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豊臣秀吉公の狂気

2026/08/05

観光地 寺社仏閣 歴史

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NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」も気になるが先般よりAmazonPrimeで放映されている「真田丸」から目が離せません。もう何度見たことでしょう。


真田三代の活躍もさることながら時間軸の流れは豊臣政権から徳川政権へ移りクライマックスとなる大阪冬・夏の陣で豊臣秀忠公より軍師として真似からるも華々しく散る真田幸村公のその生きざまです。それぞれのエピソードをできるだけビジュアルに表現される三谷幸喜さんの台本や役者の皆様も素晴らしいと感じています。

さて、このドラマの中で何度も描かれる「豊臣秀吉の狂気」、これらは史実だそうですが多くの方々の魂を弄んだ秀吉への見方や考え方がすこし変わりまっした。

豊臣秀吉は天文6年(1537)2月6日から慶長3年(1598)8月18日享年62歳でなくなりました。年老いてから茶々が男児を出産。初めの「捨」は2歳で亡くなりますがその後の「拾丸」は豊臣秀忠と成長する事となります。

その様々な中で見逃せないのは豊臣秀次とのかかわり方です。
永禄11年(1568年)から文禄4年7月15日(1595年8月20日)享年28歳で亡くなりますがその最後はとんでもないことだらけ。謀反の罪を着せられ高野山青巌寺蟄居の後切腹、首は三条河原で晒し首とされ、妻妾全員約40人が処刑。しかも40m程度の方形の穴に全員の死体が投げ込まれ巨大な塚となったそう。

豊臣秀次さんも様々なエピソードがありとんでもないこともされているようですがその真相はわかりません。豊臣秀次さんは秀吉が平安京後に作らせた聚楽第(聚楽第)に住んでおられたそう。ちょうど御所の西方面700m四方もある平安京大内裏跡に建てた屋敷と庭園。

天正14年(1586年)2月に着工・1587年9月に完成したが3年後の天正17年(1589年)2月に聚楽第落首事件が発生。監視役17人を鼻削ぎ耳切りにした上で、倒磔。犯人と目された尾藤道休を切腹、道休を匿った咎により寺内町を丸ごと焼き払いしかも町民の中からくじ引きで老若男女63人を選び磔。最終的には133人を処刑。

その後、天正19年(1591年)12月に秀吉が家督・関白職を秀次に譲ったあとは聚楽第は秀次邸となりますが謀反の罪で文禄4年(1595年)7月に秀次は高野山に追放・切腹。その後、秀吉は翌月8月から聚楽第を破却したためにわずか8年で無くなった。

また滋賀県三井寺(園城寺)もこのあおりを受け文禄四年(1595年)11月に三井寺に闕所(けっしょ)の命を下し堂塔を破壊、寺領を没収するもその後直ちに北政所により金堂再建させた。

なにが真実なのかわかりませんが、生殺与奪の権利なんてあるはずがない。それ以前に真っ当に生きようとしている人には貴賤もなく身分の高低なんかも存在しない。現代だから言えるきれいごとかもしれないけれど豊臣秀吉公・豊臣秀次公の見方が変わったのは事実です。

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