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2011/10/09

2011 10/1  四天王寺秋季大学 1日目


今年も四天王寺秋季大学に参加する事ができました。
体調は思わしく有りませんが、ほんとうにありがたいことです。
全員で般若心経を唱和して開講となりました。






10月1日 第一講目
13:00~14:20総本山四天王寺 管長
奥田 聖應(おくだ しょうおう)猊下
平和と仏教

・釈尊と太子に対し他から仕掛けられた戦いの例
釈迦族は戦争においても不殺生の掟を守り自ら滅亡の道を選択。
我身の為に万民を煩わせない事。
戦いに勝てば勇者ではなく、身を捨てて国に安定を斎する事が本当の勇者。
勝鬘経では、正しい教えを身につけるには、身と命と財を捨てよ。
・院生、南北朝時代の僧の生活
延暦寺、興福寺の強要的な手法は大衆(だいしゅう:仏教を学ぶ僧侶)がおこなった。
仏教の隆盛とともに質が低下、貴族への大圧力となってしまった。
比叡山 円恵の例~山の衰退を嘆き訴訟を起こすが1298年 座主(尊教)との対立が激化する。
高野山合戦の例~紀ノ川流域の荘園が戦場となり1294年に幕府が介入。所領が没収となる。

・太平洋戦争時
1937-国民教化運動
1939-宗教団体法~主務大臣の認可が必要
キリスト経一派、灯台社130人の検挙※明石順三氏等
1940-大政翼賛会
救世軍のスパイ容疑⇒救世団と改称
1941-教徒2000人の投獄、200余りの教会を閉鎖

・現在
偶像破壊を行ったイスラム教、植民地拡大のキリスト教、パレスティナ扮装、カシミール・・・・等など宗教は戦争とかかわってる現実が多い。
その反面、様々な平和への取り組みも盛ん。
世界宗教者平和会議、宗教サミット、非戦平野、出版
日蓮宗 一殺多生⇒とんでもない思想
ファシズム社会下ではじっと耐えるしかない。


10月1日 第ニ講目
14:40~16:00奈良大学教授・日本学士院会員
東野 治之(とうの はるゆき)先生
上宮聖徳法王帝説と木簡研究

太子の研究のよりどころである上宮聖徳法王~唯一の伝記。
法王帝説は信頼性が高い内容であるがすべて写本であるが故に内容の増減のあるばあいがある。
また、筆での写しのために本の形態をとっていない。
その歴史は法隆寺より流出した後、知恩院にある。
研究の最高峰は家永三郎【上宮聖徳法王帝説の研究】(1953 角川)であるが近年の木簡の研究により見直すべき点が出てきた。
◇木簡研究
S36(1961)平城京跡 40点
平成元年(1989)長屋王邸 35,000点
現在は36万点余り~いちやく古代史研究の主役となる。
木簡研究の効果は他の分野への波及、文字使いや用語にとらわれてしまうと意味が異なってしまう。
一つの文字が色々な読み方をされ、初期は人名や地名の文字はむちゃくちゃ。
平安前期までは発音が主体(文字は何でもかまわなかった)
◇構成
A 系譜、親族
B 人となり 実績
C 古史料の引証
D 事跡
E 略歴
F 裏書
実はD/EはA/Bへの裏書が写しなおされて本文化したのではないかと考えられる。
◇長屋王家木簡の表記、律令用語の関連
「王」「女王」を区別しない
地名 川内⇒河内となる。
大刀自(おおとじ)⇒婦人の意味 
◇裏書に対し裏書されている
8世紀⇒平安後期
太子~摂政をしていない。皇太子 王命 ミコトノミコ 天皇代行、補佐役でこれは朝廷での立場を
表している。

2011/10/07

2011 10/7 Lifetouch Note

今回の突然の入院はほんとに大変でした。
取引先さんにもちゃんと話していなかったことがあってお仕事は待ってくれません。
なにせ、手術の翌日にまだ色んな所からびよーんっとチューブが伸びている常態で、
お仕事の電話がかかってくるし、お仕事用のメールはすべて携帯へ転送していたのでもうなり続け。
…もぅひっちゃかめっちゃかでした(笑)
全身麻酔で気道確保のためにチューブを通していたようですがどうも
声がガラガラ声で電話に出て先方さんは、どうも私が風邪を引いているとおもわれたようで。。。
いやいや・・それどころちゃうねん。
 
下半身から3本、背中や手首や・・いそんなところからチューブが出てる状態やねんってww
で、いったん帰宅したものの、自宅ではカテーテルを通したまま、中腰でメールをチェックしたり…これが良くなかった。
やっぱ人間は腰がいのちですねぇ。。
 
ってことでちょっとした新兵器の導入です。
これがあればお布団の中ででもお仕事ができる(爆)
 
今回、はじめてのアンドロイドOSを購入!NECのLifeTouch Noteの登場です。
イメージとしてはおっきなスマホにフルキーボードが付いている感じかなぁ。

それでもノートパソコンよりずいぶん小さくて閉じた状態だと23.5cm×14cm程度で厚みは2.5cm。


7型ワイドなちっちゃいくせにKeyboardがついていて文書入力はバッチリ。
wifiでネットもつながり、なによりありがたいのがバッテリーは9時間近くもつらしい。
本体700グラムなので、非力な私でもかばんに入れて持ち運べます。
 
 
さっそく自宅、職場とそれからよく行くマクドでwifiを設定しました。
 
なかなか快適ですが、キーボードの配列に癖があるのとWINDOWSに慣れ親しんでいたからか
戸惑うこともしょっちゅう。慣れたら愛用のノートPCがいらなくなるかも。

2011/10/05

2011 10/5 近況

なかなか体調が戻らずに文章が書けずにいます。

ホントにごめんなさい。

この3連休には記事を掲載するつもりです。

あとすこしだけ・・おまちください。orz

2011/09/30

2011 10/3 染模様恩愛御書 細川の血達磨

2011 10/3  「染模様恩愛御書」

にっぽんの芸能 芸能百花繚乱「染五郎 気迫のスタジオ歌舞伎」
放送日: 2011年9月30日(金) 22:00-22:45

旭堂南左衛門さんより放送があることを教えていただいてましたのでバッチリ録画!もちろん
ナマでも鑑賞いたしました^^

市川染五郎さんの二役で、もう胸ガキュンキュン!
市川猿弥威圧感のあるお姿と大立ち回り!
もちろん、旭堂南左衛門さんの、細川越中守役はかっこよかったー!

簡単なあらすじ♪
 
ある日、大川友右衛門(染五郎さん)が美形の若衆の印南数馬(染五郎さん)に惚れてしまいます。
で、友右衛門は武士の位を捨て、細川邸に中間として奉公し、数馬に心を打ち明け友右衛門が数馬の寝室に忍びこんじゃいます。
で色々とお話をするうちに数馬から横山図書(猿弥さん)が父を殺した敵であることを聞かされ敵討ちのお手伝いをして無事にとげることになりました。
そんなある日、細川邸に火事が発生!宝蔵には家宝の家康公から賜ったご朱印が!
燃え盛る蔵へ飛び込んだ友右衛門はご朱印を見つけたが、もう回りは火の海。
ご朱印を守る為に彼が取った驚くべき行動は・・・・。
自らの命と引き換えに家宝を守った友右衛門さん。血潮のご朱印を抱き泣き咽ぶ数馬さんでした。
 

2011 9/30 ただいまー!

無事、帰ってきました^^

まだまだ本調子ではありませんが徐々に元のペースに戻したいと思います。

応援いただきました皆様!本当にありがとうございました!

2011/09/19

2011 9/19 行ってきます!

急に降って湧いた様に今日の日が決まりました。
ちょっちだけBLOG更新が出来なくなりました。

申し訳ないのですが、 九度山講談会レポートと教科書に書かれなかった幕末史の
2項目の掲載は今週末の予定で掲載しますのでしばしおまちくださいませ。

お急ぎの方は下記へメールを戴きましたら当方携帯で拝見できます。
もうしわけありません。

  sweet-mikan☆mail.goo.ne.jp    ←☆マークを@マーク(半角)に変更して送信くださいませ。

2011/09/17

2011 9/17 教科書に書かれなかった幕末史 鉄道を造る

眠りについたのは明け方頃となり、ついに昨夜の九度山講談会の余波を引きずったままの朝日カルチャー「教科書に書かれない幕末史」となりました。
●鉄道を造る
鉄道は近代化の象徴~鉄道(イギリス)~原料や製品の輸送目的
1825(文政8 9/28)ストックトン-ダーリントン-ウィットパークの3つの炭鉱を結ぶ40Km
1830 マンチェスター-リバプールを開業~人間を運ぶ鉄道
1836 イギリスでの鉄道大成功 各国に続々と鉄道が引かれ始める。
日本では・・
長崎、プチャーチンが機関車の模型を持参してきた。
1854年 2回目のペリーも持参。このときにすでに鉄道の事に詳しい日本人がいたらしく所謂「鉄ちゃん第一号」である。
日本に鉄道を引く事にたいし反対意見も多くみられ、特に西郷さんは大反対。鉄道よりも軍隊を強化すべきとの意見。黒田清隆も事業中止を建白、大隈重信と険悪に。しかし洋行すると賛成派になった。
秘密留学生 (長州ふぁいぶ)の中の伊藤・井上勝が中心、中でも伊藤は明治2年2月に、大阪~神戸に鉄道をひくと早々に宣言。同12/5に三条実美、パークス、岩倉らが敷設を決定した。
大隈、伊藤が考えていたプランでは300万ポンドの大金が必要のためにホレシオ ネルソーレイと資金借用の契約を結んだが年12%と9%の差額を流用する事実が判明した為に首となった。
鉄道事業は工部省の担当(M10_10誕生)で、この省は近代工業推進の担当で鉱山、灯台、造船、土木等をおこなって民間に払い下げる方針。
慶応3年12月~小笠原長行(ながみち:幕府)、ポルトメン(米書記官:ペリーのオランダ語通訳官)の両名が担当となり、江戸~横浜間の敷設を許可していた。この契約内容は<5年以内に着手すること><3年以内に完成すること><機械類の輸入は無税>であるというもの。しかもこの鉄道を日本が買い取る場合は原価+50%を上乗せするという内容。
すなわち、幕府が考えた鉄道敷設は、アメリカまかせの契約であり、明治政府が考えた鉄道事業は外国人を雇い入れ敷設するという方針で双方の考え方に開きがあった。
明治2年1/11 横浜 東久世 通禧(みちとみ)が新政府に対し談判
明治2年2/10 旧幕府時代の話は無効であると通達する。
前島密(越後豪農の息子;郵政の父)
明治2年12月に民部省入り、鉄道事業に必要なお金を試算、鉄道憶測論により2,000万円と試算。
明治3年3月 新橋~横浜間 9/12に正式営業。 明治天皇参礼され開業式をおこなった。
明治5年5/7 品川~横浜間 外国技師により仮営業 1日2往復(50銭~1円50銭)
井上勝と外国技師とはたびたびに衝突。
がんこおやじ的な井上はナショナリズム的発送が強く、日本人だけの手で鉄道を造りたかった。
西日本では明治3年10/24に石屋川トンネルに着手する。石屋川は天井川のために川の下にトンネルを作ることにした。そして明治4年7月にトンネルが完成。このトンネルは昭和51年まで残っていた。
明治4年3月5日 イギリスより蒸気汽車が到着も、西日本の工事は非常に遅れており、これは強力な指導者がおらず東京からの連絡が早く回ってこないことに由来。それなら・・ということで鉄道寮を大阪に移転させる案がでたが山尾(長州ふぁいぶ)は中央集権が崩れるということで大反対。結果、上司の井上勝が辞職することとなる。
この事態に歯止めをかけることができる人物である伊藤博文は現在、岩倉使節団で不在。2ヵ月後に帰国、説得し鉄道守に据え一段落。
明治7年1月10日 鉄道寮は大阪に移る。
明治7年2月 井上が大阪に乗り込む。
明治7年5月11日 大阪-神戸間が竣工する。
AM6:55 神戸発梅田行きが一番列車。神戸の駅長は間島氏、梅田ステーション側の駅長はムトウマサアキ。高杉晋作の妹の夫で明治12年6月まで担当していた。
イギリスの鉄道は物資輸送で、民間主導で発達。日本は人を運ぶことを目的として国の
事業として発達。
日本の鉄道に寄与した井上勝は明治43年8月 ロンドンでたおれ享年68歳。鉄道事業に一生を尽くした。
東京駅丸の内には像が作られている。

さて、講座がおわり普段見ることができない映画の時間。
申し訳なかったのですが後ろの方に移動し2時間近く爆睡!
さすがに寝不足だったので、邪魔にならないよーにしてました。

その後、恒例の一坂先生を囲んでの飲み会は総勢10人。
幕末史ファンがこれだけ集まると話しが途切れることはありません。
なんとしゃべり続けて飲み続けて20時に散会となりました。

明日一日は、翌日からの入院生活の為に食事制限が始まります。
なので今夜のお料理はホントにおいしかったです。

2011 9/16 九度山講談会 裏話

午後14時、南左衛門さんの自宅前でご一門の方々と集合し九度山に向かって出発。
前回、九度山へ行った際には戦国鍋TVの録画で盛り上がりましたので、今回は、懐かしいDVD『真田太平記』の26話あたりからを再生。
ちょうど関ヶ原の戦いに破れ、九度山蟄居が始まるあたりになります。

大阪をひた走り2時間10分で九度山到着。
駐車場で、住民クラブ代表の阪井様がお出迎え下さっており一同感激!



あいにくの雨模様のなか真田いこい茶屋へ向かい、ご用意いただきました美味しいお蕎麦を頂戴して会場にむかいます。






開演2時間前
慌ただしく準備がおこなわれる様々な中で、このイベントにかける情熱を垣間見る事ができました。




会館入口に貼られている案内書きを初め、ステージの設営や名びら立て、音響にチラシ、受付の方々に到るまで一丸となってそのチームワークは素晴らしいものです。
沢山の九度山の皆様が、講談会の成功を祈って精一杯お世話をいただいています。


感謝の気持ちでいっぱいです!






開演1時間前
エレベーターが到着する度に沢山の方々が降りてこられます。
その顔は今日の講談への期待にあふれ、誰もが素朴で素敵な笑顔をされていました。
岸和田祭用に作成された鳥居商店様より提供いただいた団扇200本が早々に無くなり、会場がどんどん埋まって行きます。

開演10分前
司会の方の前説が開始。
講談を生で聴かれたことがある方はほんのわずかだとのこと。やはりこの真田幸村公の聖地の九度山で『難波戦記』を企画いただいてホントによかった。

終わったのは21時20分。大熱演のために大幅に時間を超過!

後片付けをしで22時過ぎに九度山を後にしました。
天候は小雨。

予定では和歌山IC経由の大回りを予定していましたが風吹き峠をぬけ、泉南に抜けるルートで帰阪。
南左衛門さん宅へは12時過ぎ。南斗さん宅へは12時30分過ぎ。
無事にお送りできて一安心で帰宅しました。

思えば半年以上前から色々とお声を掛けていただきようやく一つの事がおわりました。
きっとこれは終わりではなく、始りなのでしょうね♪

本当に皆様、ありがとうございました。