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2011/12/17

2011 12/17 教科書に書かれない幕末史 ~琉球処分

今日の講義は【琉球処分】処分?え?って感じで始まりました。

H16に琉球大学の非常勤講師をされたそうで、松下村塾、高杉晋作さんのお話をされたそうですがあまり反響は宜しくなかったそうです。

明治新政府がすこしでも早く体面を保つために急ぎすぎた歪が北海道や沖縄に出ているのでしょう。
そういえば、沖縄の歴史ってほとんど知らないことに気がつきました。
同じ日本なのにまったく違う道を歩んできた沖縄の歴史を教えていただき愕然とした気持ちになったと同時に、とんでもなく酷いことをしてきた明治新政府に腹立たしい思いがしました。

明治新政府は明治2年に版籍奉還、明治4年に廃藩置県を行っていますが当時の琉球はまったく蚊帳の外。
ところが明治5年の9月14日には置藩を行い、はじめて琉球藩が出来ました。当時の藩主はそれまでの国王である尚泰(しょうたい)。

さて、琉球は1372年に隣国の明の進貢国となり冊封(さっぽう)関係を結んだおかげで貿易が活発化。
そんな琉球に悲劇が襲いかかる。

関ヶ原の戦いで勝利を治めた徳川家康より琉球制圧の指令が島津家に飛んだ。
1609年、島津の兵隊3000人が攻め入り首里城を制圧し、琉球は薩摩の不傭国となり1611年には、・奄美を薩摩にものとする ・薩摩に税を納める ・今回の戦の正当性を認める ・掟十五条
を守る(他国貿易・支配・税金・意識面)の掟を結ばされてしまう。
これにより薩摩藩に対する年貢や江戸への儀礼が必要となってしまった琉球。しかも中国(明)との関係も続いているために板挟み状態、その後、中国は明から清となったがその関係は継続し、非常に厳しいながらも王国としての体面を保っていた。島津は清に対して自藩の存在に気付かれないように注意を払わせたその反面、日本国内に対しては、琉球を制圧し、配下としたことをアピールさせたらしい。まったくひどい話です。

ペリーが浦賀に来た1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、実はそれよりも前の5月26日に琉球にきている。
なかば無理やり首里城へ入り開国を促すための大統領の親書を手渡した。

明治5年、新政府はそんな琉球に使者(ならはら・いじち)を送り報告させるとともに、琉球より政府へ
明治維新慶賀使節を出すことを要請。明治5年9月14日に明治天皇に謁見。
この時の外務卿の副島種臣より置藩とすることを命じられた。この認識では琉球王国が琉球藩となった呼称変更だけだから安心せよという雰囲気であったのか。。

さて、ここで勃発したのが明治7年の台湾出兵。
参照) http://sweet-mikan.blogspot.com/2011/11/2011-1119.html
明治政府は中国に対し、自国民が殺されたと宣言しているが、琉球にとっては大きなお世話!
この事件で琉球藩は外務省から内務省管轄。


明治8年7月10日 明治政府から命じられた役人の「松田道之」が琉球へやってくる。


松田道之は鳥取藩家老の又家来(陪臣)で、内務官僚。
明治新政府としては琉球を日本の一地方として組み入れたいわけなので、中国と縁を切れ!とか明治の年号を使え!とか刑法は日本国内法に準じろ!とか前回の台湾出兵のお礼を明治天皇に言いに行け!とか色々と言って来た。
もちろん琉球としては、呼称が変わっただけという認識なのですべてNO!
それならいっちょ武力で琉球を制圧しようかとの方向もあったが新政府はいまいち自信が無かったようです。

明治8年8月20日 三司官(琉球王国の上位クラスのお役人さん)が松田道之へ嘆願するがむちゃくちゃな理論を言葉でねじ伏せてしまう。
9月2日までに返事をしろ!という松田に対し9月7日に政府と交渉を行いたいという返答を行うとともに、その後何度も嘆願をおこなうがすべてNG!

不幸なコトにこのあたりから新政府は忙しくなってきた。というのは西南戦争が勃発(明治10年-)
琉球どころではなくなってきた。
琉球はこの間になんとかこの非道な話を東京にいる米・仏・和蘭・中国などの公使に収拾を依頼するも失敗。国際世論に取り上げさせて他国を後ろ盾にしたかったようだが、東京にいる琉球人をすべて退去させよという裏目にでる。

明治12年1月25日に政府の命令を無視して他国の公使へ接触したという理由で、松田がまた琉球へやってきた。この時の内務省TOPは伊藤博文さん。前任の大久保利通さんは暗殺されている。
同1月26日には琉球の内務省出張所へはいりその後首里城へ。
2月3日の10時までに返答をしろという松田に対し即答できない旨を返答する。
琉球はなんとか国際問題にしたかったのだが難航。松田は琉球人の出入りを監視し届け出が必要として。松田は捨て台詞「後日の処分を待っておけ!」を残して帰ってゆく。

そして3回目の松田登場!
明治12年3月25日に400人の軍隊と140人の警官をつれて首里城へ入ってゆく。


そして3月31日の正午までに退去せよ!という命令をだし4月4日には沖縄県と改名。4月5日には鍋島直彬(なおゆき※旧鹿島藩士)を県令とした。

実は恐れていたのは暴動であったのか、藩王一家を優遇、生活を保障、諸税を軽減することを松田は約束している。

この3月31日・・ついに首里城は内務省管轄となり、熊本鎮台がラッパを吹き鳴らしながら入城した・・琉球の最後の日で屈辱の日となる。

さらに追い討ちをかける。

藩王(尚泰)を上京させよという命令が下るがまぢで病に臥せっている
また琉球人は3人以上の集合は禁止というとんでもない命令まででてしまう。

ついに5月18日にはとうかい丸で上京。
6月18日には新県庁に従えという命令がくだる。。。

あまりにも強引すぎた方法の明治新政府。いままでの慣習や税制等を残す旧慣温存策で沖縄を統治することとした・・そのために沖縄に近代化は大幅に遅れることとなった。
そしてわずか66年後の1945年には第二次世界大戦の悲劇によりアメリカに接収。
戦後27年の1972年にようやく日本国となった。