フランス風懐石料理中華風: 2010 11/20 教科書に書かれない幕末史 ~堺事件

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2010 11/20 教科書に書かれない幕末史 ~堺事件

明治政府がようやく生まれ、さてこれからというときに起った【神戸事件】でいきなりダメージを食らったおかげで、各国に明治政府が貿易の貿易の窓口であることを専制して伊藤博文さんがようやく表舞台に立ってゆく。岡山藩からこの始末をつけるために悲劇の主人公となった滝善三郎さんが慶応4年2月9日(1868年3月2日)に切腹をし事態は収拾した。ところがまた悪夢が新政府を襲うことになる。
もちろん、この時の世相は攘夷熱が残っているために、以降様々な噂が流れたそう。神戸でフランス兵が錦の御旗を奪って逃げた?やら天保山にフランス海軍がやってきただの・・今回の中止のとなる土佐藩も現在の西区にある土佐藩邸で苦々しく聞いていたに違いない。そんな6日後の2月15日の出来事。

大阪から陸路で堺の町に入ろうとしていたフランス領事一行。ちょうど堺の警備を担当していたのが土佐藩。通行の事前の連絡が無かった為に堺へ入るののを不許可とし追い返した出来事があった。
実は前年12月には開町を行っているので外国人は堺町に入ることは問題ないのだが相次ぐ噂で憤懣していたのか・それとも本当に知らなかったのかは定かではない。さてその夕方、堺湾の測量を行う為に入港したデュプレックス号(フランス軍艦)。2艘の小船で数十人が分乗しそのうちの1艘が上陸をした。
あわてて通報を受けた土佐藩士らは箕浦猪之吉(25歳)を筆頭にした6番隊と西村左平次(24歳)を筆頭にした8番隊が急行した。その16時頃・・通訳もいないフランス兵らと口論になって半ば喧嘩状態に。フランス兵が土佐藩旗を手に取り走り去ろうとしたために、ついに発砲命令が下り4人が死亡、7人が海に落ちて行方不明となりました。

この事件を知った外国事務局の東久世通禮、五代友厚らはきっと「えぇぇ??まぢで?」って言ったのかもしれない。なにせやっと神戸事件のほとぼりが冷めかけた頃にまた、フランスと揉めてしまったのだから。
すぐさま、土佐藩の任務を解き、人足を集めて海中に落ちてしまった兵隊の遺体に30両の懸賞をかけて探させたおかげですぐさま見つかった。きれいな服を着せて大坂に運びロッシェの元に報告に行く。

翌日2/16には土佐藩から届出がされ事後始末に走ることになる。
さてフランスからの要望は以下の通り。

・発砲した20人を日本の責任者の前で打ち首にせよ。
・15万ドルラルの賠償金を払え。
・皇族の中からウエヌス船まで侘びにこい。
・土佐藩主はフランス船に侘びにこい。
・土佐人は外人の為に開いた港や居留地には入るなとのこと。


2/22には沙汰書を発行。
2/23にはロッシェに対し土佐を処分することを報告。

その内容は切腹命令だがその理由は「皇国の為に腹をきることを外人に見せ付けてやれ!」とのこと。まさにヾ(・・;)ォィォィな内容。

さてこの知らせをきいた西区の藩邸にいた土佐藩では、それぞれの隊長、副隊長は責任を取ることとなったが残り16人をどうするか・・で揉めた。「私が責任を取る!」という発言が絶えずついに、くじ引きが行われた。外れた者は残念ながら腹を切らなくても良いというまさに逆なくじびき。なんという忠誠心。恐るべし。
3/23には各藩400人に護衛され、土佐藩邸から、切腹の会場となった堺の妙国寺へ向かうことに。

さて、時はすでに夕方。一番初めに箕浦猪之吉さんが切腹をしたがその様が凄まじかったそう。この辺りは森鴎外の小説の描写を引用する。

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呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮った。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。

「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。

 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。

 馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。

「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。

 馬場の二の太刀は頸椎を断って、かっと音がした。

 箕浦は又大声を放って、

「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。

 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所に迷った。

 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜した。

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二人目・・三人目・・・そのたびに毛氈が引き直されるが血を吸った土に染み込んだ血はすぐに染み出してくる。ついに12人目の「橋詰愛平」が、今まさに切腹をはじめるときにフランス側から中心の申し入れがあった。この辺りの描写も森鴎外さんの小説を引用する。

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次は十二人目の橋詰である。橋詰が出て座に着く頃は、もう四辺が昏くなって、本堂には燈明が附いた。
 フランス公使はこれまで不安に堪えぬ様子で、起ったり居たりしていた。この不安は次第に銃を執って立っている兵卒に波及した。姿勢は悉く崩れ、手を振り動かして何事かささやき合うようになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公使が何か一言云うと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包擁した兵卒は駆歩に移って港口へ走った。

 切腹の座では橋詰が衣服をくつろげて、短刀を腹に立てようとした。そこへ役人が駆け付けて、「暫く」と叫んだ。驚いて手を停めた橋詰に、役人はフランス公使退席の事を話して、ともかくも一時切腹を差し控えられたいと云った。橋詰は跡に残った八人の所に帰って、仔細を話した。

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ちなみに、血を吸った服のままで控え室に戻った橋詰を見た8人は切腹をしくじったと罵倒したそうだがすぐに真実は明らかになった。

2/24には外国事務方が天保山沖に停泊中の船にロッシェを訪ねて侘びに行き正式に9人は切腹を免れることとなった。ちなみに賠償金15万ドルラルは3回の分割という約束になったがその後、藩は無くなったので完済したかどうかは不明。

さて11人の死体はカメに入れられて妙国寺の向かいにある宝珠院に埋葬されるが、なぜ妙国寺でなかったのかという理由は色々と考えられる。

やはり世相はまだまだ攘夷。皇国の為に切腹した11人はいわば英雄。無くなった11人のカメは「残念様」と呼ばれ、また使われなかった9個のカメは「生き運様」とよばれたらしい。当時は宝珠院の前には屋台が出て、関連グッズの簪が発売されるくらいの人気スポットとなる。この辺りは日本人のエゴイズムが出ちゃってます。
そこで妙国寺では、7月3日~の三日間に大供養が営まれ9月9日には「英氏割腹跡」の碑が建立されている。
さて、この様子を知った井上さんはその怒りを伊藤と木戸さんに書簡で述べています。
「西洋の言いなりになっている!外国の脅しに乗ってはダメだ。そんなことをすると国家を滅ぼすことになる」というまさに現代にも通じる内容でした。

※この内容は一坂先生の講演を元に私が脚色していますのでご注意ください。
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