明治5年 奴隷船を裁いた英断「マリア・ルーズ号事件」

2026/08/14

コラム 明治 歴史

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明治5年(1872年)6月1日、横浜港にボロボロの外国船、南米ペルーの商船「マリア・ルーズ号:Maria Luz 」が現れました。

嵐でマストが折れ、見るからに怪しげなこの船には、実は200人以上の中国人労働者(苦力=クーリー)が乗せられていました。これが、日本近代外交の歴史において大きな転換点となる「マリア・ルーズ号事件」の幕開けでした。
今回は、この事件の背景と、当時の日本政府が下した驚きの決断をご紹介します。




横浜市立図書館デジタルアーカイブ異国船之図

◎露見した非人道的な「奴隷貿易」の惨状

ペルー船長ヘレラは「暴風雨の修理のために入港した。積荷はなく、病人もいない」と主張し、当初は神奈川県も入港と修理を許可しました。しかし事態は急変します。
横浜港に停泊していたイギリス軍艦から「マリア・ルーズ号から脱走してきた中国人が、凄まじい虐待を受けていると助けを求めてきた」とイギリス領事館を通じて通報があったのです。
過酷な実態:アメリカでの労力不足に便乗した悪質な商人が、契約内容も理解していない中国人たちをだまし、南米へ奴隷として売り飛ばそうとしていました。

船長の居直り:追及を受けた船長ヘレラは、逆に「脱走した苦力を処罰する」「苦力たちが暴動を起こす気だ」と居直り、さらなる暴行を加えるなど暴挙に出ました。

 副島種臣の外相による「断固たる決断」

この人道に反する事件に対し、当時の日本政府内でも意見が割れました。
「条約もないペルーと事を構えるべきではない」と及び腰になる声がある中、外務卿の副島種臣(そえじま たねおみ)は、「この非人道的な事件は断乎として糾弾すべきであり、日本には裁判権がある」と主張し、閣議を突破しました。

当時の日本にはペルーとの条約はありませんでしたが、「日本国内にいる以上、外国人も日本の国権(裁判)に従う義務がある」という法理的立場を貫いたのです。

裁判の行方と、日本の「勝訴」

神奈川県参事であった大江卓(おおえ たく)が裁判を担当し、船長や関係者を召喚して厳しく追及しました。裁判の中で、船長は「苦力たちは乗客であり、乱暴だから手錠をかけた」などと主張しましたが、実際に法廷に呼ばれた中国人たちは、次のように悲惨な実態を証言しました。
・ 何が書いてあるかも分からない契約書に、甘言や脅迫でサインさせられたこと
・ 遠くペルーへ奴隷として売られることなど知らなかったこと

イギリスなどの後ろ盾や法律顧問の協力もあり、同年7月27日、ついに判決が下されます。

痛快な判決

大江卓が下した判決は、日本外務当局の強い意志を示す画期的なものでした。

「何人といえども、この自由の通義(公法)あり。ゆえに彼ら(清国船客)は悉く(ことごとく)解放されるべし」

日本政府は「人身の自由」という国際公法(ハーベーオス・コーパスの原理)に基づき、船中に幽閉されていた苦力230名を全員解放し、無事に救出したのです。

その後の展開:清国からの深い感謝と日清の絆

解放された苦力230名は日本政府の手で手厚く保護され、同年9月13日、清国特使の陳福勲(ちんふくん)らに連れられて横浜を出港し、無事に上海へと帰国しました。
清国からの感謝:清国政府は日本の温かい措置と努力に対し、副島外務卿や大江卓へ深く感謝の意を表しました。
副島種臣の名言:感謝を述べられた際、副島は一切の功を誇ることなく、「いや、清国はわが善隣国、同文同種の国ではござらぬか」応えたと伝えられています。
助け出された苦力たち自身は、難しい裁判の仕組みこそ分からなかったものの、「日本政府の対応によって命が救われた」ことを深く感じ取り、心から感謝したといいます。

当時、ハバナ(キューバ)へ送られた苦力の死亡率は14%に達し、同じくマカオからペルーへ送られた別船では740名中240名が途中で死亡するという凄惨な苦難が日常茶飯事でした。マリア・ルーズ号の苦力たちが日本に漂着したのは、まさに「不幸中の幸い」だったと言えます。この事件で日本が見せた態度は、欧米列強の治外法権の不当性を突き崩し、「日本が自国の主権と人道主義に基づいて外交的勝利を収めた最初の事件(自主外交の勝利)」として歴史に深く刻まれています。




清国政府は、わが日本の温かい思いやりに深く感謝し、副島外務卿と大江権令に対して、感謝のしるしとして功績をたたえる大きな旗(頌徳の大旆)を贈ったということです。
 また、このマリア・ルーズ号事件は、あの判決だけですべてが解決したわけではありませんでした。後にペルー国は我が国に対して損害賠償を請求し、日本側もこれに反論を重ねたため、最終的にはロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁に入ることになりました。その結果、明治8年(1875年)5月、ロシア皇帝は「日本政府には一切の責任がない」との判決を下し、この国際仲裁裁判においてもわが国は完全な勝利を収めたのです。
 国際法の知識が乏しかった当時のわが国外務当局が、毅然と立ち上がって自主的にこの事件へ介入し、このような素晴らしい結果を得られたのは、副島の英断や大江の奮闘によるものであることはもちろんですが、わが国の当局が「人道上の正義に基づく行動は、最終的に世界からの共感を得られる」という強い確信を持って臨んだからでもあります。
外務省が公刊した『秘魯(ペルー)国マリヤルズ船一件』という文書の末尾には、「この件に関する日本の対応が正しかったかどうかは、世界の公正な判断に固く委ねるものである」と誇らしげに書かれていますが、これこそがまさに当時の日本政府の強い自信を表したものにほかなりません。


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