大阪の中心部を走る地下鉄御堂筋線は現在、北大阪急行へ乗り入れ現在の北方面の終点は「箕面萱野駅」です。この「萱野」という名称は地名からとられており国道171号線と北大阪急行が走る423号線の交差する地名が「萱野」でその由来は忠臣蔵で有名な赤穂義士 萱野三平ゆかりの旧邸長屋門(涓泉亭:けんせんてい)が現存するところから取られています。
といっても「忠臣蔵」の認知度はおよそ40%程度とされていて1980年以降生まれの方は年末大型時代劇の放映が激減・途絶した時期に育ったため、テレビを通じて日常的に『忠臣蔵』に触れる機会がなく、「その名前すら知らない」世代だそうです。
さて、赤穂義士は四十七士と言われますが四十八番目の志士として名高いのが「萱野三平重実」です。討ち入りの誓紙に名を連ねながらも、父への孝行と亡き主君への忠義の板挟みとなり、討ち入り前にわずか27歳で自刃された人物です。
その自刃されたお屋敷が萱野交差点からすぐの場所にあります。
1. 原文(翻刻)
片泉ハ赤穂義士萱野三平重實ニシ
テ忠孝兩全ノ士也句ハ嗣孫七郎左
衞門重好ノ傳フル所能ク其意
ヲ盡セリ今ヤ國ヲ擧テ東亞新秩
序ヲ建設セムトス秋其々々
皆其得材ヲ播州赤穂ノ上攝州御影ノ
二ニ求メ其邸址ニ建ツ以テ志ヲ嗣ク
ト云爾
紀元二千六百二年二月十日
大阪赤穂義士會
2. 読み下し文
片泉(へんせん)は赤穂義士萱野三平重実にして、忠孝両全の士なり。
句は嗣孫(しそん)七郎左衛門重好(しちろうざえもん しげよし)の伝ふるところ、良くその意を尽くせり。
今や国を挙げて東亜新秩序を建設せんとす。
秋(とき)それそれ、皆その得たる材を播州赤穂の上、摂州御影の二に求め、
その邸址に建て、以て志を嗣ぐと云ふ爾(しか)云ふ。
紀元二千六百二年二月十日
大阪赤穂義士会
3. 現代語訳
「片泉(へんせん:萱野三平の俳号)」とは、赤穂義士である萱野三平重実のことであり、主君への忠義と親への孝行の双方を全うした人物です。
(碑に刻まれた三平の)句は、子孫である七郎左衛門重好に伝えられたものであり、三平の真意を実によく表しています。
いまや国を挙げて東亜新秩序を建設しようとしている時であり、まさに今こそ、(三平の遺徳を顕彰するために人々は)それぞれ入手した(ゆかりの建築)材料を、播州赤穂のほか摂州御影の2箇所に尋ね求めて集め、その屋敷跡に(記念の建築や碑を)建て、これによって三平の志を受け継ぐのである、とのことです。
皇紀2602年(昭和17年/1942年)2月10日
大阪赤穂義士会
※赤穂義士萱野三平重実と御影(現在の神戸市東灘区)のつながりは神戸・御影の地にも萱野家の一族・子孫(分家)が移住・定住していました。碑文に登場する三平の子孫である「七郎左衛門重好(しちろうざえもん しげよし)」の系譜や関連資料・遺品は、御影の地に渡り保管されていた歴史があります。
浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件を起こして無念の切腹となった後、三平は同志(大石内蔵助ら)と誓紙を交わし、亡き主君への忠義を果たすため仇討ち(討ち入り)への参加を固く決意していました。
しかし、三平の実家(旗本大島家の代官職)の父は、吉良家や幕府と深いつながりがあったため、赤穂浪士との関わりを強く反対し、他家への再仕官を強く迫ります。
・主君への忠義と同志への義理(忠)
・実父の教えに従い家を守る孝行(孝)
当時の武士道精神において、このふたつの価値観はどちらも捨てがたい極限の葛藤でした。
どちらを選んでも一方を裏切ることになるという「忠孝両全」の叶わぬ現実に、彼の心は来る日も来る日も「花曇り」のように重く暗く閉ざされていたのです。
進退極まった三平は、同志の情報を父に漏らすこともできず、さりとて父の制止を振り切って討ち入りに行くこともできず、主君の月命日に自刃するという決断を下します。
わずか27歳。死を選ぶことによって、父への孝行を立てつつ、自死の理由を遺書で明かすことで同志への義理と忠義を貫きました。
この句における「晴れゆくや」は、生きている間はどうしても解けなかった葛藤から解放され、死をもって自身の節義を全うできるという最後の心の静けさと澄み切った境地を表しています。
春の訪れを予感させる優美な「花曇り」という季語の裏に、武士としての矜持と葛藤を抱えて命を散らした若者の、哀しくも切ない清々しさが込められた名句です。
萱野三平記念館
https://www.city.minoh.lg.jp/bunkazai/sanpei.html




