で、長州藩が御所を目指して攻め上り、会津、桑名、薩摩藩により撃沈。京都は火の海となる。その範囲は広大で、御所南側から京都駅。二条城から鴨川の範囲。

その後、大政奉還により、天皇が東京へ行かれたことにより公家も移住し、京都中心部は廃墟となった。30万人の人口は23万人に減少。

さらに、神仏分離令や廃仏毀釈でお寺も衰退、荒れ果て、しかも、町々にあったお地蔵様に手を合わせる行為や、五山の送り火さえも俗信であり止めるよう京都府より通達が発せられた。(京都府布令書:明治4年第16号)

日本は神武天皇の国造りを唱え、神道を日本の宗教としようとするために、旧来の伝統や仏教行事、秩序を否定、破壊した。これは、富国強兵や殖産興業のスローガンを浸透させ脱亜入欧を果たすために必要と考えた。仏教は現代化を阻害すると考えた。

<佐野恒民>(佐賀藩:日本赤十字社創設:明治政府官僚)
オーストリア ウィーン万博開催(明治6年:1873)団長として参加
大仏、提灯、しゃちほこ、陶磁器、漆器、武器、金蒔絵装飾、甲冑を展示。中でも、和風庭園はその後、英国に買い取られ大好評。日本の伝統工芸が大好評であり、文化保全の必要性を感じてきた。岩倉使節団も欧米視察で錦絵などの絵画、工芸品、仏像等が人気であることを感じた。また岩倉具視は、京都で何度も討幕派刺客に襲われかけ隠棲生活をしていたことから京都の隠棲地を特別視していたことから、京都の荒廃ぶりを嘆いていた

当時のロシアの首都はサンクトぺテルブルクだが、戴冠式は旧都のモスクワで行っていることになぞらえ、日本も首都は東京だが様々な慣例行事は特別な位置づけとした歴史都市京都で行えばよいのでは?と考えた。
京都復興建議書を建白、天皇即位式などの祭事は京都で行うこととし、全国から人々が集まるような仕掛けを行いたい。

明治10年ころから国内より流出する美術品にようやく歯止めがかかりだす。

実は平安神宮(1895年)は平安京の生庁(朝堂院)を縮小復元、内国勧業博覧会の会場として建設、平安遷都1400年祭とあわせて建造された。当時の大極殿を神社の拝殿として利用し、多くの参拝客を呼んだ(佐野恒民案)琵琶湖疎水を整備し水流発電による市街電車を整備。京都駅から会場までの全国からの顧客輸送を行った。4か月で113万人が来場。

これにより京都の観光都市化を促進。神社仏閣の修理保存、傷ついた森林の復旧。国有林の整備と寺社への返却、文化美術品の公開を促進し、千年の歴史、山紫水明の古都を目指した。

明治初年に日本の文化遺産、美術工芸品が海外へ流出し続けていたなら・・京都が廃れたままであったら・・とおもうぞぞっとする。

2023/11/23

阿麻美許曾神社

 大和川はその昔は南から北に向かって流れていましたが、度々の河川反乱のために1704年に現在のように東から西に付け替えられました。このあたりは、当方のBLOGにも詳しく書いていますが、忘れてはならないのは、大和川によって既存の地が大和川によって分断されたということ。もちろん現在の大和川の川底には1704年以前の生活をささえていた家屋、畑、寺社や墓地などがあったらしく、近代に向かうに連れ住居表示が厳格化される中で、さまざまな理由でいわゆる【飛び地】が誕生、そのなかでもひときわ目を引く【飛び地】にはこの【阿麻美許曾神社】とその参道があります。

まずはYahooMAPで飛び地の現状を確認すると、「東住吉区矢田エリア」は大和川の南に大きく飛び出た地域からさらに細長く、南に延びていることが確認できます。周りは大阪府松原市。

https://map.yahoo.co.jp/address?ac=27121&az=MTg&lat=34.59683&lon=135.54065&zoom=13&maptype=basic


S18の地図では、矢田村は大和川をはさんで南北に分断されていることが確認できます。
(内河内郡矢田村/瓜破村/天美村等:昭和30年(1955年)に大阪市東住吉区に編入)また別途記載の〔城連寺〕の記載が確認できました。また江戸初年に使われていた「枯木」の地名も見られました。おそらく現在の場所は行基大橋の北詰めあたり?


手元にある「北から西への改流・300年 甚兵衛と大和川」を確認。この書籍は中甚兵衛十代目にあたる中 九兵衛氏著。この図(川違新川図※宝永元年)にも城連寺村の記述あり。1704年の川違えにより村の半分以上が川底となった地域。



話は本筋に。この矢田村には欠かせない阿麻美許曾神社があり創建は大同年間(806年頃)。あの行基さんが居住されていたとの云われがある。高僧でありスーパー土木建築家で、今でいうところの本職が僧の大手ゼネコントップなイメージ。
ということで、阿麻美許曾神社へ参拝してまいりました。
現在の大阪の神社でも少なくなったいわゆる「鎮守の森」が残る美麗な神社さん。その巨木が神殿、拝殿を囲み、木々の間を崇高な風が通り過ぎていきパワースポット感が半端ない。
神社の南に鳥居があったそうで、その位置から参道を含めて東住吉区矢田7丁目。ちなみに6丁目までは、大和川の北側です。







数日前に罹患したインフルエンザA型からの復帰と2週間前に自転車で転倒し肋骨にひびが入ったけど痛みが無くなったお礼をしてきました。


2023/06/25

浄瑠璃寺参拝

 私にとって、とても大切な場所があります。それはこのBLOGでもたびたび登場する浄瑠璃寺さん。昨年3月に大好きな母が入寂。早いもので1年3ヶ月が経ちました。

私の環境の変化から母の眠る一心寺さんにはこの1ヶ月は皆勤賞になりそうなくらいな勢いで毎朝お参りに行っています。もちろん今朝も行ってきました。
そして午後からは浄瑠璃寺さんへ行ってまいりました。

2011 1/9 浄瑠璃寺 秘仏 大日如来像公開

2012 1/8 浄瑠璃寺

信仰と信心

初めて母に連れられて参拝したのは小学生低学年のころ、以降、何かあれば御本堂の厨子におられる吉祥天如さんにご報告にいくのが習わしです。ただし厨子が開くのは年に3回のみ。残念ながら今日は御開帳のタイミングではありませんでしたので、御本堂の大日如来さんと厨子の前でながらく正座し目を閉じてご報告と相談をさせていただきました。

「あんたの好きなようにしたらええ」「そのかわりにがんばりや」そんな声が聞こえた気がしました。

涙と鼻水が止まりません。。それでもやっぱり来てよかった。

御本堂の出口の手前にあるお不動さんと両脇に控える制多迦童子さんと矜羯羅童子さんにも私の背中を押してくださっているそんな気持ちになりました。





季節柄、参道は紫陽花が満開でしたが、やっぱ浄瑠璃寺は馬酔木。イキイキとした新芽が育っていました。秋にいくと、何とも言えない酸味のある香りがあたりを包み込みます。次はそのころ・・秋のお彼岸の頃に行きたいものです。