諱は時庸(ときつね)、雅楽以外にも隼人や右近という名前があった。
長州藩の組織は【一門】【永世家老】【寄組】【大組(八組)】があり、長井や高杉、また周布政之助さんや井上馨も八組出身。長州藩はすぐれた人材で才能があればどんどんと取り立てる実力主義で、8つの組に分かれており、平生は江戸の江戸藩邸や萩の城を警護。また有事の際は藩主のそばを守る馬廻役となる。
さて、この長井さんはとっても優秀な方で、1837年(天保7年)毛利慶親(敬親)の小姓役で、今でいう秘書のお仕事をする。
1850年(嘉永3年)には奥番頭格(藩の副大臣)
藩主の跡継ぎとして<ろくのじょう>(12歳)⇒の教育係として長井と高杉小忠太が任命。
定広 元徳となる。
さて、桜田門外の変で井伊大老がなくなった後、幕府のかじ取りをしていたのが老中の安藤信正と老中の久世広周の打ち出した公武一和。和宮降嫁の件があって
文久元年(1861 3/28)中央政府へ乗りこもうとする毛利家をうまく利用しようとする幕府にも狙いがあった。
長州藩を含め幕府の中も大変な時に藩是を決めることに。その際に長井雅楽が出した建議書の【航海遠略策】をベースとして、周布政之助さんが清書し、決議案とし、これを藩の意見として定めた。
※決議案と建議書は微妙に内容が違っているのに注意!
この一見でおそらく長井は有頂天だったろう!
10/1には長井は江戸へ向かい10/24に到着。
12/8に幕府へ建議書を提出しOKを得てさっそく12/30に藩主へ報告。
文久2年1/15には京都へ向い朝廷のOKをもらうことにする。
ところが・・・・坂下門外の変がおこり、安藤信正が襲われるという事件が起こる。
3/19には朝廷へ提出。この時には自分の署名「陪臣大江時庸(ときつね)謹上」の無いバージョンを提出。
ところがすでに流出している資料で薩摩や攘夷派はすでに激怒状態!
4/5にはあの久坂玄随さんも状況!長井を斬る!と息巻いている!
4/14には長井は江戸へ向かう。
4/27には久坂が反対の書を出す!
そして時代は動いてゆき幕府や朝廷の意見をひっくり返してしまった。
朝廷へ提出してわずか40日だった。
6/18には長井は萩へ帰国。翌年2/6には切腹(45歳)となった。
長井が自分の意見ではなく、藩の決定版の意見を出していたのなら切腹にはならなかったのでしょう。彼は3回の建議書を提出している。
その相違点は
1.天皇の意思を第一に考える事
2.条約を認めていないこと
3.違勅~幕府が締結した条約は天皇が望んでいないこと
4.有志あるものは幕府に怒っていること
5.戦う道もあること
そして長州藩は【君臣湊川 奉勅攘夷】へと方向を転換していくことになってゆく。