明治5年(1872年)6月1日、横浜港にボロボロの外国船、南米ペルーの商船「マリア・ルーズ号:Maria Luz 」が現れました。
嵐でマストが折れ、見るからに怪しげなこの船には、実は200人以上の中国人労働者(苦力=クーリー)が乗せられていました。これが、日本近代外交の歴史において大きな転換点となる「マリア・ルーズ号事件」の幕開けでした。
今回は、この事件の背景と、当時の日本政府が下した驚きの決断をご紹介します。

横浜市立図書館デジタルアーカイブ異国船之図
◎露見した非人道的な「奴隷貿易」の惨状
ペルー船長ヘレラは「暴風雨の修理のために入港した。積荷はなく、病人もいない」と主張し、当初は神奈川県も入港と修理を許可しました。しかし事態は急変します。
横浜港に停泊していたイギリス軍艦から「マリア・ルーズ号から脱走してきた中国人が、凄まじい虐待を受けていると助けを求めてきた」とイギリス領事館を通じて通報があったのです。
過酷な実態:アメリカでの労力不足に便乗した悪質な商人が、契約内容も理解していない中国人たちをだまし、南米へ奴隷として売り飛ばそうとしていました。
船長の居直り:追及を受けた船長ヘレラは、逆に「脱走した苦力を処罰する」「苦力たちが暴動を起こす気だ」と居直り、さらなる暴行を加えるなど暴挙に出ました。
◎副島種臣の外相による「断固たる決断」
この人道に反する事件に対し、当時の日本政府内でも意見が割れました。
「条約もないペルーと事を構えるべきではない」と及び腰になる声がある中、外務卿の副島種臣(そえじま たねおみ)は、「この非人道的な事件は断乎として糾弾すべきであり、日本には裁判権がある」と主張し、閣議を突破しました。
当時の日本にはペルーとの条約はありませんでしたが、「日本国内にいる以上、外国人も日本の国権(裁判)に従う義務がある」という法理的立場を貫いたのです。
◎裁判の行方と、日本の「勝訴」
神奈川県参事であった大江卓(おおえ たく)が裁判を担当し、船長や関係者を召喚して厳しく追及しました。裁判の中で、船長は「苦力たちは乗客であり、乱暴だから手錠をかけた」などと主張しましたが、実際に法廷に呼ばれた中国人たちは、次のように悲惨な実態を証言しました。
・ 何が書いてあるかも分からない契約書に、甘言や脅迫でサインさせられたこと
・ 遠くペルーへ奴隷として売られることなど知らなかったこと
イギリスなどの後ろ盾や法律顧問の協力もあり、同年7月27日、ついに判決が下されます。
◎痛快な判決
大江卓が下した判決は、日本外務当局の強い意志を示す画期的なものでした。
「何人といえども、この自由の通義(公法)あり。ゆえに彼ら(清国船客)は悉く(ことごとく)解放されるべし」
日本政府は「人身の自由」という国際公法(ハーベーオス・コーパスの原理)に基づき、船中に幽閉されていた苦力230名を全員解放し、無事に救出したのです。
◎その後の展開:清国からの深い感謝と日清の絆
解放された苦力230名は日本政府の手で手厚く保護され、同年9月13日、清国特使の陳福勲(ちんふくん)らに連れられて横浜を出港し、無事に上海へと帰国しました。
清国からの感謝:清国政府は日本の温かい措置と努力に対し、副島外務卿や大江卓へ深く感謝の意を表しました。
副島種臣の名言:感謝を述べられた際、副島は一切の功を誇ることなく、「いや、清国はわが善隣国、同文同種の国ではござらぬか」と応えたと伝えられています。
助け出された苦力たち自身は、難しい裁判の仕組みこそ分からなかったものの、「日本政府の対応によって命が救われた」ことを深く感じ取り、心から感謝したといいます。