日露戦争後は多くのロシア兵の捕虜を日本が養っていたわけですから相当な苦労があったことでしょう。大阪では最大規模の収容所で、2万人以上の捕虜が収容されました。
浜寺捕虜収容所(堺市/高石市)
現在の住所: 大阪府高石市羽衣公園丁(および堺市西区浜寺公園町にかけてのエリア)で現在の浜寺公園およびその周辺の住宅街にあたります。
***引用**泉大津石ホームページ ロシア兵墓地/泉大津市
明治37年~38年、多くのロシア兵が日露戦争で捕虜となって日本各地に収容され、高石の海岸につくられた収容所にも、多いときには2万人もの捕虜が収容されていました。地区の住民が異国の地で寂しく死んでいった兵士のために、自分たちの墓地のうち約600平方メートルを提供して造り、現在も春日町墓地の中に89基の墓石が並んでいます。また、墓地の中央付近には、当時のロシア政府によって建てられた五稜の石碑があり、ロシア語など5か国語で「御霊よ、安らかなれ」と刻まれています。
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天王寺捕虜収容所(大阪市天王寺区)
当時の概要: 天王寺の公会堂や寺院などが収容施設として利用され現在の天王寺公園(慶沢園や大阪市立美術館周辺)の敷地内にあたります。
南禅寺・各寺院の仮収容施設(大阪市内各地)
開戦当初や収容人数が増加した際、市内の主要な寺院(東本願寺難波別院=南御堂など)が一時的な収容先や傷病兵の療養施設として使われました。
大阪に送られた捕虜の多くは、傷病兵の療養や浜寺などの大規模仮設収容所での生活を送った後、講和条約(ポーツマス条約)の発効に伴い本国へと帰還しました。
◎ 西成区区史 昭和43年10月1日発刊 に記載の文章を読みやすいように整えました。
日露戦争余話:天下茶屋の俘虜(捕虜)収容所(明治38年1月11日)
留守第四師団司令部は、新築された陸軍予備病院今宮分院に「大阪天下茶屋俘虜収容所」の看板を掲げ、近々送られてくる予定の旅順のロシア人捕虜3,000人を収容することに決めました。
食事は自炊と定め、当面の間のみ請負業者による提供とします。1日の食事費は准士官以上が60銭、下士官以下は30銭を与えます。衣服は捕虜が所有するものを使用させ、破損した場合は支給します。また、捕虜の将校2人に対して従卒(身の回りの世話をする兵)1人を付け、一般に間食も与えて、できる限り優遇することとしました。
収容所の位置と構造(明治38年1月12日)
今回設置された天下茶屋捕虜収容所(元の予備分病院)は、天下茶屋駅の少し北東、線路の西側にある畑の中にあり、敷地は約6万坪(約20万平方メートル)あります。周囲は杉の板塀で囲まれ、庁舎は板や防水紙で屋根を葺いた平屋建てが60棟あります。
そのほか、外科事務室、包帯交換室、調理室、手術室、厨房、衛生兵や憲兵の詰所などの付属施設があります。井戸も備え付けられていますが、飲み水には水道水を使うこととし、昨日から水道管の敷設作業に取りかかり、電話や電灯も設置されました。
天下茶屋の捕虜による騒ぎ(明治38年1月17日)
天下茶屋収容所では、一昨々日から捕虜のうち20人を調理人(料理人)として自炊させることになりました。厨房は第1~第3区に分かれており、第1区はすでに朝食の準備に取りかかろうとしていました。しかし、第2・第3区の調理人の中に自炊に不満を持つ者がおり、口裏を合わせて「自炊はしない。もし料理を作ったらぶち殺すぞ」と第1区の調理人を脅し、結局1人も調理に就かなくなってしまいました。
監督将校が通訳を介して何度も言い聞かせましたが頑として聞き入れず、そればかりか捕虜の中の班長(リーダー)が説得しても聞き入れないどころか、挙句の果てに班長を殴打する者まで現れました。
そのため衛兵が警戒を強化し、中心人物と思われる43人を捕まえて営倉(牢屋)に入れました。しかし、昨日の午後5時になっても依然として自炊を拒み、これまで通りの配給を求めて横柄な態度をとっています。手厚くもてなすと捕虜の立場を忘れてつけ上がるため、「自炊するまで放っておけばいいのではないか」と言う者もおり、いずれにせよ厄介な客(捕虜)であります。
捕虜自炊事件の鎮静(おさまり)(明治38年2月20日)
天下茶屋での捕虜自炊拒否事件について、まだ500人余りが納得せず主張を続けていました。しかし、歩兵第8連隊補充大隊から収容所に派遣されていた衛兵の中に、13歳の時から13年間ロシアに住んでいた兵卒がいることが判明しました。
そこで、試しに彼を通訳として当たらせ、「自炊をすれば自分たちの口に合う食事が作れる」「定められた予算から工夫すれば費用を節約でき、結果として各自の食べる量を増やせる」「食パンも捕虜の中で心得がある者に作らせれば美味しいものが食べられる」といった自炊のメリットを詳しく説得させました。
非常に丁寧で細かいニュアンスまで言葉の意味が伝わったため、捕虜たちは納得して自炊を快諾しました。 最後までしつこく自炊を拒んでいた500人余りも、昨日・今日と「自炊をさせてほしい」と申し出てきました。さらに「今後、自分たちへの指示や連絡事項は、今回の指示のように詳しく明確に通訳してほしい」と要望を出し、事件は一件落着となりました。
捕虜の数(明治38年3月5日)
天下茶屋収容所の捕虜の数は、6,062人となりました。
捕虜収容所について(明治38年3月19日)
天下茶屋分所の捕虜6,047人は、18日午後をもって浜寺の仮設テント(幕舎)への移動を完了しました。跡地は以前の報道通り予備病院の分院とするため、建物の内外を大掃除して徹底的に消毒することになりました。
町と名勝(天下茶屋の風景)(明治43年4月18日 朝日新聞)
ロシア捕虜収容所や陸軍予備病院として一時賑わった天下茶屋かいわいも、戦争が終わり平和が戻ると静まりかえりました。
しかし、南海天下茶屋駅の東側にある山の手一帯をはじめ、豊臣秀吉や千利休(紹鴎)ゆかりの史跡がある住吉街道沿いなどは、当時流行し始めた「郊外生活」の人気に応えるように、絶好の別荘地として住宅が急激に増えました。 まず天下茶屋の街を紹介しましょう。駅を降りて東へ約300メートル、こんもりとした松林を目指して進むと、弓を引く弦の音が響き、花びらが風に舞っています。ここは弓術クラブが開かれているようで、矢の勢いを確かめる人の姿が見えます。
落ちてくる花びらを袖に受けながら聖天山(しょうてんやま)を左に進むと、「地主 芝川」と書かれた古びた表札のある門に入ります。小高い丘に登ると、吉野の竹林院から移植したという数十本の桜の古木が満開に咲き誇っています。
その奥を抜けて聖天様の境内に入ると、「一幹に五条の竜が立ち昇る」と呼ばれる有名な松があり、緑の木陰で清々しい空気を吸うことができます。この一帯はどこも公園のように美しく整備されています。
阿部野神社へ回ると、社殿の左側にある手水井戸の傍らに一本の桜が二分咲きの花を咲かせています。石畳を下って街道筋に出ると、歴史に名を残す「天下茶屋の旧蹟」があります。
「木」という文字の形も面白い看板が立つ新築の天下茶屋郵便局が見え、電話も16日から開通しました。文明という名の悪魔(文明開化の波)は、いよいよこの静かな土地をも包み込もうとしています。

