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2014/05/04

2014 5/4 真田祭と食彩館

毎年ゴールデンウイークは和歌山県九度山町で過ごしています。
真田三代が過ごされた九度山では真田祭が開催。同時に信州上田市や今年は大阪市の天王寺公園でも開催されていますが
やっぱり九度山町が大好きです。
 
この4月末には念願の道の駅がオープンしたこともあり大盛況の人出。
そう規模は大きくないのですが、この辺りにお住いの方々は日々のお買い物をするところがないことから
産地直結型のスーパー業態の[よってって]をメインに展開し利便性の向上に貢献しているようです。

 
定刻になり、いつもお元気な岡本町長さんとお写真を撮らせていただいたのちに
開会式を経て真田鉄砲隊の演舞が開始!その迫力は満点でした!










 
お昼ご飯はもちろんいつもの食彩館へ。
食べログに掲載されたようでさっそくカキコしました!
お近くにいかれた節はぜひお寄りくださいませ^^
 
 



2014/04/26

2014 4/26 滋賀県のお出かけ【ブルーメの丘・太郎坊宮】

今のお仕事に就いてからゴールデンウイークにはまったく縁がない私ですが
さすがの良いお天気に背中をおされてどこかへふらっと出かけたくなりました。
目指すは一面の菜の花畑!
ありました!滋賀県ブルーメの丘!大阪から名神で2時間もかからずに到着です。




ゴールデンウイークということで、家族連れで大賑わい!
今の時期は満開のチューリップ畑だけでなく目的の菜の花がわんさか!
おもいっきり癒されてきました。










で、次に向かったのは車で15分ほどの場所にある【太郎坊宮】さん。



写真の山の中腹あたりにあるお宮さんで正式には阿賀神社さん。
実は私がまだ小学生の頃、いろんなご縁でこのお宮さんには
何度か来たことがあり思いで深い場所です。

大阪弁のイントネーションで「たろぼーさん」と呼んでいましたww
いまはすぐ本堂の下まで車でいけるので大丈夫なのですが
もちろん当時はそんな駐車場はありませんので700段以上の石段を登っていったのを覚えています。
本殿の手前に巨岩(男石・女石)があるのですが子供のころはその岩の間を通る時に
悪しき心の者が通るとと途中で閉まると思い込んでいたようです









眼下には滋賀県ののどかな風景が広がります。



2014/04/19

2014 4/19 歴史と人間 真木和泉

久留米藩21万石の大名、有馬家の家臣だが、本職は水天宮の神主さん。
水天宮さんは水難避けの神様で、本宮は久留米にあります。
東京にあるのは、久留米藩藩邸の中にお祀りしていた宮がそのまま残ったのもの。
大阪には末社がキタの露天神さんにあります。

真木和泉は22代目となり、その祖先は平清盛につながっているとか。
150石の馬廻り役なので良い暮らしをしていたのでしょう。諱は保臣(やすおみ)で
文化10年3月7日(1813年4月7日)生まれ。

神職が本職なために非常に保守的な考えで天皇が政治を行う王政復古(復古論)が強いために古いタイプの志士と言える。
実際に維新を行った際の政治の進め方のモデルについてを過去の日本に求めた時に
考えられるのは建武の新政・・これはどうもイメージが良くない。。( 後醍醐天皇は朝廷の政治を復権しようとしたが、1336年(建武3年)に足利尊氏により政権崩壊)
つぎに大化の改新。。(中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした。首都をを飛鳥から難波宮に移し、飛鳥の豪族政治から天皇中心の政治へ移行した。)これもどうも血なまぐさい。。なので登場したのが神武天皇をモデルにした明治国家を目指した。

和泉としては、徳川幕府は全面否定!天皇を崇敬。自らが政治を行うことを理想とした。
とくに影響を与えた書物は「絵本楠公記」。これが思想の基礎を決定し楠公さんを崇拝していた。

11歳で父が死去。
本来、江戸政権の神職でもお寺が仕切っている檀家制度に属しているために仏式での葬儀がきほんではあるが、和泉はむりやり神式で葬儀を執り行った。

32才
水戸学の影響が強く、実際に水戸まで出かけている。
水戸学は、徳川家も天皇崇拝を前提としているが、和泉の意見とは食い違ってる。

34才
藩政改革の意見書を提出。
徳川を無くし神代の時代へ戻るべきで言論を開き、久留米藩を王政復古のモデルにしようという内容。
この意見書を懇意にしていた藩主の有馬頼永は取り上げたものの25歳で急死。藩主は弟の頼咸(よりしげ)となり、彼は和泉の考えを天保学と呼び危険視していた。
その後、政治を混乱させたとの罪で嘉永5年(40才)で蟄居となる。
嘉永6年6月の黒船騒ぎの時、8月には山梔窩(さんしか)〔くちなしのや〕と名付けその後11年も住み暮らしている。


さて、世間では開国したことにより輸出入のバランスが崩れ、物価が上昇!
五品江戸廻送令が出たものの、実際は横浜へ直で持っていくことで利益を上げた商人が続出!
これは生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の五品目は問屋を介して販売すことを義務付けた法令。
長野県や群馬等の生糸産地より横浜へ行く裏道は現在の東京の町田市を通る必要があり、この道は現在は「幕末のシルクロード」と言われているそうですがオカルト的な話も多いようです。

ここで一坂先生より、来月発売の〔幕末維新の城〕についてのお話があり、いかに当時の生糸相場の暴騰により利益をあげた商人がいたかという実例をお聞きしました。

さて、蟄居も終盤の1861年12月に清河八郎が訪ねてきた。
幕府の弱体化や政治の混乱を説いたことから触発され〔義挙三策〕を書く。

上策は、諸侯義挙を進めて事を挙げる。
中策は、諸侯の兵を借りて事を挙げる。これは大阪城、二条城を乗っ取り。。。
そして下策は義徒を募る策。現代の感覚からすれば、とんでもない作戦でびっくり!
新政権樹立のためには京都は焼け野原になっても良いという感覚。。
〔経緯愚説〕はおもいっきり天皇崇拝で神武天皇政権をイメージさせている。

2か月後には蟄居を抜け出し挙兵をするという噂の島津久光に会いに行くもNG!そのまままた久留米で拘置。その後出獄の後、寺田屋事変が起こりその後幽閉生活。
八月十八日の政変により七卿とともに長州へ・・。
そして禁門の変へ参加したものの追い詰められた天王山で切腹となった。

辞世の句が小さな短冊に書かれて木につるされていたそう。

大山の 峰の岩根に埋めにけり 我 年月の大和魂

2014 4/4 交通事故

通算4回目の交通事故にあいました( ;∀;)

今までの事故をまとめてみるとこんな感じ。。


2010年1月 某川の土手道で信号待ちの時に追突される。。
2012年4月 大阪市内で信号待ちの時に追突される。。
2012年7月 八尾市で信号待ちの時に追突される。。

そして今回も。。

2014年4月 八尾市で信号待ちの時に・・・となったのですが
今までとはちょっと状況が違い、対向2車線の交差点で信号待ち。

乗用車が、なぜか歩道を走ってきて、その車が車線に戻るときに
私の愛車の左前にぶつかって走りさろうとしていました。

クラクションを鳴らし続けて追いかけて、数百メートル走行後に
停車。。

てな感じです。


ぶつかられた瞬間は、正直な感想・・・「あ~またかいな。。。」って思いました(;^ω^)

で、19日にようやく愛車が復活!

愛車くん。。痛い目にあってしまったね。。ごめんね。。


2014/03/23

2014 3/23 更新の遅れ・・いいわけ。。

さすが期末ですね。
今年は4月からの消費税UPということで、連日超早朝に起床して15時間後に帰宅。

こんな状態が3月にはいってからずっと続いているためにBLOGの更新がおもっきり遅れています。

なので基本土日もドタバタな私もちょっとお疲れ気味。

更新が遅れちゃってもうしわけありません。。

2014/03/15

2014 3/15 歴史と人間 近藤勇

歴史好きな人がきっと見ている「BS歴史館」が急に中止となり新番組が始まるそう。
4月14日の放映で一坂先生ご出演とのこと!見逃せません

また2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」の制作発表会の資料をいただきました。
ご存知、吉田松陰先生の妹の文が主人公。演じるのは井上真央。。
さぁ・・どなることやら。。

また再来年より道徳の教科書に吉田松陰先生が取り上げられるらしい。これは戦前の修身の教科書依頼とのこと。
松陰先生は私も大好きだけど、強烈な天皇崇拝部分のみを取り上げる描き方には問題があるとおもう。一坂先生いわく松陰先生が強烈に取り上げられた時代があるという。
それは昭和11年~19年。この時代にたくさん出版されたがどれもクズのような転載、再掲載の内容ばかりで、当時の時代性に沿った内容であったらしい。

新撰組は思想のない単なる人斬集団でそこには政治的なビジョンなんでない!とされていた。
そのためまったく研究的な価値がないとされていたが近年はちょっと趣が変わってきた。

私を幕末史に夢中にさせるその魅力とは、その不可思議な点にあるとおもいます。
長州藩はその成り立ちから公家の流れを汲んでいるけれど朝敵となり、そして官軍となる。。
幕府の中枢であった慶喜さんやその成り立ちから忠誠を尽くした会津藩がいつのまにか朝敵となる。。これはひとえに大きな計り知れない歴史の流れがあり、どちらが良いか悪いかだけでは判断できない点にあります。
今日の近藤勇もこの大きな歴史に流された人物です。

天宝5年1834年 武州多摩川調布村に生まれた近藤勇。宮川家の三男で、家は豪農。
よく苗字について言われるが苗字は殆どの人は持っていた。ただ公認さえていなかっただけ。
この地域は天領だけど関八州で治安がよろしくないエリア。よく講談や浪曲で語られる股旅物のお話の「天保水滸伝」「座等市」や用心棒のお話でも登場している。
そのため農民らも警護のために剣術の稽古をしており天然理心流が盛ん。

嘉永2年~近藤周斎の養子となり理心流を継ぐ(近藤は4代目)となり試衛館を造った。

文久3年2月に「浪士組」の募集が行われる。
これは当時の危険分子であった不平浪士を集めて京都へ送り家茂の警護をさせるのが目的であった。そのため試衛館のメンバーも多数参加。

小石川にある徳川家の菩提寺伝通院に参集し2月23日に入京。壬生村へ分宿。近藤勇は八木家に泊まる。

ところが実際の目的は違っていた。
すぐさま御所に対し尊王攘夷の建白をおこなっている。その内容は家茂の上洛に際し攘夷の周旋を行い尊王を貫くことや、幕府のおかげで入京したけれども天皇のために働くという内容。
もちろん天皇は大感激!

2月29日には速やかに攘夷を行えという勅とともに、清川らは生麦事件の対応のために江戸に帰ることに。もちろん近藤や芹沢らは大反対。
そのため京へ残る残留組の16人以外は全員江戸へ帰ってしまった。
3月10日には松平容保に対し、京都へ残りたい旨の嘆願書を提出。それは天皇の守護や将軍上洛の警備と攘夷の実施を旨として12日に受理され正式にOKがでた。

3月23日には、16人が24人に増えた。
ドラマでは2グループだが実際は3グループあった。
それは試衛館メンバー・水戸浪人中心の芹沢グループ・下総浪人グループでこれは殿内義雄をリーダーとしていた。

しかし3月25日には近藤が四条大橋で殿内を殺してしまい下総グループは壊滅。
4月21日には、家茂上洛のために大坂へ移動し5月11日には入京。
5月25日には35人連名で鎖港を行うべく意見書を提出している。
この頃から土方らが近藤を批判。「近藤、天狗になり候」これは芹沢がいた水戸天狗党に絡んでいるともされている。

局中法度を定めその内容は士道に背いてはいけないなど。これは武士への憧れが強く感じられる内容であるが実際は、幹部連中が乱暴や狼藉を行っていた。
なかでも相撲取りとの乱闘騒ぎや商人へのゆすり行為や焼き討ちなどむちゃくちゃ!!

文久3年の8.18の政変では58人が蛤御門へ駆けつけたが会津には知られていなかったことからなかなか中へ入れてもらえなかった。その後、御所の警備を行った。

新撰組or新選組・・・どちらの表記が正しいのかは不明・・もちろん命名者も不明。。しかし名前が与えられたことから公認となりその地位が確立。

8月21日には京見廻りが決定。「手あまりの節は斬り捨て御免」というとんでもないこと!
しかし内部の紛争もあり9月半ばには祇園で切腹されたれたメンバーや芹沢の暗殺なども行われた。そして近藤の独裁体制が進められてゆく。
9月23日には周斎の様態悪化から近藤は江戸行きを願い出たが却下。

10月10日には祇園の一力楼で「国家之議論集会」が開催。薩摩、会津、土佐らの各藩の中に近藤が参加し、今の国港攘夷ではだめであり、海国攘夷を行うべし、そのためには公武合体が急務と意見、各藩の賛同を得る。

そして家茂の二回目の上洛で、守護職が容保から春嶽となる、このときに新撰組は松平容保に着いてゆくことが明確となり4月7日には容保が再任。弟の定敬(さだまさ)は桑名藩主で京都所司代。
一会桑体制が確立した。

元治元年5月7日 家茂は江戸へ帰ってしまうが、長州の処分や攘夷が決まっていないことに対して近藤は激怒。われわれは京を見廻るために着たのではない。新撰組を解散するとまで言い出し、早急に長州への攻撃と横浜の鎖港を決めてほしいと言い出す。

5月20日 天満橋で内山彦次郎を暗殺。大塩関連で手柄をあげた幕臣で新撰組VS相撲取りとの一件で新撰組を糾弾した人物。

5月末には周斎へ手紙を送る。
当時15歳の周平(昌武)という養子をもらう旨。自分はいつ死ぬかわからないために急いだ様。
周平はM34年神戸元町で53歳で亡くなる。山陽電鉄事務所勤務。

池田屋事変~22時頃から5人で乗り込み二時間も激闘!

そして12月25日に天皇の崩御・・長州が朝敵であるとしたまま、また兵庫の開港を決めないままの崩御であっただけにその後歴史の渦はどんどんと進んでゆく・・・・。

2014/03/08

2014 3/8 第48回秋桜寄席

毎年、この日は宝塚の小林で開催される小林亭へ行ってたのですが
今年に限り桂 雀三郎さんがご出演とのことなので貝塚へ。

開場までまだ2時間近くあるのにもう並んでおられる方がちらほら。
笑福亭福笑さんの人気ぶりはすごいです!


「子 ほ め」 笑福亭智六

 「初 天 神」 笑福亭たま


「はてなの茶碗」 桂 雀三郎

 「紙 入 れ」 桂  春蝶

 「神 通 力」 笑福亭福笑

2014/03/02

2014 3/2 第8回イーグル寄席


最近は日曜の早朝にラジオで流れている浪曲にはまったおかげで、
レンタルで初代京山幸枝若さんのCDを会社の良き帰りに聞いているという熱中ぷり!
なのでなんだか落語が新鮮です^^

会場は新大阪イーグルボウルの5階。落ち着いた良い会場ですが
残念ながらお客様の入りが少なかったようで・・もったいないことです。
ぜったいにお得な寄席で参加必須です。


「初天神」露の雅
2009年の秋に田辺寄席ではじめて聞かせていただいてから5年。
落語に一生懸命取り組まれている感があって好感が持てました。

「貧乏花見」笑福亭 仁嬌
東京では「長屋の花見」。
春になるとなんどか聞かせていただく爆笑噺。


「質屋蔵」桂 枝女太

久しぶりのお噺。
質屋の蔵に夜な夜な化け物がでるという。
人様のいろんな情念のこもった物を預かるのだから当然だという。
その正体は。。
枝女太さんの表現力ってやっぱ上手いです!

「寛永三馬術・梅花の誉れ」旭堂 南左衛門

何度か楽しませていただいたこの講談。なんどきいても感激です。
馬術の名手は馬に乗るのではなく、乗せてもらっているというくだり・・心に染みる言葉です。