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2013/09/21

2013 9/21 歴史と人間 勝海舟

今日の歴史と人間講座は勝海舟さんに関する考察。

いろんな書籍やドラマにも登場しているメジャーな方な印象だけどまだまだ知らなかったことがいっぱい。

勝海舟さんのいろんなお話は「氷川清話」を手掛かりに知ることができるけれど、勘違いや思い違い、また誇張があるのでそのまま信じるのは危険です。
晩年、東京の氷川には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きし「氷川清話」としたそう。その内容を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名。

本名は義邦、通称は鱗太郎。文政6年1月30日生まれ。
海舟という号は、佐久間象山の書『海舟書屋』からいただいたものだそう。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082&sr=%8A%43%8F%4D

海舟のさまざまな資料を収集していた方のおかげで現在も見ることができる。両国にある江戸東京博物館へ行ってみたいものです。

さて、海舟さんはご存知下級旗本の家に生まれます。もともと彼の祖父は越後国刈羽郡長島村字平沢出身で現在の新潟県おじや市。米山平蔵(よねやまへいぞうは盲目)であったが17歳で江戸へ出てくるが幕臣の家の前で行き倒れとなる。その幕臣の家を賭場として貸していたことが縁で商売の才覚を得て財産を築き9人の男の子を設ける。この3男が海舟の父の小吉。また末子の平蔵に3万両で男谷家の株を買い継がせたことで士族となる。
小吉は7歳の時に勝家(41石)の養子となりその後婚姻。海舟が誕生している。
(勝家の祖先は物部氏に通じているとのこと)
さて父は小普請組。ほぼ無職!そのためか道場破りや道具屋や刀の目利きをしていたそう。ここでいう目利きとは小塚原の罪人の死体で試し切りをすることだそう。
22歳の時に麟太郎誕生。大奥につながりがあったらしく7歳の時に江戸城見物に行くときに人生の転機がやってきた。
なんと11代将軍家斉に眼を付けられ、孫の遊び相手として初之丞(發之丞、後の一橋慶昌)の遊び相手として西丸御殿へ出仕することになる。
9歳の時に犬に睾丸を噛まれ70日もの間に生死の境をさまよう。父は水垢離をして回復を祈った。(妙見堂=現存)
天保9年16歳の時に小吉(37歳)は隠居!家督を継ぐこととなる。

最近になってようやく海舟の胸像ができたらしい。
H15に墨田区区役所内。そしてもう一か所、これは能勢妙見堂東京別院(安永3年=1774年に創建された、大阪能勢妙見山の唯一の別院)の境内にある勝海舟翁之像。
意外と少なくて人気が無いのでしょうか。

さて、剣術は従兄弟の男谷精一郎の道場と島田虎之助の道場で修行。直心影流の免許皆伝。また弘福寺で4年間の間に禅の修行をおこなっている。また永井青崖に蘭学を習ったがこの洋学はすなわち西洋兵学を指している。
適塾でも有名なズーフハルマ(当時60両)を1年10両で借受て、2年かけて写し取っており1部は売却している。

28歳で父の小吉が亡くなる(脚気49才)。2年後、海舟の妹が佐久間象山と結婚。そして31歳の時にペリーの来航となる。

この時に求められた意見書がきっかけで幕府へ入ってゆく。
この意見書は5条からなり、鎖国か開国かを説く内容ではないことから注目された!

後に洋学所の準備室長となり大阪湾(摂海)防備の視察に来ている。その後長崎海軍伝習所へ行く命を受ける。
ペリーが来てすぐに幕府はオランダに軍艦を1隻発注している。その折にオランダからはもう1隻と教習官付でプレゼントされることとなりその場所を長崎としたため。
この伝習所には薩摩藩、長州藩や佐賀藩等総勢174人もいた。勝は4年を過ごしている。

安政4年春。
江戸にも伝習所を作る話が持ち上がり移動することになりそうだったがオランダの教官も帰国し入れ替わることから勝は長崎にさらに2年残った。
この時に咸臨丸で航海練習。島津斉彬との会談を行っている。

ようやく江戸に帰り海軍の教授となっている。その時、江戸は安政の大獄の風が吹き荒れている。

勝はとても運が強い。
井伊直助の性格からして藩の重役であったならば、安政の大獄の餌食となっていただろうが、勝が長崎へ行くときは小十人組(年100俵)。長崎に2年残ったことがラッキーだった。

その後咸臨丸にて47日かけて品川からサンフランシスコへ行く。
乗員は100名程度。
アメリカの技術には驚かなかったが身分制度の無いことに非常に驚いたらしい。

氷川清話引用

 「ここにおかしな話がある。何も時事を諷するわけではないが、俺が初めてアメリカへ行って帰朝したときに、御老中から『その方は一種の眼光を具えた人物であるから定めて異国へ渡りてから何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ』、とのことであった」 「そこで俺は『人間のすることは古今東西同じものでアメリカとて別に変わったことはありません』と返答した。
 ところが『左様であるまい、何か、変わったことがあるだろう』と言って再三再四問われるから、俺も『左様、少し眼に付きましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我国と反対のように思いまする』と言ったら御老中が目を丸くして『この無礼者、控え居ろう』と叱ったっけ」

文久2年 軍艦奉行並 1000石

勝の対外政策はおもしろい!
兵庫、対馬、朝鮮、支那の三国連合を作り欧米に対抗するというもの。

文久3年 家茂と摂海の視察
その後に大阪西本願寺で過激攘夷の姉小路公知と会談を行っている。