今回はいよいよ日露戦争に突入です。
日露戦争は日本側は9万人近くの戦没者と15万人以上の負傷者を出し、国家予算の何倍もの戦費が国民生活を強く圧迫、戦後は「日比谷焼打事件」等の情勢不安が発生、またロシア側も 戦死者約8万人、負傷者約14万人に加え、約8万人の捕虜が出るなど大きな損害を受けました。終戦後は戦費による経済悪化と軍の敗北が引き金となり、第一次ロシア革命が勃発、1905年に起きた「血の日曜日事件」をきっかけに、皇帝の独裁政治(ツァーリズム)に対する不満から民衆や労働者が蜂起した社会動乱です。
それでは、前回のエントリーに続きその経緯を時系列に記載します。
◆1904年(明治37年)2月4日: 御前会議において、ロシアとの交渉打ち切りと対露開戦を決定。
<御前会議の参会者>
・元老(大日本帝国憲法下の日本において、天皇を補佐し、国家の重大事を決定した超法規的な最高顧問・政治指導者で明治天皇の信頼がある人)
伊藤博文:元老(前枢密院議長) 山縣有朋:元老(元内閣総理大臣・陸軍大将)
井上馨:元老 松方正義:元老
・閣僚(内閣)
桂太郎:内閣総理大臣 小村壽太郎:外務大臣 寺内正毅:陸軍大臣
山本権兵衛:海軍大臣 曾禰荒助:大蔵大臣
・軍最高幹部
大山巌:参謀総長(陸軍大将)伊東祐亨:海軍軍令部長(海軍大将)
◆1904年(明治37年)2月6日: 日本はロシアに対して国交断絶を宣告。
⇒東京
小村壽太郎外務大臣が、駐日ロシア公使ローゼン(ローゼン男爵)を外務省に召喚、小村外相は、これまでの日露交渉が不調に終わったことへの遺憾の意を示しつつ、「交渉の中断」および「外交関係の断絶」を告げる公文を手渡しました。
⇒サンクトペテルブルク
日本の栗野慎一郎駐露公使が、ロシアのラムスドルフ外務大臣を訪ね、前日(2月5日)に東京から送られていた打電に従い、「日本政府はロシアとの交渉を打ち切り、自国の権利と利益を守るために独自の軍事行動をとる」旨の国交断絶公文を伝達しました。
当時の国際法では「宣戦布告前の開戦」は禁じられていなかったため、日本は制海権を迅速に確保すべく、宣戦布告に先立って陸海軍を動かしました。
◆1904年(明治37年)2月6日:作戦開始と東郷艦隊の出撃
佐世保に待機していた連合艦隊(司令長官:東郷平八郎)に「ロシア艦隊撃滅」の出撃命令が下り、黄海・朝鮮半島沖へ向けて一斉に出港しました。
◆1904年(明治37年)2月8日夜
・旅順口夜襲:同日夜、東郷平八郎率いる連合艦隊の駆逐隊が、ロシア太平洋艦隊の拠点で拠る旅順港(中国東北部)の沖合に接近。夜間奇襲攻撃(水雷攻撃)を仕掛け、ロシアの主力戦艦「ツェサレーヴィチ」「レトヴィザン」および防護巡洋艦「パラダ」の3隻に魚雷が命中し、損傷を与えました。
・仁川沖海戦:瓜生外吉少将率いる陸兵輸送隊と護衛艦隊が、朝鮮半島の仁川(インチョン)港に入港。港内にいたロシア艦2隻(ワリヤーグ、コレーエツ)と交戦し、撃沈・自沈に追い込みました。また、陸軍先遣隊が仁川へ上陸を開始しました。
◆1904年(明治37年)昼間砲撃戦(2月9日)
翌日、東郷率いる連合艦隊本隊が旅順港接近を試み、海岸砲台およびロシア艦隊と遠距離での砲撃戦を行いましたが、ロシア側の海岸砲台による防御が強固であったため、大きな壊滅的打撃を与えるまでには至りませんでした。
◆ 1904年(明治37年)2月10日:正式な宣戦布告
日本・ロシアの双方が、相手国に対して正式に「宣戦の詔勅(宣戦布告)」を発布・布告。
事実上の戦闘は2月8日に始まっていましたが、国際社会に向けて法律上の「戦争状態」に入ったことを内外に宣言した形となります。この「通告→即座に奇襲→後から宣戦布告」というスピード決着により、日本は開戦初頭における海の主導権を握り、その後の陸軍の朝鮮半島・満州へのスムーズな輸送を可能にしました。
◆旅順港閉塞作戦(2月24日、3月27日、5月3日)
商船(古い船)を旅順港の狭い出入口に沈めてロシア艦隊を港内に閉じ込める命がけの作戦が3回にわたり実施(広瀬武夫少佐の戦死)。
※坂の上の雲で伏線となっていましたが、この作戦は1898年の米西戦争(アメリカとスペインの戦争)の「サンティアゴ・デ・クーバ港閉塞作戦」をモデルとして計画・実施。日本海軍は3回にわたって旅順港閉塞作戦を実行しましたが、閉塞作戦は失敗に終わりました(この2回目の作戦で広瀬武夫少佐が戦死しています)。しかし、作戦や機雷敷設によってロシア艦隊に強い心理的圧迫を与え、自由な出撃を阻止し続けたという点では、一定の戦略的効果を果たしました。
機雷~日本海軍は機雷により、ロシア海軍第1太平洋艦隊の旗艦「ペトロパヴロフスク」を撃沈。日本もロシア側の敷設した機雷で戦艦「八島」と「初瀬」を一度に失いました。この戦争では、日本海軍は機雷で艦艇を計6隻、ロシア海軍は係維機雷(水面下の任意の深度で機雷缶を係留)6,000発で計10隻を沈めました。また旅順攻囲戦の際にロシア陸軍は機雷を旅順要塞から敵に向かって投げ落として爆発させ、日本軍兵士に甚大な損害を与えました。
1904年2月24日~5隻/探照灯と砲撃に阻まれ、手前で沈没。失敗
・第2次閉塞作戦
1904年3月27日~4隻/広瀬武夫中佐らが参加。港口近くまで迫るも完全閉塞には至らず失敗。(広瀬中佐戦死)
・第3次閉塞作戦
1904年5月3日~12隻/悪天候と激しい砲撃で船隊が乱れ、完全封鎖ならず。失敗
七生報国
【 広瀬中佐 文部省唱歌 】
第2次閉塞作戦で戦死した広瀬中佐は坂の上の雲でも丁寧に描かれており、その部下思いの人柄だけでなくロシア兵との友好的な交流やロシア貴族のアリアズナ・コヴァレフスカヤ(貴族の娘)と相思相愛の関係だったそうです。戦死後、旅順のロシア軍側は海中に流された広瀬の遺体の一部を収容し、敵将でありながら「勇敢な将校」として礼を尽くした海軍葬を執り行いました。ドラマ 坂の上の雲では広瀬中佐役は藤本隆宏氏が演じました。ドラマの中での「杉野ー!杉野はどこだー!」と燃え盛る鑑底をはじめ様々な場所を探しまわるシーンは感動的でした。その後、カッターで離脱、そこに銃撃が・・・。
真田丸では堀田作兵衛役でおなじみです!




