明治元年の大阪行幸は明治天皇17歳。3月21日に御親征並海軍御検閲の為に京都皇居御出発され22日には大阪府庭窪村、守口行在所、23日には西井茶屋(当時の大阪市東成区)、八軒屋の紀州屋敷から西本願寺津村別院でご宿泊(閏4月7日まで御駐軍)。そして26日に天保山で肥前、肥後、薩摩の軍艦操練を閲されました。
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『御親征行幸中行在所日誌 第二号』三月二十六日
天保山にて海軍を御覧(天覧)になるため、卯の半刻(午前7時)に(天皇陛下が)ご出発になりました。お通りの道筋は、御本門から心斎橋通り、四軒町、大豆葉町(まめはちょう)、七郎右衛門町、西国橋、玉水町、常安橋通り、玉江橋から堂島浜筋、塩津橋から安治川へと向かわれました。安治川橋通をお通りになり、富島二丁目の浜から(御座船に)ご乗船なさいました。兵隊の前軍と中軍は左の川岸、後軍は右の川岸から隊列を整え、堂々と御座船の左右に従って進み、護衛をいたしました。午の刻(正午)に天保山へ無事にご着船されました。かねてより用意されていた各藩の軍艦や、フランスの軍艦が、天保山から一里(約4キロメートル)ほどの距離に停泊していました。(天皇がご覧になる)叡覧所(えいらんじょ)から青い旗を振って、ご到着の合図を送りました。これに応じて、海軍総督の聖護院宮(嘉彰親王)、同輔翼(ほよく)の若王子(山階宮晃親王)、同参謀の庭田大納言(庭田重実)が乗り込んだ肥前藩の軍艦「電流丸(でんりゅうまる)」から祝砲が放たれました。フランスの軍艦からもまた祝砲が放たれ、皇帝陛下(明治天皇)を祝福し奉りました。それが終わると、電流丸から答礼の砲撃(お返しの礼砲)を放ち、各軍艦を誘導して兵庫(神戸)の方角へ向けて30分ほど航行したのち、Uターンして天保山へと戻り、再び停泊しました。八つ時(午後2時)過ぎに、(天皇陛下は行在所へ)お戻りになりました。
『海軍省の調査』
(お雇い外国人の)ブラック氏が著した『ヤング・ジャパン』(1881年版)の1868年(明治元年)4月の条によると、当日の式典に参加した艦船は、細川(肥後・熊本藩):コスモライト
長州藩:チューサン、ヲテントサマ
鍋島(肥前・佐賀藩):砲艦 1隻
薩摩藩:ゼラール
久留米藩:コクェットの6隻です。勝伯(勝海舟)の『海軍歴史』によれば、このうち「コスモライト」は万里丸(ばんりまる)のことであり、「ゼラール」は三国(みくにまる)のことです。また海軍史の記録によると、肥前藩の砲艦1隻とあるのは「電流丸(でんりゅうまる)」のことで、その詳細(要目)は判明していますが、その他の3隻についてはまだ判明していません。
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参考までに4月6日は大阪城、11日には東本願寺難波別院、17日は福羽美静(ふくばびせい:津和野藩出身国学者)に書を講ぜしめ木戸孝允、後藤象二郎に海外事情を尋ね、坐摩社で御臨幸相撲展覧。20日には天下茶屋から住吉神社へご参拝、4月1日には英国特派全権公使ハルリー・エス・パークスと謁見、5日は大阪城で各藩兵の大砲、小銃訓練天覧。6日には大阪裁判所、豊太閤祠造営その他人民案んどの勅を賜う、その後7日に津村別院を出発、八軒屋より御乗船淀に上陸され一泊。4月8日に京都御所に還御されています。
大阪地下鉄中央線[大阪港]を下車。西へひたすら進み大阪咲州海底トンネルに入らずに側道を進むと明治天皇聖躅碑(大阪市築港事務所跡)が見つかります。
天保山は大阪五低山のなかでも一番低い山で標高はわずか4.53m。






