「大政奉還」1867年、徳川幕府が朝廷に政権を返上、この裏ではイギリスとロシアが覇権争いで大きく関わっている。小栗忠順日記では国際外交上にも関わるために政権を天皇へ返上と記されている。
幕府とロシアで国境線をめぐり争っている最中に、ロシアは樺太へ実効支配のために多量の兵士を送り混んでくる。海軍元帥コンスタンチン・ニコラエヴィチは英国が侵略してくると進言することによりサハリン全土をロシア領にするべく動く出す。
これに対し英国パークスも対馬事件があるためにロシアに乗り込まれることを防ごうとする。まさに大国同士の互いの不信感が幕府の存亡に影響を与えたことになる。
この中で強兵を進める小栗忠順は兵器強化をもとにフランスに武器を発注し支援を求めている。
まさに英国、ロシア、フランスの三つ巴。そこで英国パークスは幕府の資金源を止めるために英国銀行から日本への融資を停止することを決定、反幕府勢力をおさえきれずに大政奉還に進んでいく。
1868年、徳川慶喜とパークスは会談を行う、英国側の記録では日本の混乱を収拾できるのか?という質問を投げかけており慶喜は自分の身をもっても収めなければならない。と返答。これにより小栗忠順は幕府の要職を解かれ農村で塾を開くが、わずか40歳で新政府軍に捉えられ処刑。
「鳥羽・伏見の戦い」1年5ヶ月続いた戦争の起点。その裏では各国外交官が熾烈な争いをしていた。
旧幕府軍が発射した砲弾は四斤山砲(フランス製)から発射。2月16日にパークスの要請で各国の代表が集まり会談を実施(英国、フランス、アメリカ、プロイセン、オランダ、イタリア)。この時点では長州、薩摩は国際的には反乱勢力。。
国際法の取り決めに関してパークスは局外中立を宣言することを宣言、これにより幕府、反幕府に対して武器供与などはできなくなる。3日間の会談の結果、パークスは「フランスが徳川を支援すれば新政府は外国人を保護しなくなり大混乱が生じる」と発言。幕府が開港地である函館、横浜、兵庫、長崎の外国人を保護していたが戊辰戦争により長崎、兵庫は新政府軍が実効支配している。これらにより自国民の保護を優先する局外中立宣言を1868年2月に発した。そして5月に江戸城無血開城となる。
「奥羽越列藩同盟」1868年。19世紀後半の指導者オットー・フォン・ビスマルク首相は近隣市諸国を制圧、鉄血政策を推し進め、東アジアへの進行を目論む。
プロイセンが独自に戊辰戦争のキーとなる、会津藩、庄内藩を守るために結成された「奥羽越列藩同盟」を予想している。新潟の激戦区の朝日山の戦いではエンフィールド銃(南北戦争で活躍)の銃弾が発見された、本来は軍事物資は表立って軍事援助はできないはず。そこで独自で動いていた各国武器商人は新潟を開港、武器商人が新潟に集結する。特にプロイセンの武器承認は暗躍し、武器を供給する。。これはアメリカ南北戦争で使用されたスペンサー銃(連射式)エンフィールド銃などでした。なかでも河井継之助はガトリング砲を購入。(南北戦争で初めて実用化)。
「幻の植民地化計画」1868年
プロイセンの旧幕府軍への接近には大いなる狙いがあった。駐日プロイセン代理公使のマックス・フォン・ブラントはビスマルクに対し、蝦夷の土地は北ドイツとにており150万人のドイツ移民を送ることができると進言。ブラントの通訳を務めるハインリッヒ・シュネルは松平容保と会談。列藩同盟に接近する。シュネル銃を米沢藩主へ最新兵器として贈呈。そしてシュネルは列藩同盟の軍事参謀になるまで信用を勝ち取り、会津藩、庄内藩は蝦夷の土地を担保にシュネルに資金援助を依頼、これに応じれば蝦夷の土地を99年間担保として手に入る事となる。
しかしビスマルクは蝦夷の植民地化には実は消極的で経済的なメリットを疑うだけではなく他の国々との軋轢を懸念、英国からの支援が求められることを前提に交渉が開始。
駐日イギリス外交官アーネスト・サトウが西郷隆盛と接触し新潟港の海上封鎖を提案。これにより旧幕府軍は武器の供給が停止することとなる。しかも海上封鎖は国際法上問題がなく、批判を受けることがないと進言。1868年9月、新潟港を封鎖、上陸作戦を決行、占拠する。容保公に援軍を連れて戻ってくることを約束したシュネルは戻ってくることはありませんでした。11月6日会津藩降伏。これによりプロイセンの蝦夷地植民地化計画は中断となりました。
「箱館戦争」1868年
旧幕府軍開陽丸 旧幕臣榎本武揚は五稜郭を占拠、新政府軍と対峙。
英国パークスはロシアが榎本武揚との約束により蝦夷に南下してくるのでは?危機感を覚える。内戦を終わらせることを希望するパークスは、横浜港に停留している幕府がアメリカから購入するはずであったストーンウォール号に目をつけた。諸外国の中立宣言により引き渡しできない状態でした。機能は開陽丸を遥かに上回る機能の軍艦。1869年1月18日に再び開かれたパークス主催の諸外国外交官の会議では、局外中立を終了し新政府軍に与するべきと進言するもプロイセンは榎本武揚率いる函館により内戦終了は時期尚早と受け入れない。
徳川将軍が降伏した以上、榎本武揚は逆賊、反乱分子にすぎないと説き伏せ、局外中立は撤廃される事となった。ストーンウォール号は新政府軍に引き渡される事となった。6月には新政府軍の艦隊により函館は鎮圧される。6月27日榎本武揚降伏。「我らは薩長に負けたのではない、英国に負けたのだ」と談。
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日本が動乱の中、国外からどう見えていたのか?何を考えていたのか?のわずか一部分かもしれませんがまだまだ興味は付きません。明治政府になり様々な外国の支援を得て鉄道や製糸場、日本国憲法など諸外国の影響を受けて進んできた日本。
戊辰戦争後や第二次世界大戦後など本当に植民地化されなかったのは奇跡なのでしょう。
先人の働きに感謝です。
※録画を見ながらの記述に付き誤字などはどうぞご容赦。