江戸時代、朝鮮貿易が盛んだったころ必ずその使者が泊まった地であり、幕末は吉田松陰先生をはじめ尊王志士らが訪れた風光明媚な地。そんな場所に数十年前に中国電力が原発建設をおこなうための候補地として目をつけ、町が賛成派、反対派で二分された土地。
多くの原発マネーが動き風景が変わり大きな体育館や施設、道の駅、そしてこの温泉施設の「鳩子の湯」も中国電力上関原発建設計画に伴う国の原発関連交付金を活用して整備されました。
ほんのりと塩辛く茶色に濁った温泉は、体が心から温まる素敵な温泉施設です。
この場所には「室津小学校」があり、その卒業生から様々な話を聞く機会を得ました。
この「鳩子の湯」の駐車場の奥の一角に碑があります。

朝鮮館碑銘(ちょうせんかんひめい)
争って海外に航し、経営生業して功を成す子、朝鮮に在る者最も多し。響(むか)し我が室津に饗講堂(きょうこうどう)建築の議あり。
傳(つた)えて彼の地に及ぶや、相(あい)謂(い)いて曰く、
「吾(われ)儕(ら)の郷国を報ずるは、まさに今に在るべし」と。
義金を募り、その費を弁ず。応ずる者九十余名、その額実に三千三百有余圓の多きに達す。
衆(しゅう)、村會に納る。
以て明治四十四年十一月を以て起工し、翌年九月に竣工す。堂成る。
名づけて「朝鮮館」と曰う。乃ち石を立て、その由を書いて以て銘に銘ず。
銘に曰く、
噫(ああ)我が室津 秀霊(しゅうれい)の鐘(あつ)まる所
柳浦(りゅうほ)は維(これ)碧(みどり)に 皇嶽(こうがく)は維(これ)崇(たか)し
講堂の成るは 以て啓蒙を足し
公會の開くるは 以て移民を足す
美なるかな挙や 誰か功を仰がざらん
貞珉に愛勒し 以て無窮に伝えん
大正三年七月 周防國熊毛郡室津村
※口語訳明治維新の後、私たちの故郷(室津)には志を持った若者たちがいました。彼らはこぞって海外へ渡り、ビジネスや新しい生業を営んで成功を収めましたが、なかでも朝鮮(朝鮮半島)に渡った者が最も多い状態でした。
かつて、ここ我が室津の地で「饗講堂(集会や学びのための講堂)」を建築しようという計画が立ち上がりました。その話が遠く離れた朝鮮の地にいる同郷の者たちに伝わると、彼らは互いにこう呼びかけ合いました。
「私たちが故郷に恩返しをするなら、まさに今こそがその時だ!」と。
そこで寄付金を募り、建築費用をまかなうことにしました。この呼びかけに応じた者は90名を超え、その金額は実に3,300余円という大金に達しました。集まったお金は村会(村の役場・議会)に寄付されました。
こうして明治44年(1911年)11月に工事が始まり、翌年(明治45年/大正元年)9月に無事完成しました。お堂が立派に出来上がったのです。
この建物を「朝鮮館」と名付けました。そこで、ここに石碑を建て、事の経緯を書き記して記念の銘文を刻むことにします。
【銘文:称える詩】
ああ、私たちの室津よ。優れた気が集まる素晴らしい土地よ。
柳浦(室津の海・海岸)はどこまでも青緑に美しく、皇嶽(皇座山)は高くそびえ立っている。
この講堂ができたことで、人々の学び(啓蒙)を助けることができる。
この公の集会所が開かれたことで、(海外へ渡った)移民たちの志を支え、讃えることができる。
なんと素晴らしい壮挙(立派な行動)だろうか。この功績を敬い、仰ぎ見ない人などいるだろうか(いや、誰もが尊敬するだろう)。
この美しい石に彼らの功績を大切に刻み込み、これから先も永遠に伝えていこう。
大正3年(1914年)7月 周防国熊毛郡室津村(現・山口県上関町室津)
明治になると瀬戸内の漁村での漁獲量が減ったことや、様々な日本企業が朝鮮に支店を設立、下関から朝鮮への定期航路があったことが起因して室津から相当数移住されたようです。また隣の大島からはハワイやブラジル等への移住もあったようです。多くの志のある日本人が今の日本の礎を築いてくださったことを本当にありがたく思っています。

