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2023/01/09

新・幕末史 完全版(1/3 BS放送)を見て 1

 年明けより、様々な番組の録画を順に鑑賞。なかでもこの「新・幕末史 完全版」は興味深くその内容をまとめてみました。

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日本史の中でも時代の大きな転換期の一つの「幕末」。海外でもさまざまな「幕末」に関する覇権争いの根拠が発見されています。

この「幕末」を「対馬事件」「下関戦争」「改税約書」「幕長戦争」「大政奉還」「鳥羽・伏見の戦い」「奥羽越列藩同盟」「幻の植民地計画」「函館戦争」のキーワードで、どのように列強国が関わったのか?を読み解く内容です。

1853年の黒船の来航は偶然ではなく必然。海外で勃発した戦場からの武器の流入により日本が戦場となります。
1858年に修好通商条により、「ロシア・アメリカ・フランス・イギリス・オランダ」に函館、横浜、下田、長崎の港を開くこととなりました。しかし条約締結は反対派勢力である「攘夷派」を生み出すこととなりました。治安維持のための「新選組」などの働きがあったが国内政治は混乱の一途。

当時の19世紀の海外では、イギリス(大英帝国)とロシアの超大国が覇権争い。イギリスの産業革命による蒸気機関が「ゲームチェンジャー」。海外進出を加速していきます。

ロシア帝国は世界最強陸軍を誇りさらなる不凍港拡大を求め黒海獲得を乗り出します。
クリミア半島で英国と一戦を交えますが敗北(クリミア戦争)、その後、極東進出へ路線変更。日本を足がかりに中国に影響を与える方針へ転換。この舞台となったのが「幕末日本」ということになります。

1861年、「対馬事件」が起こります。2月ロシア海軍の巨大軍艦が対馬付近に到達。幕臣の小栗忠順が交渉に当たりました。この交渉に英国が介入し、対馬が戦場となる危機に直面。
首都のサンクトペテルブルグでは皇帝「アレキサンドル二世」と海軍元帥「コンスタンチン・ニコラエヴィチ」が軍事会議により対馬の占拠を目論む。
最近の現地調査で対馬には精密な測量をへて港や観測所、軍事施設が設置、実効支配を狙っていました。

小栗忠順は外交交渉に長けており即時退去を求めて交渉にあたりますが「対馬はイギリスが狙っている以上、ロシアの保護下に置くことが得策」と譲りません。
もちろんイギリスでは「強硬論」が優勢、日本は植民地同様に重要で、これは1840年のアヘン戦争で中国の権益を獲得したために、間近のロシア進出を防ぐことは必須。
日本はロシアにつくか英国につくか・・。小栗忠順の案は対馬を幕府の直轄領とした上で開港を進める。これで様々な国が介入することで手出しができない案だが幕府は却下。幕府は英国の軍艦を対馬へ迎え入れロシアと一触即発!ロシアは退去を選択したが、英国は今後日本への干渉を強めることとなりました。

1864年下関戦争ではイギリス軍率いる17隻の連合軍VS長州軍と戦い、わずか2時間あまりで長州は惨敗。日本の大砲は届きませんが、英国軍が搭載していたアームストロング砲は沖合から長州軍への砲撃を可能としていました。
アームストロング砲にはライフリング(砲身の中に螺旋状の溝)が刻まれたことで砲弾の飛距離を3kmへ伸ばし、精度を高める工夫がされています。

実は英国は日本との全面戦争を想定していたことが近年になって発覚!戦争経験の豊富な英国は①下関から大阪までの瀬戸内海回路を交通封鎖し海上では伊予灘、和歌山沖、下関沖に軍艦を配備することだった。そして②御所のある京都を制圧するために、海上から大阪城を砲撃し無力化。そして③江戸城への攻撃!江戸湾に建造された幕府の砲台を撃破し12,000人が進軍する。建物は木造であり炎による攻撃にくわえ、江戸城は長距離砲で攻撃する作戦でした。この原因は開国後の英国に対する待遇の悪化が要因で、攘夷派の抵抗があったためです。

その機会を狙う英国に対し好都合の事件、1863年外国船砲撃事件勃発。長州藩が外国商船を攻撃。
結果は幕府が巨額の賠償金を支払うことで一旦回避したものの、それでも英国は京都進軍の機会を狙っていました。

当時、幕府はオランダと友好関係を築いており諜報活動も行われており、その中で列強の機密情報も収集、英国の企てを掴んでいました。
軍艦奉行勝海舟は列強との戦いを回避するためにオランダ領事館で、「幕府が攘夷派を抑えこむことを約束」するとともに海軍力の増強のために、最新鋭のクルップ砲を6門搭載した「開陽丸」を購入する。クルップ砲の射程距離は4Km。小栗忠順は大砲の国産化を計画、富国強兵案が進められた。この情報を英国が把握!全面戦争になった場合英国は日本を手中におさめることができるが、そのための戦費を考えると当時の英国国会での承認は得られないとの判断で中止の流れとなった。同時に一橋慶喜さんは通商条約に反対する天皇の説得にあたりました。

つづく