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2014/04/19

2014 4/19 歴史と人間 真木和泉

久留米藩21万石の大名、有馬家の家臣だが、本職は水天宮の神主さん。
水天宮さんは水難避けの神様で、本宮は久留米にあります。
東京にあるのは、久留米藩藩邸の中にお祀りしていた宮がそのまま残ったのもの。
大阪には末社がキタの露天神さんにあります。

真木和泉は22代目となり、その祖先は平清盛につながっているとか。
150石の馬廻り役なので良い暮らしをしていたのでしょう。諱は保臣(やすおみ)で
文化10年3月7日(1813年4月7日)生まれ。

神職が本職なために非常に保守的な考えで天皇が政治を行う王政復古(復古論)が強いために古いタイプの志士と言える。
実際に維新を行った際の政治の進め方のモデルについてを過去の日本に求めた時に
考えられるのは建武の新政・・これはどうもイメージが良くない。。( 後醍醐天皇は朝廷の政治を復権しようとしたが、1336年(建武3年)に足利尊氏により政権崩壊)
つぎに大化の改新。。(中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした。首都をを飛鳥から難波宮に移し、飛鳥の豪族政治から天皇中心の政治へ移行した。)これもどうも血なまぐさい。。なので登場したのが神武天皇をモデルにした明治国家を目指した。

和泉としては、徳川幕府は全面否定!天皇を崇敬。自らが政治を行うことを理想とした。
とくに影響を与えた書物は「絵本楠公記」。これが思想の基礎を決定し楠公さんを崇拝していた。

11歳で父が死去。
本来、江戸政権の神職でもお寺が仕切っている檀家制度に属しているために仏式での葬儀がきほんではあるが、和泉はむりやり神式で葬儀を執り行った。

32才
水戸学の影響が強く、実際に水戸まで出かけている。
水戸学は、徳川家も天皇崇拝を前提としているが、和泉の意見とは食い違ってる。

34才
藩政改革の意見書を提出。
徳川を無くし神代の時代へ戻るべきで言論を開き、久留米藩を王政復古のモデルにしようという内容。
この意見書を懇意にしていた藩主の有馬頼永は取り上げたものの25歳で急死。藩主は弟の頼咸(よりしげ)となり、彼は和泉の考えを天保学と呼び危険視していた。
その後、政治を混乱させたとの罪で嘉永5年(40才)で蟄居となる。
嘉永6年6月の黒船騒ぎの時、8月には山梔窩(さんしか)〔くちなしのや〕と名付けその後11年も住み暮らしている。


さて、世間では開国したことにより輸出入のバランスが崩れ、物価が上昇!
五品江戸廻送令が出たものの、実際は横浜へ直で持っていくことで利益を上げた商人が続出!
これは生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の五品目は問屋を介して販売すことを義務付けた法令。
長野県や群馬等の生糸産地より横浜へ行く裏道は現在の東京の町田市を通る必要があり、この道は現在は「幕末のシルクロード」と言われているそうですがオカルト的な話も多いようです。

ここで一坂先生より、来月発売の〔幕末維新の城〕についてのお話があり、いかに当時の生糸相場の暴騰により利益をあげた商人がいたかという実例をお聞きしました。

さて、蟄居も終盤の1861年12月に清河八郎が訪ねてきた。
幕府の弱体化や政治の混乱を説いたことから触発され〔義挙三策〕を書く。

上策は、諸侯義挙を進めて事を挙げる。
中策は、諸侯の兵を借りて事を挙げる。これは大阪城、二条城を乗っ取り。。。
そして下策は義徒を募る策。現代の感覚からすれば、とんでもない作戦でびっくり!
新政権樹立のためには京都は焼け野原になっても良いという感覚。。
〔経緯愚説〕はおもいっきり天皇崇拝で神武天皇政権をイメージさせている。

2か月後には蟄居を抜け出し挙兵をするという噂の島津久光に会いに行くもNG!そのまままた久留米で拘置。その後出獄の後、寺田屋事変が起こりその後幽閉生活。
八月十八日の政変により七卿とともに長州へ・・。
そして禁門の変へ参加したものの追い詰められた天王山で切腹となった。

辞世の句が小さな短冊に書かれて木につるされていたそう。

大山の 峰の岩根に埋めにけり 我 年月の大和魂