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2010/01/10

◇2010/1/10 放送大学大阪学習センター「大阪なにわ学」連続講演会 

放送大学大阪学習センター「大阪なにわ学」連続講演会 


●第4回 懐徳堂の「知」の交流  池田光子 先生 大阪大学文学研究助教



江戸半ばになり商業が盛んになると「知」に対する要求も盛んになる。昌平坂学問所(林羅山)のような官許学問所を大阪にもつくることに対し、大阪では町人が中心となり学問所ができました。

含翠堂(平野)・環山楼(八尾)・多松堂(尼崎、高麗橋)などがあったそう。この中の多松堂が妙知焼(大火事)で焼失したところから懐徳堂の歴史が始まりました。初代学主の三宅石庵と五同士により創設、現在の今橋4丁目に道明寺屋吉左右衛門(富永芳春)が土地を供出。その講堂の大きさはおよそ100人が充分参加できた大きさであったそう。

中国哲学である儒教から朱子学を教えていたが、さすが商人の町、本来は利は義に反するはずが、利は商売の結果についてまわるものでありやむ終えないものであるが利の追求のみは悪利となり悪いものであるという教えが根本にある。

また仕事があっての学問であり、商売の用事があれば講義の途中に退席してもかまわないとされている。さらに貴賎貧富を論ぜず、同業と為すべきこと。を理念とされていた。

江戸中期の華々しい文化や安穏とした生活に支えられてか、意外と政治の基盤を支えた身分制度には捉われていないということで驚きでした。
1724年に開かれた懐徳堂も1869年に閉校。時代は明治となり教育形態の基本が儒教を必要としなかったからとのこと。
このまま歴史にうずもれる懐徳堂ではなく、1910年(明治43年)に、西村天囚の手により重建懐徳堂として復活しましたがS20の大阪大空襲により焼失、現代に至っています。

●第5回 明治・大正のなにわ学  肥田 皓三 先生 元関西大学教授

なにわ学を考える上で重要な3つの頂点は、<大阪市史(明治33年~大正4年)><なにわ草書(大正15年~昭和5年)><郷土研究 上方(昭和6年~昭和19年)>であると考える。
もちろん一番初めの郷土史は<摂津名所図会(1800年)>といえる。
時代ごとにキーワードとなる書籍とそれぞれのエピソードをご紹介いただきました。その中でも印象的であったのが下記の話です。
木崎 好尚が井原西鶴の墓に詣でたところ新しい塔婆が2本たっていた。
これは幸田露伴と尾崎紅葉が別々に立てたもので、実は滝沢馬琴の書いた書物に書かれていたのを見たからとのこと。
個人的にぜひ見たい書物は、<浪華名家墓所記(宮竹骸骨)><葦の若葉(大田南畝)>かな。
近日中にでも古書店をまわってみようとおもいます。もちろん、井原西鶴さんが眠る誓願寺もいってみたいです。


元禄の奇才子を弔いて 九天の霞を洩れてつるの声  露伴

ででむしの石に縋りて涙かな  紅葉