2025年の8月、ちょうどお盆の頃であったとおもいますがテレビで「大坂七墓巡り」の特集が放映されていました。また先般は大坂ウメキタ工事中に人骨が多数でてきたとの話も聞いたばかり。
ネットで検索すると様々な書物の中でも特に参考とされている文章が『郷土研究 上方』(上方郷土研究会)の第56号に特集されている模様。私の興味が尽きません。実はこの『郷土研究 上方』に関する話は何度か聞いたことがあります。大阪に在住の大師匠さん曰く、上方芸能が尽きぬように当時の先々代師匠方が苦労を重ねて寄稿されていたお話。。
ということで探しまわり復刻版全11巻+索引目次で昭和6年に発行された第1号から昭和19年に発行された第151号までのすべてが収録されています。ようやく当家にミカン箱の1.5倍くらいの段ボール箱が2箱届きました。中は待望の本が12冊。
さて、我が家の母の代までは8月第一週目の日曜日にお盆の供養が行われていましたが8月15日の夕方には必ず[施餓鬼供養]として、戒名を書いた塔婆とお弁当をもって田辺の法楽寺さんへ行きお流しを行っています。法楽寺の山門で用意したお弁当を預け、用意した塔婆にお水をかけてご先祖様や無縁仏の冥福をお祈りする作法です。
あの世には現世で冥福を願ってくださる方が誰もおらず、寂しい思いをされている仏さんのご冥福を祈ることで私たちのご先祖様にも祈りが届くというこれが施餓鬼供養。
大坂七墓巡りは時代によってその墓地が異なります。
江戸末期は、梅田、南浜、葭原(よしはら)、蒲生(がもう)、小橋(おばせ)、飛田(とびた)、千日(せんにち)という、当時の市街地の境界線上に配された7つの巨大墓地を、お盆の夜に数人から数十人のグループで、鉦(かね)や木魚を叩きながら夜通し練り歩くという驚きの風習がありました。
これは信仰心ではなくいわゆるイベント的なノリだったのではないでしょうか。
本来は「縁もゆかりもない無縁仏を供養することで、自らの功徳(徳)を積み、極楽往生を願う」という純粋な浄土信仰から始まったものですが、団扇や扇子を片手に、提灯を灯して夏の夜を練り歩くわけですから
亡くなられた方を弔うコトが夜遊びだったのではないでしょうか。
これが明治維新を迎えると、都市の「衛生管理」と「土地の有効活用」です。それまで市街地のすぐそばにあった広大な墓地は、コレラなどの伝染病対策や、近代化(鉄道や道路の敷設)のジャマになると見なされました。
1873年(明治6年)には一時的に火葬禁止令が出され(のちに撤回)、未開発だった郊外の長柄(現在の北霊園)や阿倍野、岩崎新田へと墓地を集約・強制移転させる政策が進められます。これにより、梅田墓地や千日墓地といった主要な墓地が次々と解体されていきました。
そして、死は「忌むべきもの」として位置づけられ近代的ではないということから姿を消していくことになります。
大正時代になると、ここで七墓巡りは、当時の最先端の知識人や文豪たちによる「郷土史ブームとしての再評価」がありました。関東大震災が原因で日本一の経済都市へと膨れ上がった大大阪時代、急激にビルや工場が立ち並ぶ近代都市へと変貌した反動から、郷土史家や文化人たちが、江戸時代の文献を紐解き、「かつてこの街には、死者を陽気に弔う七墓巡りという文化があった」と再認識されました。
そして昭和に入り、好景気、不景気を繰り返しながら第二次世界大戦と高度成長期と商業施設の建設から核家族化や無宗教化で完全に忘れ去られた今、復活の兆しが表れています。
メディアが面白おかしく事実を紹介することは特に異存ありませんが、一種の娯楽やスタンプラリーのような感覚で行うべきものではなく、こんな世相だからこそ今の日本の礎となられた方々と、今の私たちに繋がるご先祖様への敬意を忘れないように素晴らし風習として復活したいものです。
