「アフィリエイト広告を利用しています」

yahoo2

ラベル 明治天皇聖躅 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 明治天皇聖躅 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/06/24

明治天皇の足跡を訪ねて 姫路船場別院本徳寺 御着延命寺

 昨年10月の一泊旅行以来の姫路の地。今回は「明治天皇聖躅巡り」・「御菓印」と「東来春」が目的です。

まずは腹ごしらえということで「東来春」。定休日が月・火であることから前回は見事に定休日で断念。このお店は25年くらい前に姫路市飾磨区出身の大先輩に連れてきていただいたお店で、その先輩には連絡が取れずホントに残念。




店内はタイル敷に年季の入ったテーブルとイス。色んな飾り物すべてに年代を感じます。で名物のシウマイ!ぎっしり練りこまれ、もっちりした食感です。

腹ごしらえが終わったことから次は「御菓印」をいただきに「伊勢屋本店」を目指します。この「東来春」からわずか5分ほど。すぐに見つかりました。





次は姫路船場別院本徳寺を目指します。姫路にも船場という地名があることを初めて知りました。
正面山門には[明治天皇姫路行在所]の碑、そして立派な山門をくぐると巨大な「行在碑」を発見!





*************************************************************
​明治十八年再車駕巡幸山陽道還幸之途
次八月八日駐蹕於本院参議伊藤博文
儗従廖憐忠朝等扈従焉越九日黎明賜
謁臣勝珎併寵賜紅白縮緬及金圓本院
之榮極矣後本院資談下賜品謹製打敷
以寶藏之今茲信徒山本瀧太郎等請建碑
於院内以永冩深賛此擧乃此叙一言
皇恩之渥不
大正三年五月
大本徳寺十七世勝珎謹誌

​明治18年、明治天皇が再び山陽道へ行幸され、そのお帰りの途中のこと。
8月8日に当寺院に(天皇の乗り物が)お止まりになり、参議の伊藤博文や、お供の者たちも皆これに従いました。​明けて9日の夜明け、私(住職の勝珎)は天皇にお目にかかる(拝謁する)栄誉を授かり、さらに特別なご褒美として「紅白の縮緬(ちりめんの織物)」と「金貨」を賜りました。これは当寺院にとって、この上ない最高の栄誉であります。
​その後、当寺院ではこの話し合いに基づき、天皇からいただいたお品を使って謹んで「打敷(うちしき:仏壇を飾る敷物)」を仕立て、宝物として大切に保管してきました。
​そして今年、信徒の山本瀧太郎をはじめとする方々から、「この栄誉を永く後世に伝えたいので、境内に記念碑を建ててほしい」との願い出がありました。私はこの素晴らしい提案に深く賛同し、ここに一言その経緯を記す次第です。​天皇からいただいた、計り知れないほど深いお恵み(皇恩)を忘れることはありません。
​大正3年(1914年)5月
大本徳寺 第17世 住職・勝珎 謹んでこれを記す
*************************************************************

裏手へ回る途中にある「西南の役 石碑」です。


斬棘厳局
陸軍大将正三位勲一等功二級一戸兵衛書


明治十年二月逆賊薩軍起作亂圍熊本城
官軍追討総督有栖川宮熾仁親王殿下
任参軍陸軍中将山縣有朋其二月八關月
日由宇土上陸攻城西之險之地
官軍兵寡平西將枝士卒協奠功國有匪
其後二月第十師當兵糾元者七百名中
能大參者有急者資謀立珎未偉勲以勲
忘親而記敘概略傅之不朽

明治十年丁丑、逆徒乱を囲む。熊本城、官軍これに拠る。 険を扼し賊を禦(ふせ)ぐ。 出でて一撃せんと欲し、慷慨(こうがい)突囲す。 留まる者は守を厳にし、往く者は険を馳(か)く。 囲を脱して南に趨(はし)る。之(これ)を危うきに処す。 幾んど死を免るる。 平将、神を社(やしろ)に祭り、卒を槍の夏(なつ)に拾(あつ)む。 而(しか)して、囲を解き後進を導く。 湯々(とうとう)たる莘々(しんしん)たる師、官兵死を死す。 七百有余人、大いにおおいに功あり。 忠者、義者、奇者、謀者。烈々たる英霊。 これを碑に刻みて、永く後人に伝える。 その叙、概ねこれに傅(つ)く。 もって平なるに処す。 明治四十一年九月

明治10年(丁丑の年)、反乱の徒(西郷隆盛率いる薩摩軍)が攻め寄せ、熊本城を包囲した。 鎮台の官軍はこの城に立てこもり、険しい地形を頼りに賊軍の猛攻を防いだ。

官軍の将兵たちは、一度城を出て一撃を加えようと血気盛んに憤り、敵の包囲を突き破って突撃した。 城に留まる者は守りを固めて敵を寄せ付けず、城を出て進む者は険しい道を駆け抜けた。 敵の包囲網を脱出して南へと急ぎ、常に死と隣り合わせの危険な状況に身を置いた。 その戦いは熾烈を極め、命を落としかねない危難の連続であった。

司令官(平将/谷干城ら)は神に祈りを捧げて士気を鼓舞し、兵卒たちを槍の林のなかに集めて部隊を再編した。 そうして、ついに敵の包囲を解き、後続の軍勢を城内へと導き入れることに成功したのである。

堂々と、そして数多く集まった官軍の兵士たちは、国家のために命をなげうって戦った。 その数は700余人におよび、多大なる功績を挙げた。 主君に忠義を尽くした者、正義を貫いた者、優れた才気を見せた者、優れた策を巡らせた者。その英霊たちの功績は実に見事なものであった。

この歴史的な事実を石碑に刻み、永く後世の人々へと伝えるものである。 その大まかな経緯は、ここに記した通りである。 これによって、平和な世が保たれることを願う。
明治41年(1908年)9月


そして「明治天皇姫路行在所の碑」

明治18年8月、山陽道御巡幸の際、同月8日行在所となりたる處にしてその建物は昭和7年11月2日火災に罹り一部破損せるも幸ひ主要部分は状態を存せり

次は姫路船場別院本徳寺から車で数十分。御着交差点にある御着延命寺へ移動。

御着交差点を右折しおもいっきり狭い道にドキドキ!でも幼稚園が併設されているようで駐車場があったので安心!

山門前の「明治天皇御着御小休所の碑」

明治天皇御着御小休所(延命寺内)
 姫路に到着される直前、旅の疲れを癒やすために立ち寄られた御小休所(おこやすみしょ)です。境内に石碑が立っています。
所:兵庫県姫路市御国野町御着



境内にある巨大な「明治天皇駐蹕碑」

明治十八年夏六龍西巡還幸途次駐蹕于
本家湯金如干何光榮加之手越 大正二年
四月鉄磨解私立教育會并御國野四郷花
田谷外谷内各村立教育會及本利履越櫪
金欄興為
皇莊灌之記念因幻其事話後昆
延命寺第二十世恵慶謹譜

明治十八年夏、六龍西巡し、還幸の途次、本家に駐蹕(ちゅうひつ)す。湯金若干(とうきんじょかん)、光栄これに加わる。手越(てごし?)。大正二年四月、鉄磨(てつま?※人名か職名)私立教育会、並びに御国野(みくにの)、四郷(しごう)、花田(はなだ)、谷外(たにそと?)、谷内(たにうち?)各村立教育会、及び本利履越櫪(ほんりりえつれき)金欄興(きんらんこう)を解く。皇荘(こうそう)にこれ(記念)を灌(そそ)ぐの記念として、因(ちな)みてその事を幻(まぼろし/記述)し、後昆(こうこん)に話(つた)ふ。延命寺第二十世 恵慶(えけい) 謹んで譜(ふ)す。


明治18年(1885年)の夏、天皇陛下(六龍=天子の乗る車、転じて天皇の意)が西日本を巡幸され、そのお帰りの途中で、当家(またはこの地・本寺)にお立ち寄り(駐蹕)になりました。その際、若干の御手当(湯金/下賜金)を賜り、この上ない光栄に浴しました。その後、大正2年(1913年)4月、私立教育会をはじめ、御国野村、四郷村、花田村、谷外村、谷内村(現在の兵庫県姫路市周辺の旧村名)の各村立教育会、およびこれまでの関係組織(金欄興など)が解散・改編されることとなりました。この栄誉ある皇室とのつながりや、地域の教育的な区切りを記念し、これらの出来事をここに書き記して後世の子孫(後昆)へと伝えるものです。延命寺の第二十世住職である恵慶が、謹んでこれを記録いたします。


2026/06/21

明治天皇の足跡を訪ねて 木之元

 ◆北陸東海御巡行

 明治11年8月30日に青山御所(青山御用地)ご出立されていますが、なぜ青山御所だったのか?これは東京への奠都されたときには、江戸城本丸御殿は6回目の火災で消失していたために、西の丸御殿を臨時の皇居として使われていたため。
この西の丸御殿は1873年(明治6年)5月5日に奥女中の失火により全焼!

この明治6年は旧暦を新暦に定めた年(明治5年12月3日⇒明治6年1月1日)で変更した12月分は不支給、しかも明治6年は閏年なので本来は13か月分の給与が必要でしたが新暦になったので1か月分の負担が無くなった。
当時の日本は国費財政が大変厳しく国内は征韓論や地租改正法(米から現金へ)やまだまだ国内の政治は混乱を極めた時代。
 もちろんすぐに新宮殿造営計画が盛り上がりましたが明治天皇は勅語を太政大臣三条実美に伝え、計画を却下見送りとしました。

「朕前日同禄の災に遭い、宮殿之が為に蕩書すと雖も、いまや国用夥多 の時に際し、増築の事固り之を亜にするを希わず。朕が居室の為に民産を損し黎庶を苦ましむること勿るべし。汝実美其れ斯意を体せよ」

この赤坂離宮はもともと旧紀州徳川家の中屋敷でわずか15畳一間だったそう。
江戸城西の丸の再建は明治17年に着工し明治22年に竣工され明治宮殿と呼ばれこの地で大日本帝国憲法発布式が行われました。※でも昭和20年(1945年)5月に東京大空襲で焼失しちゃってます。

さて、木之元地蔵堂へは明治11年10月10日に行幸。資料には次の行に下記の記述もありました。⇒水戸藩士武田伊賀守等411名の墳墓に祭典費を賜う、墳墓敦賀にあり

水戸藩士武田伊賀守は水戸天狗党の武田耕雲斎。実はその直前に明治天皇は武田耕雲斎らが祀られている敦賀市の松原神社へ祭祀料を下賜。そのまま水戸天狗党が通ったルートを巡行、木之元に着かれたのでしょう。




2026/06/13

明治天皇の足跡を帝訪ねて 大阪造幣局

 大阪の春の風物詩「造幣局の通り抜け」。今のようなインバウンドが盛んではなかった頃は、通り抜け期間中であれば何時行っても入ることができましたが、数年前から予約制となり、申込みの日となると、申込みページにアクセスが集中してなかなか予約が難しくなりました。それでもできるだけ毎年参加するようにしています。
 さて、この造幣局の通り抜けのときにいつも目にしていながらなかなか訪問する機会のない施設「造幣局博物館」に行く機会に恵まれ、もちろん今回も「明治天皇聖躅」に出会ってまいりました。

江戸時代を舞台としら映画やドラマ、落語や講談にも出てくる様々な貨幣単位はどうも馴染みがないのでわかりにくいものです。その上、幕末に諸外国との貿易が始まると、その為替の不平等さにより、貨幣や様々なモノが流出し国内物価が高騰、幕末には様々な藩だけで使える藩札や金、銀、銭が入り乱れ、含有量も徐々に減らしていった貨幣が登場、日本経済はとんでもない状況に見舞われ、少しでも早く、貨幣の統一が必要な状態でした。

ちなみに江戸経済は金貨の両目で両・分・朱。上方経済は銀貨の両目で貫・匁・分・厘・毛。
銀貨十分で1匁、千匁で1貫。金貨は四朱で一分、四分で一両。元禄年間より金一両は銀六十匁で銭四貫文と定められたが金銀は相場性。そこで幕末に銀目廃止の令が出たことで銀目の手形を持っている商人は両替屋仁殺到、大阪経済は混乱をきわめたそう。※百年の大阪第1巻幕末維新 昭和41年 浪速社発刊引用



さて、明治天皇は明治5年、明治10年、明治31年の合計3回この地に来られており、造幣寮の応接所として建てられた西洋式建築へ明治5年の6月4日から7日に滞在。6月6日に明治天皇が「泉布観」と命名されています。また、2回目は明治10年2月14日から16日に滞在。さらに、明治31年には陸軍特別大演習統監に際し、11月19日に行幸されています。
※明治20年に昭憲皇太后(明治天皇の皇后)行啓、明治24年に英照皇太后(孝明天皇の女御)行啓、明治36年に昭憲皇太后が行啓。


泉布観

旧桜宮公会堂(旧明治天皇記念館)

広大な土地と物流を背景とした川があることなどを考慮し、この天満川崎の地が選ばれ、建築が進められたが途中で火事がおこるやら、海外から購入した資材を積んだ船が難破するやらで前途多難。アヘン戦争で香港に建設した造幣工場が廃止となることをきっかけに6万両で資材を買い受け、以降華々しく東洋一の造幣寮の開業式は明治4年2月15日。右大臣三条実美や参議の大隈重信、大蔵卿の伊達宗城ら政府高官38人、イギリス公使のパークス氏、フランス公使ウオートレーら使臣57人、地元の名士や外人職員220人!文明の進歩を表明するこの式典に乗り込んできた政府高官は烏帽子姿の衣冠束帯!ちょんまげ姿の侍らも入り乱れたなんとも不思議な写真が撮られています。 
天保山沖の各国軍艦の祝砲と大阪城からの礼砲、式典後の西洋流の祝宴が繰り広げられたそう。
造幣には、金属を鋳造する機械技術、硫酸やソーダなどの薬品を作る精密など様々な知識が必要とされお雇い外国人の力を借りるしかない状態から開始、徐々に日本人だけで貨幣が作られる様になっていきました。


造幣局



造幣局博物館


 
明治天皇が行幸された際に生け花として使われた藤を挿し木して育てたところ見事な藤棚に成長しました。樹齢は100年以上!






2026/06/06

明治天皇の足跡を訪ねて 天保山

明治元年の大阪行幸は明治天皇17歳。3月21日に御親征並海軍御検閲の為に京都皇居御出発され22日には大阪府庭窪村、守口行在所、23日には西井茶屋(当時の大阪市東成区)、八軒屋の紀州屋敷から西本願寺津村別院でご宿泊(閏4月7日まで御駐軍)。そして26日に天保山で肥前、肥後、薩摩の軍艦操練を閲されました。

参考までに4月6日は大阪城、11日には東本願寺難波別院、17日は福羽美静(ふくばびせい:津和野藩出身国学者)に書を講ぜしめ木戸孝允、後藤象二郎に海外事情を尋ね、坐摩社で御臨幸相撲展覧。20日には天下茶屋から住吉神社へご参拝、4月1日には英国特派全権公使ハルリー・エス・パークスと謁見、5日は大阪城で各藩兵の大砲、小銃訓練天覧。6日には大阪裁判所、豊太閤祠造営その他人民案んどの勅を賜う、その後7日に津村別院を出発、八軒屋より御乗船淀に上陸され一泊。4月8日に京都御所に還御されています。

 大阪地下鉄中央線[大阪港]を下車。西へひたすら進み大阪咲州海底トンネルに入らずに側道を進むと明治天皇聖躅碑(大阪市築港事務所跡)が見つかります。




天保山は大阪五低山のなかでも一番低い山で標高はわずか4.53m。
ちなみに倒産の憂き目にあった帝塚山正圓寺がある聖天山と、生野の勝山通りの地名由来となった御勝山古墳がそれぞれ14m。前回の明治天皇聖躅巡りでいった帝塚山古墳が20m。そして大阪冬の陣、夏の陣で徳川勢と戦ったゆかりの場所の天王寺茶臼山古墳が26m。







***********************
大勲位戴仁親王殿下御題字  

明治元年三月明治天皇大阪ニ行幸アラセラレ天保山ニ上リテ親シク軍艦ノ操練ヲ閲シ給フ 本邦海軍興隆ノ運實ニ是ニ開ク此地即チ王躅ヲ留メ給ヒシ所ナリ 後年ソノ迹ノ湮滅セムコトヲ慮リ  大正天皇銀婚式記念トシテ建碑ノ議起リ昭和四年五月工ヲ起シ同十月ニ到リテ成ヲ告ク乃ヲソノ所由ヲ記シテ不朽ニ傳フト云爾  

昭和四年十月
大阪市青年連合団長 關一謹誌

***********************


2026/05/30

明治天皇の足跡を訪ねて 帝塚山

 大阪の南港通り塚西交差点からわずか南東の方角の宅地の一角に、明治天皇聖躅の碑があります。おそらく前回訪問した天下茶屋に立ち寄られた際に来られたか・・。

また上記の碑からわずか100m程度の地にある帝塚山古墳の墳墓の上にも大きな明治天皇聖躅の碑があります。これは明治31年に行われた陸軍特別大演習の際に御統監されたためとのこと。時期的には日清戦争1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日が終わり日露戦争1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月までの間に行われています。
日清戦争の多額の賠償金獲と台湾での植民地確保や朝鮮での勢力拡大を背景に日本や飛躍的な経済と近代化に進んだ時代。ただし遼東半島獲得に対して日本の拡大を恐れたロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により清へ返還となりなんとなくきな臭い状況が生まれた時代でもありました。

**************************************************************************
二第二三四六号 参謀本部 大演習施行ニ付地方庁ヘ内訓ノ件 愛知三重静岡大阪和歌山奈良兵庫滋賀京都石川富山福井岐阜岡山鳥取ノ二府十三県ヘ内訓案 本年十一月中部都督管下ニ於テ特別大演習施行セラルル筈ニ付該演習ニ関シ其地方ニ交渉スル事項ハ諸事便利ヲ得ル様注意スヘシ右内訓ス 送乙第二〇六七号 御回答案 特別大演習施行ニ付地方庁ヘ内訓ノ件演第二四号第一ヲ以テ照会之通夫々及内訓置候此段及回答候也 送乙第二七七二号 軍事二第二一六号 本年十一月中部都督@@ニ於テ特別大演習施行セラルニ 演習ニ関シ其地方ニ交渉スル事項便利ヲ得ル様@@スヘキ旨地方庁ヘ内訓相成度此段及照会候也 明治三十一年九月十五日 参謀総長子爵 川上操六

アジア歴史資料センター
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C06083029500
**************************************************************************

この古墳周囲を1周しましたがこまかく判読できる場所はなくすべて住宅地に囲まれています。







1カ所だけ、個人のお庭の古墳に面した箇所に下記のような石碑が目視できました。
この古墳は誰のものなのかわかりませんが見事な前方後円墳が見て取れました。
貴重な史跡・・なんとかならないものなのか・・悩ましいところですね。

追記(2026/06/23)

一、所在地 大阪市住吉区帝塚山西三丁目三十一番地
一、指定地域 地目 山林 地積 三反四畝一〇歩
(一〇三〇坪)
一、所有者 財団法人 住吉村常盤会

この古墳は西南面の前方後円墳で上町台地南部の西縁に立地している。墳丘の前後長径八八メートル、前方部幅三九メートル、後円部径四九メートル、その高さは前方部八メートル強、後円部九メートルを測る。前方部は後円部より約二メートル低くなっているが墓底が後円部から前方部にかけて約一メートル低くなっているから実質的には約一メートルの差があることになる。墳丘には埴輪円筒の樹立があり、往時南北両側には周濠の一部である溜池が存在したことを土地の故老は記憶している。墳丘の形態その他すべて中期古墳の特徴を備えている。後円部頂上には明治三十一年十一月陸軍大演習の際明治天皇の登臨があったのでその記念碑が建てられている。

本墳は天王寺公園内の茶臼山古墳、勝山通の御勝山古墳と共に大阪市内における古代の三代記念物であるがそれらの中で最も保存状態のよいものである。この古墳の被葬者については大伴金村とする所説があるが古典によれば附近に「住吉宅」と呼ばれる大伴氏の居邸があり、この豪族の根拠していたことは明らかであるからこれに関係する墳墓であるかも分らない。大阪古代における歴史と文化とを徴するため欠くべからざる史跡である。

昭和三十九年三月三十一日
文化財保護委員会
大阪府教育委員会

2026/05/23

明治天皇の足跡を訪ねて  大阪市役所/京都泉涌寺/奈良県橿原神宮

明治天皇が大阪に来られたのは
明治5年旧暦5月下旬から7月中旬の49日間で伊勢、大阪、西海道方面へ行かれています。

5月23日に浜離宮、品川沖から高尾丸に乗船、帰路は広島丸。岩倉右大臣、木戸顧問、大久保内務卿をはじめ230人。
5月28日には大阪行在所となった西本願寺津村別院で宿泊。5月30日には八軒屋浜から淀川を上り伏見へ。6月4日に大阪に戻り造幣局、ここで泉布館というお名前をいただき、7日には小豆島へ。

明治5年(1872年)は少々ややこしくて、暦が太陰暦から太陽暦に変わりました。
11月9日に太政官布告があり、明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とすることになりました。

また、明治10年の1月下旬と7月末。
1月24日大和国並西京都行幸。横浜から高尾丸に乗船され、26日に三重県鳥羽港、
1月30日に京都の後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)なので、きっと泉涌寺。
孝明天皇の十年御式年祭御親祭へご参加されています。




また2月5日には京都神戸間鉄道開通式臨幸、伏見、奈良、11日には神武天皇陵御親祭に行かれているのでこれがきっかけとなり橿原神宮が創建された?
※橿原神宮は明治の時代となり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起こり、明治天皇はこれを御嘉納になり明治23年4月2日に御鎮座になった。




神武天皇の陵がある大和三山 畝傍山


堺方面から2月14日に住吉神社、天下茶屋では橋本尚史郎宅御小休、操練場、砲兵支省、造幣局、大阪府裁判所から大阪府庁、東本願寺。
2月16日には中島精糖所、堂島製藍所から梅田停車場発御七條停車場、京都西本願寺飛雲閣から京都御所へご宿泊。

大阪市役所にある碑はこの時のものかと考えられ、正面右手の駐車場スロープ入り口付近の植え込みの中にあります。





明治天皇は、2月19日に「鹿児島暴徒征伐」を布告されている。これは日本国内の最大の内戦といわれる西南戦争(明治10年1月29日から9月24日)に対して。

江戸から明治になってわずか10年。まだまだ国内が慌ただしく動いている大変な時代だったのでしょう。