この記事は「2011 12/17 教科書に書かれない幕末史 ~琉球処分」をリライトし加筆しています。
◆ 薩摩藩の侵攻と「掟十五条」による二重支配
1372年に明(中国)の進貢国となり、冊封関係を結んだ琉球王国。貿易によって独自の文化と繁栄を遂げていましたが、その平和な歴史は江戸時代の幕開けとともに大きく動きます。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康から島津家に出されたのは、まさかの「琉球制圧」の指令でした。
1609年、島津軍3,000人が琉球へ攻め入り、首里城を制圧(慶長の役)。1611年には、琉球にとって非常に不利な「掟十五条」を無理やり結ばされることになります。
【掟十五条の主な内容】
奄美群島を薩摩藩の領土とし、税を納めさせること
今回の島津軍による戦の正当性を認めること
明との冊封貿易を薩摩藩の許可・監視下に置くこと
これにより、琉球は薩摩藩への年貢支払いや江戸への参勤交代(江戸立ち)を余儀なくされました。さらに、明(のちに清)との関係も継続していたため、中国と日本の間で板挟み状態となります。
薩摩藩は、清に対して自藩の存在や支配を隠し通す一方で、日本国内に向けては「琉球を配下に置いた」と強くアピールしていました。厳しい環境下ではありながらも、琉球はかろうじて王国としての体面を保ち続けていたのです。
◆ ペリー来航と「琉球藩」への改変
ペリーが浦賀にやってきた「黒船来航」は1853年7月8日として有名ですが、実はその約1ヶ月前(5月26日)、ペリーは先に琉球へ立ち寄っていました。強引に首里城へ入り込み、開国を促すアメリカ大統領の親書を手渡していたのです。
その後、時代は明治へと変わります。
明治5年、新政府は使者として楢原陳政(ならはらいちじ / 幸五郎)を琉球へ派遣。明治維新を祝う「慶賀使節」を東京へ出すよう要請しました。
同年9月14日、琉球使節は明治天皇に謁見。このとき外務卿の副島種臣から「琉球藩」とする命が下されます。当時の琉球側は「王国から藩へと呼称が変わるだけ」と受け止め、大きな危機感は抱いていませんでした。
※使者・楢原陳政とは? 幕末の「寺田屋事件(1862年)」や「生麦事件(1862年)」に関与した薩摩藩士。のちに第8代沖縄県知事(1892年〜1905年)を務めることになる人物です。
◆ 海外派兵の引き金となった「台湾出兵」
そんな中、日本の領土問題を大きく揺るがす大事件「台湾出兵(明治7年)」が勃発します。
事の始まりは1871年(明治4年)。年貢を納めた帰りに台風へ巻き込まれた宮古島の船が、台湾南東部に漂着しました。乗組員66名のうち54名が、言葉の通じない現地の先住民(パイワン族など)によって殺害されてしまったのです(「宮古島島民遭難事件」)。
当時、琉球は「日本(薩摩)と清国の両方に所属している」というあやふやな立場にありました。そこで明治政府は「被害に遭った琉球民は日本の国民である」と主張。琉球が日本の領土であることを世界へ証明するため、軍の派遣を決定します。
西郷隆盛の弟・西郷従道(つぐみち)をトップに立て、約3,600名の軍隊を台湾へ派遣。これには、明治維新の改革で不満を募らせていた元武士(士族)たちの目を海外へ向けさせるという政府の思惑もありました。
日本軍は現地の集落を制圧したものの、実際の戦闘以上に猛威を振るったのがマラリアなどの風土病でした。500名以上の病死者を出すという、非常に過酷な戦いとなったのです。
◆ 大久保利通の外交戦と「北京専条」
当然、清国は「台湾は我が国の領土だ!」と強く抗議してきました。
ここで全権大使として清の北京へ乗り込んだのが大久保利通です。大久保はイギリスなどの仲介も借りながら、「近代国際法(万国公法)」を武器に清国の高官たちと激しい心理戦を繰り広げました。
そして10月31日、両国の間で「北京専条」という条約が結ばれます。
清国は日本の出兵を正当なものと認め、被害者への見舞金や日本軍が設置した設備の買い取り費として50万両(現在の価値で約100億〜150億円)を支払う。
清国が「被害者は日本の国民(民人)である」と公式に認めたことで、清国は琉球に対して口出しができなくなりました。これが、1879年(明治12年)に「沖縄県」が設置(琉球処分)される大きな決定打となったのです。
◆ 裏で支えた「日本近代法の父」ボアソナード
この難航した外交交渉を裏で支えたのが、明治政府のお雇い外国人であったフランス人法学者、ギュスターヴ・エミール・ボアソナード(Gustave Emile Boissonade)でした。
彼は法律のアドバイザーとして大久保利通に国際法の助言を与え、日本の立場を強力にバックアップしました。
ボアソナードは外交面だけでなく、日本の近代化のために数多くの功績を残しており、のちに「日本近代法の父」と称され、現在の日本の民法の基礎を築くことになります。
このように、薩摩の侵攻から始まった琉球の二重支配は、国際法をめぐる外交戦を経て、日本へと組み込まれていく歴史の大きなうねりとなったのです。
