大給恒(おぎゅう ゆずる)という名前を私は知りませんでした。
このお名前は維新後であり、幕末は松平乗謨(まつだいら のりかた)という名前。
幕末史は薩長を中心とした勝者の歴史であり、幕臣についてはメジャー何処以外には
スポットが当たることはありません。
それだけに魅力のある人物が沢山。この大給恒さんもそんな中のお一人です。
長野県佐久市臼田町には五稜郭があります。というかありました。。
五稜郭と言えば函館が有名ですが長野県にも存在していました。
星形陵堡式の城郭でJR小海線臼田駅下車徒歩15分くらいの場所にあります。
【佐久市ホームページ】
http://www.city.saku.nagano.jp/cms/html/entry/783/262.html
三河奥殿藩はわずか1万6千石の小大名。
大名の格式は【国主-準国主-城主-城主格-無城】で、大給松平家は無城格の大名。
領地は飛び地となっていて岡崎市の奥殿に4千石、そして信州に1万2千石。
ここでいう領地とは土地を所有しているわけではなく、年貢を徴収する権利を有しているという意味で、奥殿藩は代々平和な藩。江戸時代を通じて処刑は2回のみ。
天保10年(1839)11月13日に江戸麻布にある藩邸で生まれる。(高杉晋作さんと同い年)
幼少の頃からとても利発で秀才。
フランス語を学び、特にフランス兵学に興味を示す。
13歳で家督を継ぐ。/20歳で婚姻(下館藩主の姉)
文久3年(1863年)~1月には大番頭(おおばんがしら)⇒若年寄。そして8月には縫殿頭と出世。
幕府には番方組織があり、大番は12組で構成。主戦力を担い老中に属する。平常時はお城の番人。書院番と小姓組番は10組で構成し、馬廻り役等、殿様のボディーガード的役割で若年寄に属する。ちなみに老中は今で言う大臣クラスで奉行らを配下とし、若年寄は副大臣クラスで目付や書院、小姓組を配下としていた。
当時の若年寄の中に積極的な開国は4人。そのため元治元年1月には罷免されたものの、6月には再任されている。しかし乗謨は9月には自らが辞職をしておりそこに時代に逆らう信念を感じる。
文久2年には大名への統制が緩くなり参勤交代も各年ではなくそれよりも国防が優先となることから乗謨は信州に陣屋を移すことを考えた。これは奥殿は東海道に面しており当時の情勢から非常に争いに巻き込まれる可能性があったことやどこかに西洋式の城郭を作ってみたいという乗謨の欲求が強かったのでしょう。
そして文久3年11月には信州佐久の田野口に建設をすることとなった。これは田野口側は城郭ができることを喜んで土地を献上した。しかし藩主が不在となる奥殿藩は激怒、一時的な暴動が起こるがなんとか乗り越えて龍岡城が出来上がった。
67000平方メートル。周囲は700m程度。堀の幅は7m。この城は戦闘用ではなくやはり乗謨の趣味の延長であったのか、裏山に上ると城内は丸見えで、通常星形の鋭角部分に砲台を設置するはずが龍岡城はわずか1機のみ。
1865年 陸軍奉行に任命(5月)当時の幕府はフランスより士官を招いていたことで乗謨は直接フランス語で会話ができた。士官の胸にある勲章に非常に興味を示しこれが将来の伏線となる。
乗謨はちょんまげ嫌いだし、刀の2本差しも気に入らない。サーベル風の刀を帯刀していたらしい。
1866年(慶応2年)6月には老中に大出世。12月には陸軍総裁となる。
老中は15万石~3万石しかなれなかったので乗謨は弱小藩なので、特別的な存在。これは、長州や薩摩にあるような有能なものを積極的に人材登用するという流れがあった。
当時老中は毎日出仕していたわけではなく月番制であったために職務の質に偏りがあった。
また小藩で老中になったのは乗謨だけではなく、もう1名いた。
稲葉正巳(安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。)は1万石。
二人で幕府改革を着手!まずは月番制を廃止し五総裁制を導入する。
これは専門分野別に分け今の内閣組織の原型ともいえる。
国内事務総裁は今の総理大臣。会計総裁、外国総裁、陸軍総裁、そして海軍総裁となる。
また大名行列も廃止となった。
慶応2年に4月には若年寄が6人が選ばれたがなんと全員が旗本であり今までではありえない人材の登用。いわば身分の乱発ともいえる。
慶応3年4月には念願の龍岡城が完成!地域住民へらへの見学会等を実施。
そして10月に大政奉還が行われた。
そこで稲葉正巳と松平乗謨の二人は慶喜さんへ面談、有力大名らでの中央集権を提案するもNG。大政奉還では全員が王臣となるが、多くの藩主は【忘恩の王臣よりも、全義の陪臣になる】と反対の声が上がったために、慶喜さんより格大名を説得する役を与えられた。
12月9日には王政復古、そして鳥羽伏見の戦いへと進んで行く。
そして松平乗謨は老中を退役し名前を大給と改める。(2月)
新政府より当然狙われるが、「勤王のほかにニ心無し」と誓詞を提出するも謹慎。
予てから目をつけていた大久保利通は大給恒を参内させ謹慎をとかせた。
そして龍岡城は1871年に解体。その後競売にかけられ、現在は小学校となっている。
大給は明治政府へ出仕。賞勲事務局に勤務。(勲章制作に携わる)
そして明治10年には博愛社の創生に尽力。
尼崎藩主の松平忠興とともに参加しこれがのちの日本赤十字社へとなってゆく。