大阪の吉祥寺にて義士祭が行われました。
長く大阪に住んでいながら非常に恥ずかしいのですが、今回初めて参拝させていただきました。
我が町の歴史をきっちりと把握し、次の世代へ受け継いで行くことはとても大切なことと再認識いたしました。
浅野家大阪菩提寺義士の寺 吉祥寺
墓碑由来
大石内蔵助をはじめとする四十六士が元禄十六年(1703年)二月四日に切腹の後
足軽のゆえを以って幕府から切腹御免となった寺坂吉衛門が四十六士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀十両を添えて江戸では幕府に遠慮して墓の出来なかった義士達の冥福の為の建碑を依頼してたもので現在の墓は元文四年(1739年)義士三十七回忌のさい、大阪の豪商達が相寄り、造立したものである。戦火を蒙ったが中央の五輪の塔が、長矩候の墓で浅野本家芸州候が建てられたのも「冷光院殿浅野内匠頭、元禄十四年三月十四日」と自刃の日が刻んである。その向かって右側に大石内蔵助、左側に大石主税の墓、周囲は吉田忠左衛門をはじめとする四十四士の戒名と行年を刻んだ玉垣が取り囲み遺髪、遺爪、鎖かたびらが安置されている。
江戸幕府の庶民への義士信仰の制圧にもかかわらず人々の心は益々それに引かれていった。討ち入り後、四十七年目に上演された仮名手本忠臣蔵の浮世絵によって巧みに表現されて行くことになった。
義士討ち入り百五十年祭には当寺は絵はがきで配布した有名な木版を造立したが惜しくも戦災により本堂遺品共々消失した。平成十四年義士討ち入三百年祭にあたり巧みな石工に再現されたものでありその緻密さを労苦には頭の下がる思いがする。何時の時代にも物資を超越した義士の至誠報恩のゆかしい精神はこの討ち入り姿の石彫りで永久に伝承されるであろう。
平成十四年十二月十四日 大阪義士会