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2024/04/07

「古都」京都誕生

私の大好きなTV番組の一つ「歴史探偵」先日のエピソードは大変面白かった。

https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/

簡単に要約すると下記の通り。

<京都は歴史と伝統が詰まった千年続く古の都>というイメージは明治初年に作られ単なるイメージ戦略にすぎないということ。京都は破壊と再生が繰り返されてきた町。

794年 平安京遷都以降
1467年~1477年 応仁の乱
1536年 天文法華の乱
1867年 明治維新

現在の京都御所は広大な緑に囲まれた中に素晴らしい佇まいの御所。しかしこの姿は明治時代に作られた姿で江戸時代は御所の周りには公家屋敷が立ち並んでいた街並みで、すべての通りは周りの市街地と通じていて、お堀や石垣はなかった。しかも、公家たちが参内する宜秋門(いしゅうもん)前にはベンチがあり、檜垣茶屋(ひがきのちゃや:売店)があり、参内する公家の行列を侍や町人・農民・旅人・売り子たちが眺めている絵が残っている。(拾遣都名所図会:1787)しかも、御所はとても開かれていた場所で、色んなタイミングで町人立ちが御所内へ立ち入る機会が与えられていた。

1864年蛤御紋の変で、長州藩が御所を目指して攻め上り、会津、桑名、薩摩藩により撃沈。京都は火の海となる。その範囲は広大で、御所南側から京都駅。二条城から鴨川の範囲。

その後、大政奉還により、天皇が東京へ行かれたことにより公家も移住し、京都中心部は廃墟となった。30万人の人口は23万人に減少。

さらに、神仏分離令や廃仏毀釈でお寺も衰退、荒れ果て、しかも、町々にあったお地蔵様に手を合わせる行為や、五山の送り火さえも俗信であり止めるよう京都府より通達が発せられた。(京都府布令書:明治4年第16号)

日本は神武天皇の国造りを唱え、神道を日本の宗教としようとするために、旧来の伝統や仏教行事、秩序を否定、破壊した。これは、富国強兵や殖産興業のスローガンを浸透させ脱亜入欧を果たすために必要と考えた。仏教は現代化を阻害すると考えた。

<佐野恒民>(佐賀藩:日本赤十字社創設:明治政府官僚)
オーストリア ウィーン万博開催(明治6年:1873)団長として参加
大仏、提灯、しゃちほこ、陶磁器、漆器、武器、金蒔絵装飾、甲冑を展示。中でも、和風庭園はその後、英国に買い取られ大好評。日本の伝統工芸が大好評であり、文化保全の必要性を感じてきた。岩倉使節団も欧米視察で錦絵などの絵画、工芸品、仏像等が人気であることを感じた。また岩倉具視は、京都で何度も討幕派刺客に襲われかけ隠棲生活をしていたことから京都の隠棲地を特別視していたことから、京都の荒廃ぶりを嘆いていた

当時のロシアの首都はサンクトぺテルブルクだが、戴冠式は旧都のモスクワで行っていることになぞらえ、日本も首都は東京だが様々な慣例行事は特別な位置づけとした歴史都市京都で行えばよいのでは?と考えた。
京都復興建議書を建白、天皇即位式などの祭事は京都で行うこととし、全国から人々が集まるような仕掛けを行いたい。

明治10年ころから国内より流出する美術品にようやく歯止めがかかりだす。

実は平安神宮(1895年)は平安京の生庁(朝堂院)を縮小復元、内国勧業博覧会の会場として建設、平安遷都1400年祭とあわせて建造された。当時の大極殿を神社の拝殿として利用し、多くの参拝客を呼んだ(佐野恒民案)琵琶湖疎水を整備し水流発電による市街電車を整備。京都駅から会場までの全国からの顧客輸送を行った。4か月で113万人が来場。

これにより京都の観光都市化を促進。神社仏閣の修理保存、傷ついた森林の復旧。国有林の整備と寺社への返却、文化美術品の公開を促進し、千年の歴史、山紫水明の古都を目指した。

明治初年に日本の文化遺産、美術工芸品が海外へ流出し続けていたなら・・京都が廃れたままであったら・・とおもうぞぞっとする。