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2013/01/01

2013 1/1 年頭



これは2007年の年末から2008年のお正月にかけて喉の手術で入院した際に
病院のロビーに掲げられていた額の言葉です。

この時は泣きそうなくらい辛くて・・さみしくて。。悲しくて。。。。

でもこの額の言葉を読んですごく自分が恥ずかしくなりました。

今年1年は謙虚に過ごしたいとおもいます。

2012/12/30

2012 12/31 年末に寄せて

今年のように色々と出来事があった一年は初めてでした。

昨年秋の大手術の経過が思わしくない事から5月に再手術。
そして15年間勤めた会社を退職。そして新たな会社へ就職。
極めつけは7月に信号待ち時にノンブレーキで普通乗用車に追突されました。
昨年4月には信号待ち時にタクシーに追突事故を受け、今回ばかりは間違いなく死んだ・・と思いましたが奇跡的に外傷はゼロ!

本当にありがたいことです。

そして新しい会社に入って一番に感じたことはその社風。
色々と書くと弊害がありますが、【努力する者、夢語り、怠る者は愚痴語る】
そして【諦めた者は何も語らない】。

 私はどのタイプになるのでしょうか。

社会人である以上、労働は必要ですが私に期待されていることと私が期待することがマッチしているかどうかは今の段階では疑問です。

これが愚痴になるのであれば私は怠る者ということになりますね(笑)

色んな出来事があっただけに、来年は平穏無事が一番!
穏やかな心で健やかに暮らしたいものです。

2012/12/25

2012/12/25 何を言うやらミカンやら

朝5時からいつも[子守康範 朝からてんコモリ!]を聞いています。

その中で話題になっていた[何を言うやらミカンやら]がネタになっていました。私はずっと原田のぶろうさんのギャグだと信じ込んでいましたがどうやらもっと昔の事らしい。

で、語源は1922(大正12年)/04に出版された[如意宝珠巳 春野の旅] の中に出てくるそうで、作者は出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)さん。この方は宗教「大本(おおもと)」の教祖とのこと。

 WIKIでその生涯を読んでみたがとでも興味があります!いくつか書籍を調べてみたいと思います。

夏彦『モシモシお爺さま、此奴ア、由良の湊の秋山彦の門番をして居つた男です。偉さうに口ばつかり開くのですよ。朝から晩まで門を開くのが商売だから、その惰力が未だに残つて居つて、大門のやうな大けな口を開きよるのだ。相手になりなさるな。この男の云ふ位な事は、私だつて、年の功は豆の粉だ、豆の粉は黄な粉だ、黄な粉はヤツパリ豆の粉だ。猪喰た犬は、犬のどこやらに勝れた所が有りますワイ。私が教へてあげませう』

加米彦『コレコレお爺さま、此奴はなア、ウラナイ教の黒姫と云ふ、口ばつかり達者な奴に十年間も朝から晩まで、法螺を仕込まれて来た奴だから、何を言ふやら、蜜柑やら、金柑桝で量るやら、なにも分つた代物ぢやありませぬワイ』


爺『最前からこの老爺が一生懸命に頼みて居るのに、お前さま達は、この老人を飜弄するのかい、エーエやつぱり英子姫さまのおつしやつた偉いお方は、この御連中ぢや有るまい。アーア阿呆らしい、コンナ事ならこの重い足を、老人が引摺つて来るのぢやなかつたのに……』

 参照)

2012/12/23

2012/12/23 講談祭

会場へは13時すぎに到着。母に先に会場入りしていただいて私は車を置きに大国町の駐車場へ。
で13時半に会場に着いたら驚きました!
えぇぇ?会場がいっぱい!お客様がどんどん。。。。何があったの?
ついに講談の時代がきたか!って思いました。


旭堂南舟 松浦壱岐守
赤穂浪士の討ち入りには四十七士に関する本伝、それぞれの個人のお話の銘々伝、
そして討ち入りに関係した方々のお話の外伝があるとのこと。

さて、この松浦(まつら)壱岐守のお話は外伝。お話のイメージからすると
赤ら顔のエラそうにしている松浦壱岐守。寒い日には生き炬燵と称して女性を先にお布団へ入れて温まるのを待つ・・そんな感じの方らしい。
山鹿流の陣太鼓が聞えてきた、慌てて様子を探りに行かせた松浦は・・・。

旭堂南青 赤垣源蔵 徳利の別れ
今日の講談祭は今までにない客入り!
座椅子席と長椅子席の間にスペースをつくり座椅子を増やすために後ろに下がっていただきました。
今まで前に詰めていただくために「お膝送り」というのは経験がありますが[お膝下がり]というのは
初めて!ありがたいことです。

討ち入りの前夜、兄の元へ別れの挨拶に来赤垣源蔵。ところが残念ながら会うことが出来ず、また姉も体調不良とかで会えなかった。
お手伝いの女中が応対をするが・・・。

そのしっとりとしたお話に客席のいろんなところから「グスッ・・・」もちろん私も・・。

客席参加型対談「討ち入りの嘘と誠」
司会は南舟さん。メインは南北さん、南左衛門さん。
一番気になるのは、なぜ浅野内匠頭は吉良さんを襲ったのか。
いろんな説があるがまずは、賄賂説。これは吉良さんからすると当然の事で作法を教える授業料のような物。
ところがいろんな事実検証がされて賄賂説ではないという結果に。
次に出たのは男色説。浅野内匠頭さんには日比谷右近というお小姓さんがいて、日比谷右近を吉良さんが見初めたという説。
ところが浅野さんはNO!でも時の大老の堀田正俊さんから同じ話がでた際にはすんなりOK!うほっ!って感じで逆切れしたのか。
で、次の説は塩の製法説。当時の塩は赤茶けたものだったそうだが赤穂だけは当時から白!吉良さんのご当地も塩を製造していて
この製法を知りたくて・・てな感じで刃傷沙汰になったのか。。真実は今となっては不明。。

旭堂南青さんが話された赤垣源蔵のお話ですが実は赤垣源蔵は赤埴(あかばね) 重賢(しげたか)。本当は下戸で兄はいないらしい(;´Д`)
お芝居や講談では大酒呑みということになってはいるが真っ赤なウソ!えぇぇ!

旭堂南左衛門 三村の薪割り
赤穂の浪士たちは情報収集にために身分や身なりを変えて町にでた。
ところが三村次郎左衛門は武士の姿のままでできることを考えた結果、変わった商売の薪割屋を始めた。
そこで知り合ったのが刀研ぎ屋主人の竹屋喜平次。
大の仲良しとなった二人は友情を温める。
そしていよいよ討ち入りが決まった・・・・・。



旭堂南北 夜もすがら検校(けんぎょう)

玄城検校(げんじょうけんぎょう)は琵琶の名人で、平家のお話を語らせたら一晩中でも語るという。そこで「夜もすがら検校」という名前が付いた。

彼は盲目の為に信頼できる付き人を一緒であったが、江戸からの帰りしなにトラブルが起こる。なんと付き人が色と欲に目がくらみ検校を中山道の雪深い山の中に・・・。
この冬の日にぴったりの臨場感あふれる口調でお話くださいました。

今日の講談祭の一日は講談の魅力をしみじみと感じた一日になりました。

講談ってドキドキしたりハラハラしたり。頭の中にいろんな人物がでてきて語りかけ、泣いたり笑ったり。。張扇の音一つで場所も時代も一っ跳びの素晴らしい芸能だとおもいました。願わくば、もっともぉぉっと講談がメジャーになりますように。

2012/12/16

2012 12/16 笑好寄席

笑好寄席は今回で4回目の参加となります。
前回の事があってか、いつもよりも2か月ほどずれこんだ笑好寄席。
冒頭に席主の桂 文三さんのご挨拶があり、その意気込みと想いが はっきりと伝わってきました!
桂 文三さん!本当にありがとうございました。

笑福亭 生寿 狸の鯉
生寿さんの【狸の鯉】は今回で3回目となります。
最近、すこしふっくらとされてきた生寿さん、すごく所作、仕草がきっちりとされており
あきらかに上達されたなーってあらためて感心しました。
竹林さんとなかなか会えない生寿さんのお言葉!
しらべてみますと2009年に坊枝さんが 天王寺参りをされた回のようですねー。

林家 染弥 天災
無難にきっちりとこなされた染弥さん!
最後にハプニングが!! あぁぁぁ・・・・金屏風がwww
それにしてもお怪我をされなくて本当に良かったです。

桂 南天 壺算
藤井寺でなし、八尾でなし・・柏原市。。
たしかに南天さんの地元の枚方でなし・・寝屋川でなし・・四条畷と
街の雰囲気が似ていますねー。
また大阪人の言葉を切り口に笑いを巻き起こしてそのままネタに突入です。
  坪算では、壺が割れた経緯はバッサリ省略!
その代わりに番頭さんとの掛け合いが絶妙で
ゆにや黒兵衛さん、船場の料亭の比喩がおもしろかったです。
そのほか色んな所に南天さん独自のくすぐりが満載!
納得の面白さでした!

桂 雀喜 初天神
私にとって初天神は超思い出のネタ。 そ
れだけに聞けるのはありがたい。
でもおもいっきり1月の話なのでちょっとだけ えっ?てなりました。
こしゃまくれた寅ちゃんとおやじの掛け合いが面白く楽しめました。

桂 文三 はてなの茶碗
意表をつくマクラでなにか得した気分に!
【子の千三百六十五番!】の話で開場は 大爆笑!
茶道具屋金兵衛さんの貫録や威厳も申し分なく、また京の言葉と大阪言葉の対比も
見事で、はてなの茶碗の世界にスッと入ることが出来ました。
本当に無事に復活して良かったですね!
こんな素敵な寄席!来年からもずっっっ~と続きますように。

2012/12/15

2012 12/15 歴史と人間 ~井伊直弼

昨日の金曜の夜に勤務先の忘年会があり、深夜に帰宅。
そのまま倒れこんで眠ったようで朝起きたら、大変な状態でしたww
食欲のなく、胃のむかつきと戦いながらも朝風呂。。それでも頭が痛くって。これはもう何年も経験していない二日酔いって症状。。朝食も昼食も食べることができないままにお勉強に向かいました。
今日はこのお勉強の後は年末恒例の一坂太郎先生教室の忘年会(・_・;)どうなることやらって不安いっぱいでしたww。


さて、井伊直弼は第11代藩主・井伊直中(なおたか)とお富の方との間に十四男として1815年(文化12年)に生まれる。不思議な縁で、安政の大獄で処刑した梅田雲浜氏とまったく同じ誕生日。
幼名は鉄之助。
直亮(なおあき)がすでに藩主を継いでいた。(3男)次いで直元(11男)がいる。。
当時は藩主を継ぐことができなかった次男坊以下は大変で、養子として入ることができなかった場合は一生を不遇で終わってしまう。この彦根藩では300俵で部屋住みとのこと。
これはなんとかかつかつで暮らしてゆけるギリギリな水準。

1834年には弟と養子の面接に行ったがNG・・・しかも弟が養子に入ったとか。。

埋木舎(うもれぎのや)で長野主膳に国学を学び、また居合や槍術、禅や和歌を学ぶ。特に茶道では有名で石州流。いくつもの書籍が存在している。
学んだ山鹿流兵法は日本を絶賛、しかも幕府は絶対的な権力であることを肯定する学問。武士としての道徳を説く。
また、国学の研究では長野主膳義言(よしとき)との出会ったことが大きなターニングポイント。
長野主膳は実は出身地等の情報は無いことから不明で同い年。
1842年(28歳)で主従の礼を結ぶ。

儒学は外道であり所詮中国の教え。山鹿は国学であり神道。幕府への忠義は天皇への忠義に通じるというおもいっきり保守的な学問の山鹿流。
ちなみに赤穂浪士の仇討は山鹿流ではNG!幕府の許可があればOKだが忠臣蔵事件はだめ。

1846年 世子 直元 死去⇒直弼(32才)⇒江戸へ向いはじめて将軍にお目見え。
1850年 直亮 死去⇒そしてついに直弼が藩主になった。
すぐに主膳を召し抱え、井伊家の勤王ぶりを調査させた。
直弼は天皇大好き!好みの刀をプレゼント。また御所の火事のあとは焼けた本を探し出して進呈。すっかり天皇は直弼を信頼しきっていた。
地理的なことがあり、彦根は京都の膝元。なにかあれば駆けつける藩。

さて、いよいよ時代が動き出す。

黒船がやってきたらすぐに江戸からお呼び出し!2000人で羽田・大森の警備を仰せつかる。

で・・意見書のくだり。。1853年/8/10の意見書では、キリスト教を国内に入れてはいけない。祖法があるので国を閉ざすことを説く。ところが8/29の意見書では交易を行い海軍の力をつけつことをといている。これって龍馬さんらが言ったようなことをすでに言っている。この不思議な意見書には訳がる。たまり場つめの新人の直弼さんはうるさ方を刺激しないように遠慮したのか。直弼の本音はもちろん8/29の方。ちなみにこの意見書は中川禄朗が書き、直弼が加筆して仕上げている。

徳川斉昭は、ペリーを打ち払え!直弼は迎え入れて穏便に!で対立してゆく。
品川の台場なんて無駄!兵隊が犬死するだけ!それよりも軍艦建造だ!の意見が本音。

そして3/3に日米和親条約を締結。

次にハリスが来日。

親交外交を自由貿易で進める旨の勅諚を求めるために堀田正睦を京都へ走らせるがもらえない。。1858年(安政5 44歳)4/22 大老に就任。
運悪く第二次アヘン戦争の情報が入り、アメリカの脅しに乗ってしまい6/19修好通商条約を締結。
保守派松平忠岡(上田の殿様)と直弼は勅諚をもらうかもらわないか・・もめてしまう。

そして直弼は5/12に家定の跡継ぎ問題についての話の際に、忠岡を罷免する工作をしてしまう。
これは公用型秘録(M18明治政府へ提出した資料に欠落していた情報)が発見されてはじめてわかった事実。

そしてついに、後継者は血筋のものから選ぶという勅許をGET!これはすなわち南紀派の家持を世子とすることを指す。 この勅許はなんと一ツ橋派に寝返った堀田正睦が隠ぺいしてしまう。

安政の大獄・・・そして桜田門外・・・。

井伊直弼さんは誰よりも尊王攘夷思想。。でもなかなか世に出ることがなく大変苦労され、時代の渦に翻弄された方だったのですね。


講座がおわると上映会です。

今日の映画は本当に珍しいお話。これは一坂先生のホームページに詳しく書かれていますので
そちらをご覧くださいませ。

研究室 ~ 『青年』の思い出 ~

原作:林房雄
脚本:杉山義法
場所:東京宝塚劇場
配役:
井上聞多:西郷輝彦
伊藤俊輔:あおい輝彦
高杉晋作:竹脇無我
プウラン:森繁久弥
毛利敬親:藤岡琢也


産経新聞の「わたしの失敗」という書籍の中の西郷r輝彦さんの項目に次のような文章があるようです。

昭和61年、東京宝塚劇場での舞台「青年」。その記憶は西郷輝彦の中に強烈に刻まれている。
森重久弥に指示してともに舞台を重ね、演じる者としての自覚も芽生えて来た頃のことだった。

 ~略
予想もしていなかったアドリブが森繁の口から飛び出した。
「きみの父親の名前は何という?」
頭の中が真っ白になるような”抜き打ち試験”だった。
観客を前にして物語の名前を止めるわけにはいかない。
あわてた西郷はとっさに自分の父親の名前を口にしてしまった。


「青年」の上映会が終わり一坂先生よりゲストの旭堂南左衛兵門様をご紹介いただきました。
この席で上方講談の解説や講談における人物名の変更等についてをお話くださいました。
また井上聞多の「袖付橋(袖解橋)の御難」に関する解説をいただき、一同そのまま
忘年会会場へと移動。

いつのまにか私の二日酔いも消えて、元気に美味しくビールをいただきました(笑)

2012/12/09

2012 12/8-9 小浜旅行

この1年間はおそらく人生の大きな転機だったのでしょう。
交通事故に転職、そして大きな手術と盛りだくさん。
そこで今回は厄落とし企画として一族で1泊旅行へ行くことになりました。
で、候補地の決め手は長女の案!「カニもフグも食べられる場所」ということで
でググってみると速攻で福井県小浜に決定!

まさかとはおもうけれど・・雪道は走ったことが無い。。
1週間前に慌ててオーとバックスへタイヤチェーンを買いに行き

とりあえず1回だけ講習を受けて¥20,000でGET!
その後さすがにぶっつけ本番は危ないってことで
冷えこんだ夜半にもくもくと取り付けの練習をして1泊旅行に臨みました。


当日は朝8:30に出発。念入りに道路情報を確認しましたが今のところ問題なし!
ということでサクサクっと走り12時には小浜に到着!


お昼は若狭フィッシャーマンズワーフです。
好きなお寿司をわんさと抱え込んでの新鮮な握り寿司!
あ~ん!絶品!あまりのおいしさに写メを忘れました(;´∀`)


その後は御食国若狭おばま食文化館へ移動。
ここでまぁよく遊んだこと!
伝統工芸品をつくるコーナでは、めのう薄板模様付けとめのう磨きにチャレンジ!
私は、失敗がまず無いとおもわれるめのう磨きにチャレンジ!
まぁ30分だし。。。ところがこれが意外な展開に!

どうやら磨けば磨くほどに光沢が増すことがわかり、サンプルで展示されていためのうは
3日間磨いたらしい!ちょっち根性をだしてひたすら磨く!磨く!
紐をつけてもらって可愛いオレンジのめのうのペンダントが出来上がりました^^

15時になってチェックイン!
窓から見える日本海!
その向こうには雪景色の稜線が見えます。



早めにみんなで入浴してお待ちかねの夕食!
カニ鍋+フグ鍋の饗宴ですww。



茹でカニ、カニ鍋、カニのお刺身の横にてっさと湯引き、てっちりが並びます!
たぶんこんな光景は二度とみることはないかも!

で・・写真は?はい!ごめんなさい。わすれましたww


翌日も快晴!素晴らしい天候に恵まれて小浜観光。といっても小さな町のこと。。
先日の【幕末史】で習った【梅田雲浜】さんについての足跡をと調べると、さすが小浜の英雄。
雲浜地区というのがあって公民館やら学校やら。今は亡き小浜城跡あたりがその地区らしく雲浜さんの生家跡もありました。

写真は雲浜小学校の校門の中におられる梅田雲浜さんの像です。

また小浜城址では、石垣が残るのみ。
また堀もすべて埋め立てられ宅地化していました。









その後、フィッシャーマンズワーフの向かい側にある市場でいろいろとお買いもの!
干物や小鯛のささ漬をGET!これで思い残すことはないww。

無事全行程を終わり帰阪。

楽しかった小浜旅行も無事終了となりました。
福井県って意外と近くてびっくりです。暖かくなったらまた訪れてみたい県ですねー。

2012/12/07

2012 12/6 凛と咲く花

和歌山県九度山にある旧萱野家(大石順教尼の記念館)の館長さんよりお知らせをいただきました。

それは大石順教尼の生涯を題材にした歌があるとの事!

さっとく調べてみますと、ありました!!

日本マーキュリーよりデビューされている歌手で寺脇暁子さんが歌う【凛と咲く花】。

2010年11月17日に発売されているようです!
ご興味のある方は詳しくは下記のURLよりご確認ください。
 






2012/12/02

2012 12/2  わつか市




今回で参加2回目となるわつか市の為に、紀伊半島の反対側より前日の夕方に大阪に到着されました。

で、恒例のおミカン農園の方と一緒に前夜祭を開催!

今回は待ち合わせ場所は動物園前!ということはこれはやっぱ串カツしかないでしょうww

で夜の新世界にむっちゃ久しぶりに行きました^^
新世界よりデンジャラスな香りが無くなったかわりに、串カツ屋さんの健全な客引きのお兄さんがいっぱいです。
で、呑兵衛な私たち3人は2時間飲み放題のお店に突撃!いっぱい飲みました^^

 で・・串カツ屋さんにとっても気になるメニューが。。

ダチョウとワニ。。。。さては天王寺動物園が近いからか。。意味不明。。
で、もちろんオーダー!しなやかな歯ごたえで美味でした(笑)


翌日は9時の開店に間に合うように四天王寺さんへ。
もうすっかりお店が出来上がっておりました(;^ω^)

張り切って売りましょう!・・ところが・・急な寒波でお客様がすごく少なくて試食してくださらない。。

それでもがんばって15時の閉店まで声を出しつづけました!
まさか私が【ミカン売り】になるとはww

まぁ接客業は商売の基本だし。とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
次回1月はわつか市はお休みなので2月3日(日)となります。

2012/11/28

2012 11/27 九度山 中尾果樹園産 富有柿



和歌山県九度山町は私の心の故郷・・。

関ヶ原の戦いで西軍の武士、父の真田昌幸と息子の真田信繁(幸村)と孫の真田 幸昌が暮らした場所、そして再び心が燃え上がり大阪の陣へと立ち上がって行くその場所が真田庵。

 
明治38年6月に起こった堀江六人斬り事件・・唯一生き残った芸妓・妻吉さんは両手を切り落とされてしまった。
その妻吉さんはさまざまな障害を乗り越え大石順教尼となり障害を持つ方々の心の支えとなられました。その順教尼さんの縁の場所が九度山の萱野家

高野山の麓に位置し色んな歴史が紡ぎあげた町は、清流と山々が生み出す自然の恵みと、
九度山に住む方々の情熱が、それは見事な富有柿を生み出しました。
日本一の富有柿の産地の九度山が大好きです。

2012/11/25

2012 11/25 第15回アシスト寄席

早いもので15回となりました。今年最後のアシスト寄席でした。
このアシスト寄席はネタおろしの会で、しかも毎回限定30人!会がおわった後はおいしいスイーツがついている超お得な会で、次回開催は2013年2月17日です。


笑福亭嬌太  色事根問
会を重ねるごとに噺家さんらしくなってきました。がんばってくださいね♪

笑福亭呂好 近日息子
久しぶりのネタ。テンポよくきかせてくださいました!

旭堂南左衛門 赤穂義士伝より武林唯七隆重
講談で初めて聞くお話だとどんなお話なのかどきどきです。まだまだ知らないお話がいっぱい!
浅野内匠頭の家臣の武林は忠実で信用あつい家臣だが、おっちょこちょい。
浅野本家へ行きお手植えのカキツバタの花をもらってくることを命じられるがなんと・・・。
しかも帰りしなに預かったカキツバタを。。。

笑福亭仁嬌 尻餅
年末を迎えた貧乏長屋。近所のミエでお餅つきを偽装するお話。お餅つきのシーンでは会場から拍手が!

 
桂 枝太女 動乱の幸助
出囃子の不調で仁嬌さんからつっこみの声がww。
稽古屋、義太夫の話しをマクラに本題に入りました。

2012/11/18

2012 11/18 秋桜講釈会




コスモスシアターホームページより引用。
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江戸時代から明治にかけて全盛を誇った講談(講釈)。
時代を反映した最もタイムリーな出来事を、威勢のいい張り扇の音と共に、
独特の調子で読み上げる、講釈師達の話芸は人々の心を鷲掴みにしていました。
しかし、時代のうつろいと共にいつのまにか講談を聞く為の場「釈場」が姿を消し、
今では定席の釈場は皆無に等しいまでに・・・。
コスモスシアターでは、この後生に伝え続けなければならない伝統の灯火を消さないよう、
「釈場」の復権を目指し、活動は今年で3年目になります。
http://www.cosmostheater.or.jp/stage/shakuba/
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前説ということで南青さん、南舟さんのお二人が登場!
出前釈場をきっかけとして来られたは残念ながらゼロ。。
ラジオ岸和田がきっかけの方はおひとりとの事。
南舟さんより巧みに言葉を引き出そうとする南青さん!
やっぱ見事です^^

旭堂 南斗 山内一豊とその妻千代
だいぶこなれた感がある南斗さんの講談。
もっともっと面白く!感動的に!スリリングになるように頑張ってくださいね。

旭堂 南青 太閤記・木村の麻風呂敷
講談のお話を書いてしまうとネタバレになるのでぼかして書いてみます。
加藤清正の家来で木村又蔵のお話。病の母を救うためにはお金が必要・・どうやってお金を
手に入れるか・・・加藤清正との出会い・・姉川の戦いに行こうとするがお金がない!
武具一式は手に入ったのか・・・・姉川の戦いに行けたのか・・。
なんとテンポのよいお話なのか!私のお気に入りのお話です。

旭堂 南舟 難波戦記・真田大助の初陣
大助が幸村につかえる猛者を使ってどう戦うか。。。
16歳の若者と父との会話から500人でどうやって5500人と戦うかが見もののお話。


旭堂 南左衛門 赤穂義士外伝・天野屋利兵衛
講談ってやっぱすごい!
目の前で天野屋利兵衛を取り調べる松井河内守の姿が浮かんで見えました。
職務上で辛く当たらねばならない大名の心と、人間味溢れる人柄を見事に描きだされていました。
また、大石内蔵助より見込まれて依頼された義侠心の強い利兵衛さんの苦しい心境も
絡まりあってゆくのが表現されていました。
責められている子供を目前にしてのあの絞り出すような言葉
「天野屋…利兵衛は…男でござる」
 もう涙が止まりませんでした。
あたかも、私の目前で繰り広げられているように映像が感じられました。
やっぱ言葉(ゼリフ)の持つ力と表情、イントネーションそして間・・・。やっぱ旭堂 南左衛門 さんってすごいです!

終演後に、PA席へ行き、今日のような名演はDVDやCDなどの音源にしたら?と問いかけましたが残念ながら著作権の関係でダメとのこと。
それならばユーストリームでも。。。本当にもったいないかぎりです。

2012/11/17

2012 11/17 歴史と人間 人物編 梅田雲浜

一坂先生の冒頭のお話は田中眞紀子文部科学大臣が世間を賑わした大学の認可問題について。
大学を開講するために準備をしてきて最終的に認可をしてもらおうとしたが田中大臣の答えはNO!そんなニュースは記憶に新しく、私もこのNEWSを聞いて「え~!それはあかんやろ!」って言った覚えがあります。しかしながら現状は、大学を立ててから許可を取るという流れの認可は形骸化しているために素通りでOKが出ている・・これは天下り先の拡大という背景がある・・・。という

田中大臣のおかげでこの事実が表面化しさまざまな議論に発展することを私も心より望んでします。あ~・・私ももっと勉強をしておいたらよかったなぁ。。。お仕事が落ち着いたら大学に行きたいなって真剣に考えちゃってます。

さて、今日は梅田雲浜さん。
幕末の歴史が大好きなのに、実は梅田雲浜さんについては〔尊王攘夷思想の持ち主で、安政の大獄で井伊直助さんの弾圧により亡くなられた方〕また松陰先生大好きな私は[幕府の取り調べの時に梅田雲浜との関係を調べられた・・・]とか[松陰さんが尋ねて行ったくらいの思想家]ってくらいの知識でした。

 
梅田 雲浜は文化12年6/7生まれ。この日とまったく同じ日に生まれた方がいる。。それはなんと・・・井伊直助さん。。なんと歴史って皮肉なんでしょう。弾圧する側とされる側。。
矢部家(150石取り)の次男として生まれ源次郎。諱は定明(さだあきら)
よく一坂先生は武家の次男坊、三男坊は大変だと話されます。長男は家督を継ぐことで世に出ることがあるけれど次男以下は努力しないと嫁すらもらえず寄生しないと生きては行けない。。
雲浜の父も50歳で隠居し家督を長男に継いだ。
 
父は雲浜に『自分で食っていけるようになれ』と教育したためか、幼少のころからお利口さんの雲浜さん。
 
15歳で小浜から京都へでて二条堺町にある望楠軒(ぼうなんけん)という塾に入る。
この塾は崎門派(きもんは)で、これは儒教のながれを汲む朱子学+神道+仏教を組み合わせた日本的な学問。この望楠軒に通うためにアルバイトをしながら雲浜さんはがんばった!
 
翌年の1830年(天保元年)は江戸へ。この年に松陰先生が誕生されているので二人の年齢差は15歳。昌平坂学問所 山口菅山に学ぶ。
 
18歳でいったん帰国するもすぐさま京都へ。ここでは医者の書生となることで医学の知識も身に着ける
19歳から26才まで江戸へいきついに山口菅山門下生の第一人者となり梅田姓を名乗ることになる。当時は蛮社の獄の時代で、言論弾圧が行われており高野長英、渡辺崋山などが捕まった時代。
 
27才では熊本藩へ行き様式兵学を学ぶ。
そして再び京都へ。
 
当時の崎門派のTOPの上原甚太郎(立斎)の娘の信子が雲浜の妻となる
 
この後、大津で湖南塾を立ち上げ、生徒には奈良五条出身で天誅組に加わった乾十郎がいる。
 
1843年(天保14年)望楠軒の講首(校長先生)となり、木屋町二条に住むが生活は苦しい。
1850年(嘉永元年)には小浜藩主の酒井忠義(ただよし:京都所司代)に海防の意見書を提出。この内容は日本の海防は小浜が中心となって見本を示さねばならず、役人を非難・・ついには自分を責任者とせよという強烈な内容。
 
この年にはいろんなことが起こっており7月には京都所司代から溜場詰となり10月には高野長英が自殺。11月には井伊直助さんが彦根藩主に。
 
1852年(嘉永2年)意見書が藩政批判ととられてしまい小浜藩をクビになった雲浜さん。比叡山の麓にある 一乗寺村へ転居した。 貧しく・・苦しい暮らしが続きます。。
 
この時のエピソードが芝居に残っているそうで、客をもてなすためにお琴を演奏する事になった信子さん。ところが琴は質屋さんにあるために自分の着ていた着物を質にいれたため襦袢姿で隣の部屋で琴を演奏したあとまた質屋へ。。。
 
そして寺町四条下る 大雲院中の 原隆院 へまた引っ越し。
嘉永7年12月には吉田松陰さんと宮部 鼎蔵さんが長崎の帰りしなに立ち寄ってきた。
この時の印象を松陰先生は兄の梅太郎さんに、「事務に長けた人」として印象を残している。
 
安政元年1月には鳥山新三郎の家で松陰先生や藤田東湖さんらと再会。東湖さんは[奇男子]という印象を残している。また三上是庵さんは[カリスマ性があるがこれが世の中の禍になるかも]という印象をのこしている。
 
そして松陰さんの密航事件では、その志を高く評価し同情を寄せている。
 
 
もともと梅田雲浜さんは尊王主義であり京都の防衛にすごく不安を感じており、京都の防衛にたいする必要性を強く説いていた。その防衛を実現するために水戸藩に打診。
ここでは高橋多一郎さんや斎藤監物(桜田門外の変)、武田 耕雲斎(水戸天狗党党首)と会うが結果はNG!福井藩へも依頼するが相手にされない。。
 
このタイミングでなんと御所で出火・・誰かが守らねばならないと考えた末に、防衛の話を奈良県十津川へ持って行く。この結果、文久3年から明治維新直前まで2000人の郷士が御所の警備を行い毎年5000両をいただくことになった。
 
そして安政元年には大阪天保山沖にロシア船に乗ったプチャーチンがやってきた。
知らせを受けた雲浜はその心境を漢詩に残している。
 
妻臥病牀兒叫飢
挺身直欲拂戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知
 
妻は 病牀(びょうしょう)に 伏(ふ)し、兒(こ)は 飢(うえ)に 叫(な)く
身を挺して直ちに戎夷(じゅうい)を拂(はら)はんと欲(ほっ)す
今朝(こんちょう)死別と生別と唯(ただ)皇天(こうてん)后土(こうど)の知る有り
 
信子さんは労咳で、子供は貧困に苦しんでいた。。。
その家庭を振り切って大阪に向かった。。。。
 
しかし天保山についたときはすでに舟は下田へ・・そして日露和親条約を締結。
 
安政2年 3/2 信子さん死去。。4/26 信子さんの母も死去。。
 
その悲しさから抜け出すために肥後藩のまつだじょうすけの紹介で大和高田のチヨさんが後妻に入る。しかし7月には雲浜は腸チフス。同月子供も亡くなってしまう。
 
やはり信念も必要だが生きてゆくためには金が必要と悟ったのか。。
 
長州藩へ向かう雲浜。この藩は他の藩とは違い皇族を先祖に持っている。
坪井 九右衛門と面会しなんと物産の交易を提案する。
紙、蝋、塩を大阪へ持ってくる←→織物、茶、薬種、木材を長州へ持ってくることに決定!
また萩で尊敬と注目を浴びた雲浜さんは松下村塾の看板を書いたらしい。
 
京都へ帰る雲浜さんについてきたのは赤根 武人さん。また門弟となった月性さんは紀州藩へ海防を説きに行く。あまりの素晴らしさに雲浜に紀州藩士にならないかとオファが入るが断ってしまう。
 
この後、井伊直助さんの条約問題が勃発。皇族との付き合いのあった雲浜さんは色んな意見を出した。そして孝明天皇より戊午の密勅が入る。
事前に情報をキャッチした雲浜さんは、京都所司代に復権していた酒井忠義に所司代を辞めるように話したがNG!
そして安政の大獄が。。。。
梁川 星巌(やながわせいがん)と梅田雲浜が捕縛されたが梁川 星巌はコレラで亡くなる。
 
安政5年12/25に江戸で捕まり翌3/12に取り調べ。そして9/14には小倉藩邸で45歳で亡くなった。毒殺という話もある。
 
尊王攘夷思想を曲げることなく、清貧な生活を行うも貿易をビジネスモデルと定着させた雲浜さん。実は12月に小浜に行く予定があります。あ・・冬の味覚体験ツアーなんですけど。。
せっかくなので梅田雲浜さんの足跡を訪ねてこようと思います。

2012/11/13

2012 11/13 バトンドール

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 先日リフレッシュオープンした阪急百貨店。まだまだ賑わいが続いているようで。

その中でも行列が絶えないバトンドールのうち2種を頂戴しちゃいました(´∀`)

さっそく、おいしい紅茶を入れありがたーく頂戴いたしました!

濃厚なのにしつこくない甘さ♪

おいしかったぁ^^