明治政府は、日清修好条規によって清と「対等な国際関係」を結んだことで「清と対等な国として、その影響下にある朝鮮とも直接交渉する権利がある」という考え方から、日本は朝鮮に対して開国を求めたが、当時の朝鮮(李氏朝鮮)は「日本が天皇を中心とする近代的な書簡を送ってきたこと」や「清への朝貢秩序を重視していたこと」から、日本の打診を拒絶。
日本は、江華島事件(1875年:M8/9月)の武力を背景に圧力をかけ、1876年(明治9年)2月27日に日朝修好条規(江華条約)を締結。
日本全権・黒田清隆および井上馨と、朝鮮側全権・申櫏(シン・ホン)らによる
緊迫した交渉の様子
この日朝修好条規を不平等条約としたのは、過去欧米列強から受けた「砲艦外交」で締結した不平等条約(安政の五カ国条約)のノウハウを使い、朝鮮を「清の支配」から切り離すための手段としただけでなく日本国内では士族に対する廃藩置県や四民平等などの改革で特権を奪われた旧士族たちの不満をかわすためでした。
⇒征韓派 西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎 など
「使節(西郷)を派遣して交渉し、拒否・危害を加えられたら武力行使」とし、早期の朝鮮派遣を主張。
⇒反対派 大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文 など
欧米の発展を目の当たりにし、「今は海外に手を出さず、内政改革(富国強兵)が先決」と主張。
西郷らの朝鮮派遣は中止決定、これに激怒した西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは政府の役職を辞任して下野した(明治六年の政変)。
◎旧士族の反乱
国内では九州、中国地方の各地で士族の反乱が発生。東日本では大きな反乱は発生していない。これは戊辰戦争の影響で奥羽越列藩同盟の各藩は相当疲弊、武装解除させられていたことが原因、しかし反乱は武力ではなくこの後の自由民権運動へ変化していく。
・1874年(明治7年2月1日-3月1日) 佐賀の乱
征韓論で敗れて下野した元司法卿・江藤新平や島義勇らが、不平士族を率いて佐賀で挙兵。大久保利通率いる政府軍に即座に鎮圧され、首謀者は処刑された。
・1876年(明治9年10月24日-10月25日) 神風連の乱(敬神党の乱)
熊本で廃刀令や洋化政策に激しく反発した極右尊王攘夷派の士族(敬神党)が挙兵。熊本鎮台や県庁を奇襲し鎮台司令官らを殺害するも、兵器の差により鎮圧された。
・1876年(明治9年10月27日-11月14日) 秋月の乱
福岡県秋月の士族(宮崎車之助ら)が、神風連の乱に呼応して挙兵。乃木希典らの政府軍や警察隊によって鎮圧された。
・1876年(明治9年10月28日-11月6日) 萩の乱
山口県萩で、元参議の前原一誠らが神風連の乱・秋月の乱に呼応して挙兵。政府の批判と天皇への直訴を目指したが、政府軍によって速やかに鎮圧された。
・1877年(明治10年2月15日- 9月24日) 西南戦争
士族による最大にして最後の武力反乱。西郷隆盛を擁した鹿児島の私学校生徒らが挙兵し、熊本城を包囲。徴兵制による平民中心の新政府軍と数ヶ月に及ぶ激戦を展開したが、西郷の自刃により鎮圧された。
・江華島事件(こうかとうじけん)
1875年(明治8年9月) 朝鮮半島の江華島(カンファド)周辺海域で発生した日本海軍と朝鮮軍との武力衝突事件。
1875年5月、日本海軍の軍艦「雲揚号」(艦長:井上良馨)などが朝鮮沿岸の測量名目で派遣、
雲揚号のボートが江華島近海で水を入手するために接近したところ、首都(漢城)を防衛する重要拠点であった江華島の砲台から警戒砲撃を受けました。雲揚号はこれを口実に砲撃を返し、江華島の砲台を破壊。さらに近くの永宗島(ヨンジョンド)へ陸戦隊を上陸させて陣地を占領・焼討ちし、武器などを押収しました。この結果、「日朝修好条規(江華島条約)」を締結。
日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年)に日本と朝鮮(李氏朝鮮)の間で締結された平和・通商条約です。別名「江華島条約(こうかとうじょうやく)」とも呼ばれます。日本にとっては自国主導で結んだ初めての近代的な条約であり、朝鮮にとっては史上初の開国条約となりました。
この「日朝修好条規」条約には日本に極めて有利で、朝鮮側にとって不利な不平等要素が含まれていました。安政の五カ国条約との類似性日本が1858年に欧米列強から押し付けられた「安政の五カ国条約(不平等条約)」の構造(領事裁判権・関税自主権の欠如・軍事威嚇による開国)を、今度は日本がアジアの隣国に対してそのまま適用したという歴史的皮肉も含んでいます。
・朝鮮国は「自主の国」であり、日本と対等な権利を持つ
・釜山(プサン)・元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)を開港
<不平等要素>
・日本人が朝鮮国内で罪を犯した場合、日本側が裁判を行う(片務的領事裁判権)
・沿岸測量権日本の船が朝鮮の沿岸を自由に測量することを認める(領海主権の侵害)
・関税に関する規定を設けず、事実上の無関税貿易を開始、日本製品(主に綿製品)を朝鮮に大量流出させ、朝鮮の経済を圧迫した。
これにより鎖国を続けていた朝鮮は西洋や日本の技術・文化を受け入れ始めましたが、国内では「日本と組んで近代化を進める派(開化派)」と「伝統的な清との関係や排外主義を守る派(守旧派・衛正斥邪派)」の対立が深まりました。
同時に朝鮮を「自主の国」と定めた日本に対し、清は「朝鮮は伝統的に自国の属国である」という立場を崩さなかったことから、朝鮮の主導権をめぐる日本と清の競合が決定的なものとなり、後の壬午軍乱(1882年:M15)、甲申政変(1884年:M17)、そして日清戦争(1894年:M27)へとつながっていきました。
・壬午軍乱(じんごぐんらん)
1882年7月23日(明治15年)7月に朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)で発生した、旧式軍隊による反乱事件(軍隊クーデター)。
開国後の朝鮮政府は、日本から教官(本野盛柄陸軍工兵少尉など)を招いて近代的な新式軍隊「別技軍(ベッキグン)」を組織し、手厚く優遇。一方で、放置された旧式軍隊の兵士たちは、13ヶ月も給料(米)が未払いという過酷な状況に置かれていました。
ようやく支払われた給料の米に、不正によって砂や糠(ぬか)が大量に混ぜられていたことが引き金となり、兵士たちの怒りが爆発。
また、日本の進出による経済的混乱(米の輸出増加による価格高騰など)により、下層民衆の間でも反日・反開化政策の感情が高まっていました。
激怒した旧式軍兵士たちが立ち上がり、米の支給責任者の屋敷や政府高官の邸宅を襲撃。さらに米価高騰に苦しむ一般民衆もこれに加わりました。
反乱軍は王宮(景福宮)に侵入し、近代化・開化政策を推進していた閔妃(ビンヒ / 王妃)の一族を殺害・追放(閔妃本人は変装して宮中を脱出)。
反乱軍は、開国政策に反対する保守派の指導者興宣大院君(フンソンテウォングン / 高宗の父)を担ぎ出し、大院君が再び政権を握りました。
反乱軍は日本公使館を包囲・放火しました。花房義質(はなぶさ よしもと)公使ら日本外交官や軍人は脱出し、仁川沖でイギリスの船に救助されて長崎へ逃れましたが、日本人軍事顧問(堀本礼造少尉)や公使館員ら数名が犠牲となりました。
逃亡した閔妃は清(清朝)に助けを求めました。清は「朝鮮は自国の属国である」という立場を示すため、ウー・チャンチエン(呉長慶)やユアン・シーカイ(袁世凱)率いる約3,000の清軍を直ちに派遣し反乱を鎮圧。中心人物であった大院君を捕らえて清の天津へ連行(拉致)。これにより政権は再び閔妃一族に戻りました。
終結後、日本は軍艦を派遣して朝鮮政府に賠償を要求。1882年8月、済物浦(チェムルポ)条約が締結。賠償金と日本公使館の警備名目での「日本軍駐屯権」を獲得した。
・甲申政変(1884年:明治17年:こうしんせいへん):金玉均(キム・オクキュン)ら開化派が日本軍の支援を受けてクーデターを起こすも、清軍の介入によりわずか3日で失敗。
1876年の日朝修好条規による開国後、朝鮮政権内では今後の国造りをめぐって深刻な意見対立が生じていました。
・親日派(開化派 / 独立党):金玉均(キム・オクキュン)や朴泳孝(パク・ヨンヒョ)ら。
日本の明治維新をモデルとし、清への従属を断ち切って急進的な近代化を目指す。
・親清派(守旧派 / 事大党):閔妃(ビンヒ / 王妃)一族ら。清の軍事力を頼りとし、
清の伝統的支配のもとで穏やかな改革を進めようとする。
1882年の壬午軍乱以降、清が朝鮮への政治・軍事介入を大幅に強めたため、守旧派(親清派)が実権を握り、焦った開化派(親日派)は追い詰められていきました。
1884年、清仏戦争の勃発により、朝鮮に駐留していた清国軍の約半数が撤退しました。
この隙を突いた金玉均らは、日本の駐朝公使・竹添進一郎から公使館警備兵の支援を取り付け、クーデターを決行しました。
12月4日、郵政局の開局パーティーに乗じて刺客を放ち、閔妃派の幹部らを暗殺。
王宮を占領して新政府を樹立し、「清への朝貢の廃止」「身分制の打破」「税制改革」などの近代化プログラムを発表しました。
しかし、清の武官・袁世凱(えんせいがい)が率いる1,500名の清国軍が即座に王宮を攻撃。
日本軍(わずか150名程度)は防戦一方となり、クーデターはわずか3日で鎮圧されました。
金玉均らは日本へ亡命し、朝鮮国内の開化派勢力は徹底的に粛清されました。
・天津条約(1885年):衝突寸前となった日清両国(日本:伊藤博文、清:李鴻章)が締結。「両国とも朝鮮から即時撤兵すること」「将来出兵する際は互いに事前通知すること」を約束し、一時的な均衡が保たれました。
日清両軍の撤兵:両国は朝鮮に駐留させている軍隊を4カ月以内に同時に撤退させる。
軍事顧問の不派遣:朝鮮に対し、日清双方とも軍事顧問を派遣しない。
出兵時の事前通知規定(最も重要):将来、朝鮮に重大な事態が起き、日清のどちらかが出兵する場合は、あらかじめ相手国へ書面で通知しなければならない。
この条約により、一時的に衝突は回避されました。しかし、「出兵時の事前通知規定」を設けたことで、両国が朝鮮へ出兵する正当な「手続き」を共有することになりました。
日本は天津条約以降の約9年間、日本は清との軍事的格差を埋めるため猛烈な軍備拡張を進めました。
山県有朋らは、日本の国土そのものである「主権線」だけでなく、自国の安全保障に不可欠な隣接地域を「利益線(=朝鮮半島)」と定義。「朝鮮を清の影響下から切り離し、ロシアなどの大国に奪われないようにする」ことが明治政府の至上命令となっていきます。
東学党の乱(甲午農民戦争):1894年に朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起きると、手に負えなくなった朝鮮政府は清へ出兵を要請、清が天津条約の規定に基づき通知して出兵、日本も「邦人保護」を名目に即座に大規模な部隊を朝鮮へ送り込みました。
明治27年(1894年)4月、朝鮮の全羅道古阜県(こふけん)で民衆が反乱を起こし、国政の改革を大義名分に掲げて殺戮の限りを尽くした。その勢いは忠清道や慶尚道にまで及び、猛威を振るったため、もはや朝鮮の軍隊ではどうすることもできなくなった。
この一党は「東学党」と呼ばれ、「東学」という独自の教派から派生した宗教団体であった。慶州に生まれた崔済愚(チェ・ジェウ)が教祖であり、その教えは儒教・仏教・道教を折衷・混合したものであった。
彼らは「天主の創造と変化を尊び、天命や天理に従うべきである」と説き、挙兵に際しては以下のように声明を出していた。
* 人を殺さず、物を奪わず、忠孝を両全し、世を救い民を安んじること
* (西洋の)夷狄や倭(日本)を駆逐・滅ぼして、正しい道を清く明らかにすること
* 軍勢を率いて都に入り、権力を握る貴族や高官たちを残らず滅ぼし、大いに綱紀を正すこと
* 正しい名分を立てて、聖人の教えに従うこと
このことから、彼らが宗教的な信念のもとに政治革命を企てていたことがよく分かる。
※引用「大衆明治史」:菊池寛
反乱が静まった後、日本は「両国で協力して朝鮮の改革を行おう」と提案しますが、清は「他国の介入は不要」と拒否。日本軍は朝鮮の王宮を占領して親日政権を樹立させ、1894年8月1日、清国への宣戦布告により日清戦争が正式にスタートしました。
・甲申政変の真っ最中に発生した清仏戦争
清仏戦争(1884年8月〜1885年6月9日・明治17年〜明治18年)は、ベトナムの保護権(主導権)を巡り、アジア進出を加速させるフランスと、ベトナムを自国の「宗主国(保護国)」とみなす清国との間で戦われた戦争。
フランスは19世紀半ばからベトナムへの進出を深め、1883年の「ユエ条約(アンナン条約)」によってベトナム全土を保護国化しました。しかしベトナム(阮朝)は長年清国の「冊封国(宗主国と従属国の関係)」であったため、清国に助けを求めました。
清国はフランスのベトナム保護国化を認めず、正規軍をベトナム北部(トンキン地方)へ派兵しました。
同時に清国軍とともに、劉永福(りゅうえいふく)率いる非正規の部隊「黒旗軍」がフランス軍に対して激しく抵抗し、紛争は全面的な戦争へと発展しました。
戦闘はベトナム北部だけでなく、中国沿岸部や台湾にも拡大しました。
海戦ではフランス海軍は圧倒的な火力を誇り、福建省の馬尾沖海戦で清国の福建水師をわずか数時間で壊滅、さらに台湾の基隆や淡水を攻撃・封鎖し、澎湖諸島を占領しました。
しかし陸上戦(ベトナム国境付近)では、清国側の名将・馮子材(ふうしかい)らの奮闘により、鎮南関の戦いなどでフランス軍を破るなど、清国側が優勢に立つ場面もありました。
この敗北により、フランスの内閣(フェリー内閣)が倒れるほどのショックを与えました。
海上で激しく攻め立てるフランスと、陸上で粘り強く抵抗する清国という泥沼の膠着状態に陥ったため両国はイギリスなどの仲介により講和へ向かいました。
天津条約(1885年6月9日)
1885年6月、両国は天津条約(清仏天津条約)を締結して講和しました。
ベトナムの宗主権を放棄:清国はフランスによるベトナムの保護権を承認し、
数千年来続いてきたベトナムとの宗属関係を完全に失いました。
1885年6月9日に清朝とフランスの間で締結された「清仏天津条約」の調印後、清国全権大臣であった李鴻章(前列右から2番目)と、フランス公使ジュール・パトノートル(中央の椅子に座る人物)らが撮影した歴史的写真です。
フランス領インドシナの成立:フランスはベトナムを完全に掌中に収め、
のちにカンボジアやラオスと合わせて「フランス領インドシナ連邦」を形成していきました。
結果、清国は西欧の技術を取り入れる自強運動(洋務運動)を進めていましたが、自慢の艦隊(福建水師)が全滅したことで、その限界が露呈しました。
また、清仏戦争で清国がベトナム戦線に注力し、朝鮮駐留軍の一部を撤退させたスキを突き、朝鮮では金玉均ら親日派(開化派)が甲申政変を起こしましたが清国軍に阻まれ失敗。
清国がフランスに敗れてベトナムの宗主権を失ったことは、日本に対して「清国は東アジアの宗主権を守る余力がない」という印象を与えました。これが10年後の日清戦争(朝鮮の主導権争い)において、日本が開戦に踏み切る大きな要因の一つとなりました。