同僚さんから頂戴いたしました♪
さっそくお抹茶を立てていただきました。
しっとりとした皮はほんのりとしたミルク風味で、口の中でとろけそうなくらいのやさしい白餡です。
さすが国際品質コンテスト:モンドセレクションで12年連続金賞!
6年連続特別金賞受賞しているだけのことはあります。
この美味しさはほかに類をみないとおもいます!
まぢオススメの西洋和菓子です。
株式会社明月堂 http://www.meigetsudo.co.jp/index.html
フランス風懐石料理中華風・・・寺社仏閣が大好きです。 大阪市内に居ますが九度山と信州上田が心の故郷です♪尊敬する人は真田昌幸さんと幸村さん親子・吉田松陰先生、金子みすゞさん、大石順教尼さん。日本美術なら富岡鉄斎さんに横山大観さんに村上松園さん。そして大好物は甘々なみ・か・ん♪ ・・ようは何でもアリなのです
2012/09/15
2012 9/15 歴史と人間 幕末維新編
今日の朝日カルチャーは「孝明天皇」について。
まさに幕末のキーマンであり、ひたすら開国に反対した方でどんどんややこしくなってゆく。
教科書では「長州は幕府と戦った!」という記述があるがこれは間違い!実際は天皇VS毛利が正しい。
幕府は天皇に命じられただけに過ぎない。
最近、【維新】というフレーズを多く耳にする。じっさい一坂先生のところにMBSの記者から取材があったそうだがなんとも維新とはなんなのかややこしい。。
◆江戸時代の天皇
1615年(慶長20年)に禁中並公家諸法度が定められた。これで天皇と公家の仕事は【天子御芸能 第一御学問】と定められた。これにより祈祷と学問と武士に官位を授けるのが仕事となった。
ちなみに征夷大将軍という最高の官位は世襲ではなく、個々に与えるもの、誰にどの官位を与えるのかは幕府が決定し、その内容に従って天皇が任命する流れで、幕府は天皇の権威を利用しているだけというものだった。
その情報の流れは<将軍→老中→京都所司代(幕府の京都出張所)→禁裏付(幕府側の窓口)→武家伝奏(朝廷側の窓口で人選は幕府が定める)→関白→天皇>これに1665年に<義定>(関白の補佐役)が加わる。
この関白は五摂家からしか選ばれず、近衛・一条・鷹司・九条・二条。この五摂家の下にその他の公家が属しておりいわゆる主従関係となっている。
幕府は後醍醐天皇VS鎌倉幕府の結果、建武の新政となったように天皇に権力が集まるのを恐れて1742年にはさらに天皇の権力を制限。
天皇の行うことが誤りであれば関白は天皇を押さえ込みなさいという令を出す。これで関白の権限は大きくなってゆく。
結果的には天皇の地位は形骸化し、たとえば将軍の宣下の場合は江戸にいる将軍が京都へ行くのではなく
勅使が江戸城へゆき、上座に座った将軍に下座に座った勅使が任命する形式だったらしい。
天皇の領地は江戸初期は1万石、幕末は3万石。公家全体では10万石。
決して貧しいとは言えない。
戦国時代の天皇、公家生活は大変だったようだが徳川が今の石高を保証、整備してくれたという恩があるためか文句が言えない状況。
さて孝明というお名前は崩御されてからのおくり名で実際は統仁(おさひと)さま。
天保2年1831年生まれ。ちなみに松陰さんは天保元年生まれ。
14歳で元服され、お歯黒を入れられた。また数年後は眉払いの儀式により眉を剃られたのでだいぶイメージが違う。
鎖国攘夷思想で公武合体も反対。江戸時代の枠組みを変えたくなかったので王政復古の推進も違うようで
政治は幕府が行うことを良しとしていた。
この背景で即位の1年前から色々と情勢が変わってゆく。
天保15年のオランダ国王よりアヘン戦争による清のようにならないためにも開国を勧める国書が届く。これは幕府が握りつぶしたが実際は公家より天皇の耳に入る。
そして翌年以降各国が続々とやってくるタイミングで即位される。
弘化3年に突然幕府に勅がでる。これは江戸時代始まって以来の出来事。
【異国船渡来の状京師に聞ゆ因て海防の勅を幕府に降す】いわゆる海防勅書。これは徳川斉昭の仕業!
斉昭のお姉さんは鷹司政通(まさみち)の嫁。
これに対し幕府は【今後外国船の問題は文化4年におこったロシアとの紛争の例に従って報告する】こととなった。
これにより幕府は、天皇に対し外国船が来たら祈祷を行っていただくということを決定。
この対象は七社七寺で伊勢神宮・石清水八幡・賀茂神社・松尾社・平野神社・稲荷神社・春日大社と仁和寺、東大寺、興福寺、三井寺、東寺、広隆寺。これは後にどんどんと増えてゆく。
そしてペリーの来航の際には幕府より祈祷の指示がでている。幕府はこの来航により各大名に案をださせたり
台場を建造しているが天皇には報告していない。このタイミングで家定が将軍になることに。
武家伝奏の三条実万(実美の父:さねむつ)に『人心を動揺させないように』という伝言を持たせて江戸城へ向かわせる。老中の安倍正弘に伝えたところ「国書は穏便に扱うので天皇の案があったら言ってください」またアメリカへの返事は「のらりくらりとはぐらかして乗り切りたい」との意思を出す。
公家の実力者である鷹司は開国論者。貿易もOK。そこで朝廷側を1本化するために武家伝奏、関白、議定で
打ち合わせをしたが天皇には話していない。
ついに幕府は条約を締結・・・この時も孝明天皇は祈祷されている。
もし京都に異人が攻めて来たら・・・・幕府に対し「幕府関連の彦根藩や尾張藩に京都を警備してもらいたい」との願いを出す・・そしてこの後不幸にも御所が全焼するという事件が起こる。そして穏やかだった時代の平安時代風に建て直した。
そして安政元年にロシアのプチャーチンが大阪湾天保山に出現!孝明天皇はおびえながらも祈祷に励む。
安政3年ハリスが江戸に乗り込み、通称条約が締結。
このタイミングで関白は鷹司から九条尚忠へ。開国派鷹司は70歳!九条尚忠は天皇のよきパートナー。
世界では第二次アヘン戦争が起こり天津条約が締結。フランス、イギリスがアジアを押さえ込む。
この状況の中で安政4年年末には大名を大集合!状況の説明会を開催!結果なんとなくぎくしゃくした空気だけが残ってしまった。この裏では武家伝奏に自称説明はしていたらしい。
このぎくしゃく感をなんとかするためのアイデアとして天皇の権威を利用することをおもいついた幕府は天皇に
勅許をもらうことにし、その役目は堀田 正睦(まさよし)が行い、すぐさま京都へ向かう。
家臣の心をまとめるために天皇の心を聞きたいとの口実で、幕府と天皇の関係であればこの役目は楽勝!とおもっていたが大間違い!
翌年1/17には御宸翰で「みんなで話し合いなさい、開国&貿易はだめ!先祖に申し訳ない」の意のお返事が返ってくる。
楽勝のはずが・・・堀田は伝奏、議定を宿とした本能寺に呼びつけ説得しついに説き伏せた。
しかし天皇からの勅はでずに「みんなで話し合いなさい」とのこと。
そこで堀田は作戦を変更し、天皇のお仲良しの九条尚忠を抱き込むことに。あっさりと寝返り、天皇の意思ではない勅答案が練られてゆく。そして3/14に堀田に開国の勅答案を提出することに決まったが・・・なんとこの二日前の3/12に88人の公家が九条の家に押しかけ罵声を浴びせ大反対のデモンストレーションを行う!
九条はびびってしまい案はつぶれてしまった。
これは実は孝明天皇が下級公家の岩倉具視に指示をしていたらしい。
大きな流れの開国へ向かう流れを孤立してしまった孝明天皇は下級公家をまとめあげてひっくり返した。
残念堀田は九条へ手紙を送った・・世間では戯れ歌が流行ったそう。※聞き漏らしました・・・・。
このタイミングで将軍の継承問題がおこり安政の大獄へとながれてゆく。。。
この幕末の流れは色んな流れが複雑に絡み合っているが意外と朝廷内の流れは知られていなくでびっくりでした。
一坂太郎先生!今日もありがとうございました。
まさに幕末のキーマンであり、ひたすら開国に反対した方でどんどんややこしくなってゆく。
教科書では「長州は幕府と戦った!」という記述があるがこれは間違い!実際は天皇VS毛利が正しい。
幕府は天皇に命じられただけに過ぎない。
最近、【維新】というフレーズを多く耳にする。じっさい一坂先生のところにMBSの記者から取材があったそうだがなんとも維新とはなんなのかややこしい。。
◆江戸時代の天皇
1615年(慶長20年)に禁中並公家諸法度が定められた。これで天皇と公家の仕事は【天子御芸能 第一御学問】と定められた。これにより祈祷と学問と武士に官位を授けるのが仕事となった。
ちなみに征夷大将軍という最高の官位は世襲ではなく、個々に与えるもの、誰にどの官位を与えるのかは幕府が決定し、その内容に従って天皇が任命する流れで、幕府は天皇の権威を利用しているだけというものだった。
その情報の流れは<将軍→老中→京都所司代(幕府の京都出張所)→禁裏付(幕府側の窓口)→武家伝奏(朝廷側の窓口で人選は幕府が定める)→関白→天皇>これに1665年に<義定>(関白の補佐役)が加わる。
この関白は五摂家からしか選ばれず、近衛・一条・鷹司・九条・二条。この五摂家の下にその他の公家が属しておりいわゆる主従関係となっている。
幕府は後醍醐天皇VS鎌倉幕府の結果、建武の新政となったように天皇に権力が集まるのを恐れて1742年にはさらに天皇の権力を制限。
天皇の行うことが誤りであれば関白は天皇を押さえ込みなさいという令を出す。これで関白の権限は大きくなってゆく。
結果的には天皇の地位は形骸化し、たとえば将軍の宣下の場合は江戸にいる将軍が京都へ行くのではなく
勅使が江戸城へゆき、上座に座った将軍に下座に座った勅使が任命する形式だったらしい。
天皇の領地は江戸初期は1万石、幕末は3万石。公家全体では10万石。
決して貧しいとは言えない。
戦国時代の天皇、公家生活は大変だったようだが徳川が今の石高を保証、整備してくれたという恩があるためか文句が言えない状況。
さて孝明というお名前は崩御されてからのおくり名で実際は統仁(おさひと)さま。
天保2年1831年生まれ。ちなみに松陰さんは天保元年生まれ。
14歳で元服され、お歯黒を入れられた。また数年後は眉払いの儀式により眉を剃られたのでだいぶイメージが違う。
鎖国攘夷思想で公武合体も反対。江戸時代の枠組みを変えたくなかったので王政復古の推進も違うようで
政治は幕府が行うことを良しとしていた。
この背景で即位の1年前から色々と情勢が変わってゆく。
天保15年のオランダ国王よりアヘン戦争による清のようにならないためにも開国を勧める国書が届く。これは幕府が握りつぶしたが実際は公家より天皇の耳に入る。
そして翌年以降各国が続々とやってくるタイミングで即位される。
弘化3年に突然幕府に勅がでる。これは江戸時代始まって以来の出来事。
【異国船渡来の状京師に聞ゆ因て海防の勅を幕府に降す】いわゆる海防勅書。これは徳川斉昭の仕業!
斉昭のお姉さんは鷹司政通(まさみち)の嫁。
これに対し幕府は【今後外国船の問題は文化4年におこったロシアとの紛争の例に従って報告する】こととなった。
これにより幕府は、天皇に対し外国船が来たら祈祷を行っていただくということを決定。
この対象は七社七寺で伊勢神宮・石清水八幡・賀茂神社・松尾社・平野神社・稲荷神社・春日大社と仁和寺、東大寺、興福寺、三井寺、東寺、広隆寺。これは後にどんどんと増えてゆく。
そしてペリーの来航の際には幕府より祈祷の指示がでている。幕府はこの来航により各大名に案をださせたり
台場を建造しているが天皇には報告していない。このタイミングで家定が将軍になることに。
武家伝奏の三条実万(実美の父:さねむつ)に『人心を動揺させないように』という伝言を持たせて江戸城へ向かわせる。老中の安倍正弘に伝えたところ「国書は穏便に扱うので天皇の案があったら言ってください」またアメリカへの返事は「のらりくらりとはぐらかして乗り切りたい」との意思を出す。
公家の実力者である鷹司は開国論者。貿易もOK。そこで朝廷側を1本化するために武家伝奏、関白、議定で
打ち合わせをしたが天皇には話していない。
ついに幕府は条約を締結・・・この時も孝明天皇は祈祷されている。
もし京都に異人が攻めて来たら・・・・幕府に対し「幕府関連の彦根藩や尾張藩に京都を警備してもらいたい」との願いを出す・・そしてこの後不幸にも御所が全焼するという事件が起こる。そして穏やかだった時代の平安時代風に建て直した。
そして安政元年にロシアのプチャーチンが大阪湾天保山に出現!孝明天皇はおびえながらも祈祷に励む。
安政3年ハリスが江戸に乗り込み、通称条約が締結。
このタイミングで関白は鷹司から九条尚忠へ。開国派鷹司は70歳!九条尚忠は天皇のよきパートナー。
世界では第二次アヘン戦争が起こり天津条約が締結。フランス、イギリスがアジアを押さえ込む。
この状況の中で安政4年年末には大名を大集合!状況の説明会を開催!結果なんとなくぎくしゃくした空気だけが残ってしまった。この裏では武家伝奏に自称説明はしていたらしい。
このぎくしゃく感をなんとかするためのアイデアとして天皇の権威を利用することをおもいついた幕府は天皇に
勅許をもらうことにし、その役目は堀田 正睦(まさよし)が行い、すぐさま京都へ向かう。
家臣の心をまとめるために天皇の心を聞きたいとの口実で、幕府と天皇の関係であればこの役目は楽勝!とおもっていたが大間違い!
翌年1/17には御宸翰で「みんなで話し合いなさい、開国&貿易はだめ!先祖に申し訳ない」の意のお返事が返ってくる。
楽勝のはずが・・・堀田は伝奏、議定を宿とした本能寺に呼びつけ説得しついに説き伏せた。
しかし天皇からの勅はでずに「みんなで話し合いなさい」とのこと。
そこで堀田は作戦を変更し、天皇のお仲良しの九条尚忠を抱き込むことに。あっさりと寝返り、天皇の意思ではない勅答案が練られてゆく。そして3/14に堀田に開国の勅答案を提出することに決まったが・・・なんとこの二日前の3/12に88人の公家が九条の家に押しかけ罵声を浴びせ大反対のデモンストレーションを行う!
九条はびびってしまい案はつぶれてしまった。
これは実は孝明天皇が下級公家の岩倉具視に指示をしていたらしい。
大きな流れの開国へ向かう流れを孤立してしまった孝明天皇は下級公家をまとめあげてひっくり返した。
残念堀田は九条へ手紙を送った・・世間では戯れ歌が流行ったそう。※聞き漏らしました・・・・。
このタイミングで将軍の継承問題がおこり安政の大獄へとながれてゆく。。。
この幕末の流れは色んな流れが複雑に絡み合っているが意外と朝廷内の流れは知られていなくでびっくりでした。
一坂太郎先生!今日もありがとうございました。
2012/09/09
2012 9/9 第26回 あみだ池寄席
ひさしぶりのあみだ池寄席です。
実は前回に行ってから露の一門の寄席ということで興味があったのですが
開催情報がまったくわかんなくて・・・。ということで今年の彦八祭で露の吉次さんよりチラシをいただけたので今日久しぶりに行かせていただけた訳です。
露の吉次 禁酒関所
桂 文昇 天王寺詣り
露の吉次 君よモーツァルトを聴け
露の慎悟 三丁目のおもちゃ屋
はじめて桂文昇さん、露の慎悟さんの落語を楽しませていただきました、しかも初めてのネタなので
防忘のために簡単にお話を記述。
君よモーツァルトを聴け
三枝さんの創作。流れは古典の青菜とおなじ。途中でアイネクライネナハトムジークが流れてびっくり!
三丁目のおもちゃ屋
昭和の高度成長期を背景に寂れた商店街のおもちゃ屋さんが舞台。
日曜日のたびに店の前に現れた少年の身の上とお彼の将来の夢は。。。
次回、第27回あみだ池寄席は11月25日。桂阿か枝さん、橘花家千橘さん。
まぢ・・いきたいけど・・・・すでに予定がぁぁ。。
実は前回に行ってから露の一門の寄席ということで興味があったのですが
開催情報がまったくわかんなくて・・・。ということで今年の彦八祭で露の吉次さんよりチラシをいただけたので今日久しぶりに行かせていただけた訳です。
露の吉次 禁酒関所
桂 文昇 天王寺詣り
露の吉次 君よモーツァルトを聴け
露の慎悟 三丁目のおもちゃ屋
はじめて桂文昇さん、露の慎悟さんの落語を楽しませていただきました、しかも初めてのネタなので
防忘のために簡単にお話を記述。
君よモーツァルトを聴け
三枝さんの創作。流れは古典の青菜とおなじ。途中でアイネクライネナハトムジークが流れてびっくり!
三丁目のおもちゃ屋
昭和の高度成長期を背景に寂れた商店街のおもちゃ屋さんが舞台。
日曜日のたびに店の前に現れた少年の身の上とお彼の将来の夢は。。。
次回、第27回あみだ池寄席は11月25日。桂阿か枝さん、橘花家千橘さん。
まぢ・・いきたいけど・・・・すでに予定がぁぁ。。
2012/08/26
2012 8/26 第14回 アシスト寄席
このアシスト寄席は長い間演じておられないネタや初めてネタおろしをされる場所として開始された落語会。
年4回なので2年半・・・。終演後にはおいしいコーヒーやケーキがついてこのお値段はぜったいにお得!
笑福亭嬌太 子ほめ
3ヶ月ぶりに嬌太さんの落語を聞きました。
マクラなく直ネタへ。
数年前に同じような気持ちになったのを思い出しました。若手の噺家さんですがメキメキと上達されたと感じたあのときと同じ気持ちです。頑張ってくださいね。
旭堂南舟 秀吉の足軽時代
うんうん!声のハリや輝き!むっちゃいい感じ!正式な前座なんになられ今日はゲストという立場だそうです。
終演後にお話させていただきました!ご本人曰く『やりなれたネタだから。。。』とのことですが、確かに口調に勢いと輝きが増しているようにおもえました。
笑福亭仁嬌 こんにゃく問答
初回のネタ出しから変更されたそうですが、プログラムは変更されていなかったらしい(^_^)
手作りならではのご愛嬌ですww
後半の問答シーンでのスピード感がすごくよかったです。
桂枝女太 手水廻し
このお話は特に思い入れのあるネタです。
前半、大阪からの客が3日間逗留する予定だってことや、田舎の朝の風景の描写、頭を廻す男が廻すたびに笑顔をみせることやこんにゃく問答の法願寺さんを登場される等いろんなくすぐりや描写がされていてすごく楽しめました。
旭堂南左衛門 面の餅
はじめて聞かせていただきました講談。桂雀三郎さんが『鬼の面』という題でされているとのこと。
貧乏な子沢山な漁師夫婦とその長女の優しい気持ちがテーマのお話。ホロっと心温まるお話です。
さて、終演後の歓談の席では、いよいよ来週となった彦八祭のお話。
仁嬌さんのたこ焼きと枝女太さんの焼きうどんのお話!会場は大爆笑!!
そうそう・・・会場には桂文福さんの新しいお弟子さんの恩狸さん(おんり)さんがお手伝いにこられていました。
先月のご入門とのことでがんばってくださいね。
年4回なので2年半・・・。終演後にはおいしいコーヒーやケーキがついてこのお値段はぜったいにお得!
笑福亭嬌太 子ほめ
3ヶ月ぶりに嬌太さんの落語を聞きました。
マクラなく直ネタへ。
数年前に同じような気持ちになったのを思い出しました。若手の噺家さんですがメキメキと上達されたと感じたあのときと同じ気持ちです。頑張ってくださいね。
旭堂南舟 秀吉の足軽時代
うんうん!声のハリや輝き!むっちゃいい感じ!正式な前座なんになられ今日はゲストという立場だそうです。
終演後にお話させていただきました!ご本人曰く『やりなれたネタだから。。。』とのことですが、確かに口調に勢いと輝きが増しているようにおもえました。
笑福亭仁嬌 こんにゃく問答
初回のネタ出しから変更されたそうですが、プログラムは変更されていなかったらしい(^_^)
手作りならではのご愛嬌ですww
後半の問答シーンでのスピード感がすごくよかったです。
桂枝女太 手水廻し
このお話は特に思い入れのあるネタです。
前半、大阪からの客が3日間逗留する予定だってことや、田舎の朝の風景の描写、頭を廻す男が廻すたびに笑顔をみせることやこんにゃく問答の法願寺さんを登場される等いろんなくすぐりや描写がされていてすごく楽しめました。
旭堂南左衛門 面の餅
はじめて聞かせていただきました講談。桂雀三郎さんが『鬼の面』という題でされているとのこと。
貧乏な子沢山な漁師夫婦とその長女の優しい気持ちがテーマのお話。ホロっと心温まるお話です。
さて、終演後の歓談の席では、いよいよ来週となった彦八祭のお話。
仁嬌さんのたこ焼きと枝女太さんの焼きうどんのお話!会場は大爆笑!!
そうそう・・・会場には桂文福さんの新しいお弟子さんの恩狸さん(おんり)さんがお手伝いにこられていました。
先月のご入門とのことでがんばってくださいね。
2012/08/18
2012 8/19 歴史と人間 ~幕末維新編
今日の講座の人物は徳川斉昭さん。一言でいえば幕末の政界を引っ掻き回したとっても癖の強い方。
事なかれ主義では無い、はっきりした持論を持っておられることから、評価が両極端な人物です。
幕府の政治は普段大名が行うわけで、水戸、尾張、紀州のいわゆる御三家は親戚筋であるだけで政治には関与していない。
また、紀州と尾張は大納言に昇格できるが水戸は中納言止まり。そのかわり参勤交代をしなくても構わないという定府(じょうふ)という制度があった。そのため藩主でもずっと水戸に帰ることがない藩主もいた。
もともと水戸は今の茨城県。関ヶ原の戦いの際は佐竹義信だが、家康によって出羽(秋田県)へ国替えさせられてしまう。そして家康の11子の頼房(28万石)が継ぎ次が有名な光圀さん(35万石)となる。ちなみにテレビでは「こちらに居られるのは副将軍 水戸光圀であるぞ!」という副将軍という肩書は存在せず、ずっと江戸にいる藩主ということを世間が揶揄したフレーズ。
この水戸藩は寄せ集めの家臣団で構成されていたために次第に能力主義が発達。中でも光圀さんが編纂した「大日本史」(彰考館:水戸の下屋敷として江戸にあった駒込→小石川にある後楽園に移る)の継続して行うことで学者が政治を担当することとなってゆく。
この大日本史のTOPである総裁は選挙できっめられていたらしいからびっくり!
有名な総裁は藤田幽谷(藤田東湖の息子)は水戸の古着屋の倅なわけで能力主義な藩だった。
さて、斉昭さんは1800年(寛政12年)生まれ。7代目藩主の治紀(はるとし)の3子として生まれる
3歳上の兄の斉脩(なりのぶ)が8代目を継ぐが30歳になっても子供ができず、もともと病弱であったことから死去。そこで継嗣問題が勃発!彼の奥さんは第11代将軍・徳川家斉の七女・峰姫(第12代将軍・徳川家慶の異母妹で、14代将軍・徳川家茂の父徳川斉順の同母姉)。家斉の第22子である徳川恒之丞を養子にさせ水戸との関係を深めたいと願う保守派に対し、藤田幽谷らは血筋を重視した斉昭を押すことで革新派となって対立を府深めることになる。
ところが、なんと斉脩さんお遺書が出てきてそこにはなんと家斉さんを藩主にするように書かれていた!あまりに出来すぎなお話!!ついに斉昭が藩主となった。
天保元年正月、いきなり2条のお触がでる。そこには「文武は武士の大道」「下意上達」の趣旨が。下級武士でも遠慮なく伝えてきてもOK!という改革の意気込みが感じられる。
斉昭さんは嫉妬倹約を進め、自ら綿素材の衣服を着用。
御賄方(おんまかないがた)という役職の賄という字は賄賂の字だからということで御台所(おんだいどころ)に改名。正月には松飾や琴の演奏を禁止、お雛様飾りはお内裏様のみOKという徹底ぶり。
また質素倹約だけではなく武備の充実を推進。太平洋に面していることから外国船を目にする機会が多く、海防掛(かいぼうかかり)を設けた。大砲や火薬の製造をおこない、海岸への移住を推進。そのTOPには山野辺義観(やまのべぎかん)を登用。また農民を訓練し兵化をおこなっている。
さらに年1回、追鳥狩(おっとりがり)という大演習をおこない、これは2万人以上規模であった。
1842年に偕楽園をつくり梅の名所となる。また斉昭さんは毀鐘鋳砲の令を出して僧侶よりおもいっきり反発を受ける。これは仏像や鐘を大砲に作り替える!という令で、彼は実はインドよろ伝来した仏教は大嫌いであり神道を推進していた背景がある。
1842年には藩校である弘道館を建設。この趣旨書の中に『尊王攘夷』という言葉が初めてでてきている。気を付けなくてはならないのは意味が違い、あくまでも王であり皇ではないことに注意!
すなわち神を奉り中国の教え(儒教)を学ぶことを趣旨としていることから水戸学の基礎となっている。
財政改革では斉昭さんは幕府に対して天保5年あたりより「北海道開拓」を幕府へ願い出ている。
北海道はもともと松前藩の管理であったがロシアの脅威から松前藩は国替えをし本州へ戻ってきた経緯がある。そして北海道は幕府の直轄となっが松前藩の申し入れにより復帰したらしい。その事例を取り、痛烈な皮肉の手紙を幕府へ送っている。
「松前藩で北海道運営がdきるんだったら幕府は取り上げていない、松前藩はとんでもない藩で非力だからロシアがやってくたんだ!結局松前に反してしまったんだからとても残念だ」とのこと。
藩の財政がひっ迫すると定府を廃止し殖産興業を推進するが学者ばかりでノウハウが無く、うまくいかない。検地を行うとともに神社を優遇し社寺の多くを廃止させている。もちろん仏教徒が反発!ここに目を付けたのが前述の門閥保守派。幕府へ訴えかけ即座に幕府からの取り調べが始まり、改革が挫折することになる。
結果、斉昭さんは江戸の駒込下屋敷に幽閉させられ、慶篤(13歳)が11代藩主となる。
もちろん政治への関与はNGということだが、実はこの時に幕府の老中の安倍正弘と親密に手紙のやり取りをおこなってる。新伊勢物語という書籍になっているらしい。
政治への不満から自分の奥さん側のパイプをつかって孝明天皇へ海防や外国人に対するさまざまな意識を植え付けその結果幕府は例のドタバタ騒ぎへ発展。
安倍は斉昭へ「海防参与」という役職を与えたことからすぐさま斉昭は「海防寓存」を提出。結果品川に台場を建造することになる。
その趣旨は「戦は難しい、和はやさしい。戦の覚悟で和になること」を推進した。その方策は長崎での石炭供給はOK、また3年に限り外地で貿易のテストを行うという内容。ところが井伊直助さんにより条約が締結されたことをうけけ翌日には海防参与を辞退。いわゆる政局の野党となった。
その結果半年後には軍政参与になり現在の日の丸をシンボルにすることを提言、だんだんエスカレートして安政4年11/15には渡米の意見書を幕府へ提出。
う~ん・・・困った方で、幕府も相手をしなくなっていき悪循環へ。1860年61歳で水戸城にて心臓発作で亡くなるという生涯でした。
この時代は何が正しいのかなんてわからない時代。自分の意見をちゃんと持っていた斉昭さんってすごい人物だったことは間違いないでしょう^^
事なかれ主義では無い、はっきりした持論を持っておられることから、評価が両極端な人物です。
幕府の政治は普段大名が行うわけで、水戸、尾張、紀州のいわゆる御三家は親戚筋であるだけで政治には関与していない。
また、紀州と尾張は大納言に昇格できるが水戸は中納言止まり。そのかわり参勤交代をしなくても構わないという定府(じょうふ)という制度があった。そのため藩主でもずっと水戸に帰ることがない藩主もいた。
もともと水戸は今の茨城県。関ヶ原の戦いの際は佐竹義信だが、家康によって出羽(秋田県)へ国替えさせられてしまう。そして家康の11子の頼房(28万石)が継ぎ次が有名な光圀さん(35万石)となる。ちなみにテレビでは「こちらに居られるのは副将軍 水戸光圀であるぞ!」という副将軍という肩書は存在せず、ずっと江戸にいる藩主ということを世間が揶揄したフレーズ。
この水戸藩は寄せ集めの家臣団で構成されていたために次第に能力主義が発達。中でも光圀さんが編纂した「大日本史」(彰考館:水戸の下屋敷として江戸にあった駒込→小石川にある後楽園に移る)の継続して行うことで学者が政治を担当することとなってゆく。
この大日本史のTOPである総裁は選挙できっめられていたらしいからびっくり!
有名な総裁は藤田幽谷(藤田東湖の息子)は水戸の古着屋の倅なわけで能力主義な藩だった。
さて、斉昭さんは1800年(寛政12年)生まれ。7代目藩主の治紀(はるとし)の3子として生まれる
3歳上の兄の斉脩(なりのぶ)が8代目を継ぐが30歳になっても子供ができず、もともと病弱であったことから死去。そこで継嗣問題が勃発!彼の奥さんは第11代将軍・徳川家斉の七女・峰姫(第12代将軍・徳川家慶の異母妹で、14代将軍・徳川家茂の父徳川斉順の同母姉)。家斉の第22子である徳川恒之丞を養子にさせ水戸との関係を深めたいと願う保守派に対し、藤田幽谷らは血筋を重視した斉昭を押すことで革新派となって対立を府深めることになる。
ところが、なんと斉脩さんお遺書が出てきてそこにはなんと家斉さんを藩主にするように書かれていた!あまりに出来すぎなお話!!ついに斉昭が藩主となった。
天保元年正月、いきなり2条のお触がでる。そこには「文武は武士の大道」「下意上達」の趣旨が。下級武士でも遠慮なく伝えてきてもOK!という改革の意気込みが感じられる。
斉昭さんは嫉妬倹約を進め、自ら綿素材の衣服を着用。
御賄方(おんまかないがた)という役職の賄という字は賄賂の字だからということで御台所(おんだいどころ)に改名。正月には松飾や琴の演奏を禁止、お雛様飾りはお内裏様のみOKという徹底ぶり。
また質素倹約だけではなく武備の充実を推進。太平洋に面していることから外国船を目にする機会が多く、海防掛(かいぼうかかり)を設けた。大砲や火薬の製造をおこない、海岸への移住を推進。そのTOPには山野辺義観(やまのべぎかん)を登用。また農民を訓練し兵化をおこなっている。
さらに年1回、追鳥狩(おっとりがり)という大演習をおこない、これは2万人以上規模であった。
1842年に偕楽園をつくり梅の名所となる。また斉昭さんは毀鐘鋳砲の令を出して僧侶よりおもいっきり反発を受ける。これは仏像や鐘を大砲に作り替える!という令で、彼は実はインドよろ伝来した仏教は大嫌いであり神道を推進していた背景がある。
1842年には藩校である弘道館を建設。この趣旨書の中に『尊王攘夷』という言葉が初めてでてきている。気を付けなくてはならないのは意味が違い、あくまでも王であり皇ではないことに注意!
すなわち神を奉り中国の教え(儒教)を学ぶことを趣旨としていることから水戸学の基礎となっている。
財政改革では斉昭さんは幕府に対して天保5年あたりより「北海道開拓」を幕府へ願い出ている。
北海道はもともと松前藩の管理であったがロシアの脅威から松前藩は国替えをし本州へ戻ってきた経緯がある。そして北海道は幕府の直轄となっが松前藩の申し入れにより復帰したらしい。その事例を取り、痛烈な皮肉の手紙を幕府へ送っている。
「松前藩で北海道運営がdきるんだったら幕府は取り上げていない、松前藩はとんでもない藩で非力だからロシアがやってくたんだ!結局松前に反してしまったんだからとても残念だ」とのこと。
藩の財政がひっ迫すると定府を廃止し殖産興業を推進するが学者ばかりでノウハウが無く、うまくいかない。検地を行うとともに神社を優遇し社寺の多くを廃止させている。もちろん仏教徒が反発!ここに目を付けたのが前述の門閥保守派。幕府へ訴えかけ即座に幕府からの取り調べが始まり、改革が挫折することになる。
結果、斉昭さんは江戸の駒込下屋敷に幽閉させられ、慶篤(13歳)が11代藩主となる。
もちろん政治への関与はNGということだが、実はこの時に幕府の老中の安倍正弘と親密に手紙のやり取りをおこなってる。新伊勢物語という書籍になっているらしい。
政治への不満から自分の奥さん側のパイプをつかって孝明天皇へ海防や外国人に対するさまざまな意識を植え付けその結果幕府は例のドタバタ騒ぎへ発展。
安倍は斉昭へ「海防参与」という役職を与えたことからすぐさま斉昭は「海防寓存」を提出。結果品川に台場を建造することになる。
その趣旨は「戦は難しい、和はやさしい。戦の覚悟で和になること」を推進した。その方策は長崎での石炭供給はOK、また3年に限り外地で貿易のテストを行うという内容。ところが井伊直助さんにより条約が締結されたことをうけけ翌日には海防参与を辞退。いわゆる政局の野党となった。
その結果半年後には軍政参与になり現在の日の丸をシンボルにすることを提言、だんだんエスカレートして安政4年11/15には渡米の意見書を幕府へ提出。
う~ん・・・困った方で、幕府も相手をしなくなっていき悪循環へ。1860年61歳で水戸城にて心臓発作で亡くなるという生涯でした。
この時代は何が正しいのかなんてわからない時代。自分の意見をちゃんと持っていた斉昭さんってすごい人物だったことは間違いないでしょう^^
2012/08/10
2012/08/04
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