坐摩神社と明治天皇の関わりを探していると一冊の本に出会いました。
「明治天皇御降誕と大阪」(昭和10年発行)で、古い和綴じの書籍、内容は兒玉四郎氏が昭和10年7月23日大阪清交社で講演をされ、7月29日に大阪中央放送局にて放送講演をされた記録によるものです。
孝明天皇22歳のときに大納言中山忠能卿の息女の慶子様18歳の権典侍(ごんのすけ:天皇に仕える女性官職)。嘉永5年4月19日に中山大納言諸大夫の田中河内介と大口甲斐守積善の連盟で坐摩神社社務の渡邊近江守資正に手紙を送っている。
渡邊近江守資正は文化11年生まれ。文政13年17歳にて家督を継ぎ坐摩神社社務を任ぜられる。国学を六人部是香(むとべよしか)に、関学を大塩平八郎に、武道を嶋男也に享け和歌茶道を嗜む。夙に勤王の志厚く、坐摩執奏中山大納言家をはじめ田中河内之介、佐久良東雄、嶋男也其田勤王志士との交友繋がりし為、徳川幕府の嫌忌に触れ新選組隊士より襲われるも運よくその難を逃れる。明治25年3月に79歳で亡くなられました。
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権典侍御方御懐妊来九月御臨月ニ付
来廿三日巳刻御内着帯御治定被
命出候仍御吹聴被仰入候事
右ニ付此一封御局御衣服御中ニ候
御安産
皇子御機嫌克御降誕御成長之御祈願御頼被仰入候事
四月十九日
田中河内介 綏(花押)
大口甲斐守 積(花押)
座摩宮(ざまのみや:座摩神社)渡邊近江守 殿
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権典侍様がご懐妊され、来る9月が出産予定月(臨月)となりました。つきましては、来る23日の巳の刻(午前10時頃)に、内々で「着帯の儀(安産を祈って帯を締める儀式)」を執り行うことが正式に決まり、命令が下されました。そのため、広く(関係各所に)お知らせ申し上げる次第です。これに伴い、こちらの一封(お包み)を、御局(おつぼね)の御衣服のなかに納めております。御安産、ならびに誕生される皇子(お子様)がご機嫌よくお生まれになり、健やかにご成長されますよう、ご祈祷(お祈り)をよろしくお願い申し上げます。
四月十九日
田中河内介 綏(花押)
大口甲斐守 積(花押)
座摩宮(ざまのみや:座摩神社)渡邊近江守 殿
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そして明治天皇が御降誕された日は坐摩神社例大祭の日。無事生まれたとの手紙が田中河内之介から渡邉社務へ送られてきた。そしてその末尾に「この事を桜島へも知らせてください」の記載。
さて、この「桜島」とは「佐久良東雄」と「島男也」を指している。ここでこの登場人物を紹介すると。。
御降誕から4か月が経過した嘉永5年12月22日に送られた内容
別段、可申入旨被付(つけられ)御意候。若宮様御機嫌よく、被遊成長候。御祈祷之義、世話方東坊城(ひがしぼうじょう)大納言様、禁中御伺ひ相成、御評議被為(せられ)在、今日、別紙之通。仰出候、故、彼是(かれこれ)御延引(おえんびき)相成候由、乍(ながら)乍ら外(ほか)、
御社之御事、且つは御安産御祈も被仰付(おおせつけ)候。
若宮様生涯御祈願、被仰付(おおせつけ)候事二付、今度、付、以来、年々御祈祷之御札献上可仕(つかまつるべき)旨、併(あわせ)、御賄方(おまかな いかた)、甚(はなはだ)以(もっ)て御質素に付、御初穂者(おはつほしゃ)、年始之節、金百疋、従(より)若宮様、御奉納被為在(せられ)る。追々、御機嫌能(よく)御成長之上に八、其御時宜に被為在候へば、共々分之所、八年々、右之通、御奉納被成(なされ)候。
将又(はたまた)、伝奏(でんそう)御達之義は、是(これ)、迄(まで)、禁中御撫物(おなでもの)、御札献上等も有之(これあり)、御社に付、新規無例之社とは別段之義ゆえ、社は早々、御地町奉行所へ御届(おとどけ)可然(しかるべき)旨、御沙汰に而(にて)、尤(もっとも)、御祈は春秋二度にても、又ハ正五九月(しょうごくがつ)にても、御丹誠(たんせい)可有(あるべき)旨、御祈念(ごきねん)、肝要に被存候(存じられ候)。右之趣(おもむき)、可申入(もうしいれべき)旨、別段、被仰付(おおせつけ)候。如(ごと)き、斯(か)く御座候。
恐惶謹言。
十二月廿二日 田中河内介
渡邉近江守殿
簡単に要約すると・・
明治天皇様はご機嫌よく、すくすくと成長されています。御祈祷の件につきましては、お世話係である東坊城大納言様が朝廷(禁中)へお伺いを立て、ご評議なされた結果、本日、別紙の通りにお達しがありました。そのため、あれこれと延び延びになっておりましたが、そのほかに、お社に関すること、また御安産のご祈祷のこともお言いつけになりました。
(若宮様の生涯の御祈願について、仰せ付けられた件)
今後、年々御祈祷の御札を献上すること。また、お社の賄い方が非常に質素であるため、初穂料(寄付)として、年始の時期に金百疋を若宮様より奉納させていただくこと。追々、ご機嫌よくご成長されるに際しては、その時の状況に応じて、八年ごとの分として、右の通り奉納されること。
また、伝奏よりお達しがあった件についてですが、これまで朝廷への御撫物(病気平癒などの祈祷)や御札の献上などを行ってきたお社であり、新規の例のない神社とは別扱いであるため、早々に地町奉行所へ届け出るのがよろしいとの沙汰でした。
もっとも、御祈祷は春と秋の二度、あるいは正・五・九月の年三回など、誠心誠意行うことが肝要であると存じます。右の趣旨、申し上げるべき旨を、別段仰せ付けられました。以上の通りでございます。恐惶謹言。
皇室と坐摩神社の結びつきは田中河内之介の尽力等により強固になったのでしょう。
さて、時が流れ明治天皇は1868年(明治元年)3月14日に京都御所紫宸殿にて「五か条のご誓文」を発せられ、3月21日に京都を出発、23日に大阪到着、西本願寺津村別院の行在所に入られました。4月17日・17歳の時に大阪へ行幸。
なぜ、坐摩神社に来られたのか?これはおそらくいわゆる御降誕の祈願に対するお礼であったのでしょう。福羽美静が古事記の講義をされたのち、境内に土俵を作り京都力士の相撲を御覧になられました。しかしこの時はすでに田中河内之介も佐久良東雄も嶋男也もこの世の人ではありませんでした。
境内には気になる碑がありました。
坐摩神社境内に【陶器神社さん】があります。上方落語 つぼ算には「坐摩の前」という言葉が登場する場合があり、この付近には陶器商が非常に多かったようです。











