学校の教科書では「清朝末期に起きた排外運動と、8カ国連合軍による鎮圧」としてサラッと学習しますが、その背景には欧米列強による急激な中国分割や、民衆の怒り、そして極限状態の中で生まれた熱い人間ドラマがありました。
今回は、北清事変の全体像と、GHQの焚書指定図書としても知られる菊池寛(文芸春秋を興した方)の著書『大衆明治史』に描かれた印象的なエピソードをご紹介します。
1. 義和団事件の始まり:なぜ民衆は立ち上がったのか?
義和団は、宗教と武術(義和拳)が結びついた民衆の集まりです。
日清戦争(1894〜1895年)で敗北した清国に対し、西洋列強は「清はもはや病める獅子にすぎない」と見て、一気に領土や利権の強奪(中国分割)を進めました。
・ドイツ:膠州湾(青島)を獲得
・ロシア:旅順・大連(不凍港)を獲得
・イギリス:威海衛および香港新界を獲得
・フランス:広州湾を獲得
・日本:福建省の不譲渡協定を獲得
・アメリカ:「門戸開放三原則」を提唱して参入
こうした列強の強硬な進出と拡大するキリスト教と伝統的な儒教・仏教・道教との対立が深まります。そこへ1898年頃の大日照りや洪水といった天災が重なり、「西洋人がキリスト教を広めて神の怒りを買ったからだ」という風説が広まりました。
自衛のために結成された村々の団体は、「扶清滅洋(清を助け、西洋を滅ぼす)」をスローガンに掲げ、呪文や護符で「不死身になる」と信じて都市部へと広がっていったのです。
清朝の宮廷(実権を握っていた西太后ら)は、この民衆の排外エネルギーを「正規の民兵」として利用し、列強を排除しようと目論みました。
2. 大沽砲台の占領と「55日間の北京籠城戦」
義和団の横暴に対し、列強側も強硬姿勢をとります。
1900年6月17日、8カ国連合軍は北京への連絡網を確保するため、天津の海口を守る要塞「大沽砲台」を攻撃・占領しました。
これに激怒した西太后は義和団を公認し、6月21日に列強11カ国へ一斉に宣戦布告を発令。北京の公使館街(外交官、民間人、中国人キリスト教徒ら約4,000名)は、清国軍と義和団によって完全に包囲されました。
これが、事件の中核となる「北京公使館街の立てこもり(1900年6月20日〜8月14日/55日間)」です。
絶望的な包囲戦の中、主力として戦闘を牽引したのが、日本陸軍の柴五郎(しば ごろう)中佐率いる日本軍でした。日本軍は最多の兵力を派遣し、その冷静な指揮と高い規律で各国から絶大な信頼と評価を得ることになります。
8月14日、連合軍が北京城に到達して全面攻撃を開始すると、清国軍と義和団は潰走。西太后と光緒帝は変装して西安へ亡命し、包囲戦は幕を閉じました。
3. 事変の結末:過酷な賠償金と日露戦争への足音
1901年の北京議定書(辛丑条約)により事変は収束しましたが、清朝には破滅的な代償が待っていました。
・莫大な賠償金:当時の年間国家予算の数倍にあたる4億5,000万両(テール)の支払いを課され、清朝財政は壊滅(のちの辛亥革命・清朝滅亡の引き金に)。
・外国軍隊の駐留:北京から天津に至る要衝に外国軍の駐留が認められ、主権が大きく侵害されました。
・ロシアの満洲占領:ロシアはこの混乱に乗じて満洲全体を実質的に軍事占領。事変後も撤退しなかったため日本との緊張が高まり、日露戦争(1904年)へとつながっていきます。
4. 『大衆明治史』が伝える、歴史の裏側の人間ドラマ
菊池寛の著書『大衆明治史』には、教科書には載らない当時のリアルな光景や、人間の絆が生き生きと描写されています。
① 極限状態で見せた英軍のプライド
籠城中、米や麦は真っ先に底をつき、食糧は半分に減らされ、最後には青草をかじり、犬猫やネズミ、馬まで食べ尽くすという、まさに「加藤清正の蔚山(うるさん)籠城」のような惨状でした。
かうした中でも、英国の兵隊たちは、朝になるといつも、綺麗に髯を剃つてゐたのには愕いた。
死と隣り合わせの極限状態であっても身だしなみを整え、規律と矜持を保ち続けたイギリス兵の姿は、観戦していた人々に強い印象を与えました。
② 指を3本切って密書を届けた中国人「張徳麟」
孤立した北京から、天津の日本軍(福島安正少将)へ状況を伝えるため、柴中佐は「張徳麟(ちょう とくりん)」という中国人に300両の報酬を約束し、暗号の密書を託しました。
誰もが半信半疑の中、8月1日、張は無事に密書の手紙を持って帰ってきました。見ると、彼の左手の指は3本切られていたのです。
天津に着いた際、日本軍の密使であることを証明するために、自ら進んで指を切り落として見せ、手紙を渡したといいます。「北京の籠城軍は健在なり」というこの報せは、天津の各国人を歓喜させました。
③ 金を受け取らず、名も告げずに去った「男の約束」
無事に大役を果たした張に対し、柴中佐が約束の300両を渡そうとすると、彼はこう言って固辞しました。
「天津へ行つたついでに親爺に会つたら、そんな金は貰つてはいけない。兵隊をやめて、天津へ帰れと云はれたから、これから直ぐ天津へ帰ります」
ではなぜ、命懸けで密書の返事を持って戻ってきたのか?と尋ねると、彼は一言「一旦男が約束したからだ」と答え、お金も受け取らず、名も告げずに去っていきました。
事変が終わった後、張は柴中佐のもとを訪れ、本当の動機をこう明かしました。
「自分は義和団の一人として参加したが、戦争が長引くにつれて疑問が湧いてきた。中国が世界を相手に喧嘩をしているようなもので、これはいまに酷い目に遭う。早く収まりをつけるには、一番信頼できる日本軍を助けるのが早道だと考えたからです」
しかし、事変後に列強が中国を徹底的に痛めつけたことに対し、「自分のせいではないか」と良心が咎め、相談に来たのでした。
④ 「白紙の手紙」がつないだ一生の信頼
張徳麟はその後の日露戦争や満洲事変においても、終始日本人の誠意を信頼し、両国のために尽力しました。昭和11年に彼が来日した際、柴大将は彼との交流についてこう語っています。
「お金のいらぬ人、直情径行、支那人には珍しい人だと思う。字が読めず、私に手紙をくれる時でも、封筒は誰かに書いてもらい、中には白い巻紙をキレイに畳んで入れてあるだけ。それでも張さんの心は十分に通じる。私にはこの白紙の手紙が、何よりも嬉しく、有難い」
おわりに
国家間の権力闘争や凄惨な戦争の記録の裏側には、こうした国境や立場を超えた「誠意」と「信頼」のドラマが存在していました。
文字の書けない張氏が送った「真っ白な手紙」と、それを心から喜んだ柴五郎大将。
歴史を学ぶ本当の面白さは、年号を覚えることではなく、こうした先人たちの熱い血の通った生き様や精神に触れることにあるのかもしれません。
