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2010/10/04

2010 10/4 四天王寺秋季大学余話

第47回四天王寺秋季大学の2日目は終了時には、激しい雨!
会場の五智光院から急ぐ姿が多くみられました。


この会場のすぐ裏手には<極楽浄土の庭>がありそれはキレイなお庭。
おそらくそのお庭を散策され終わった外人さんのの二人連れが雨の中、険しい顔つきで急いで山門をくぐろうとされている矢先に、世間一般で言う、大阪のおばちゃん3人組。

キレイな傘の三本のうち、1本をその外人さんにあげて「じゃあねー!バイバイ!」って去っていかれるところを見かけました。

あぁ。。。今日はとっても良い行いを見させていただいたよ。
とっても清々しい気持ち。
大阪のおばちゃん!なにかと良いイメージがないんだけれど捨てたもんじゃないですよね。

ということで生まれて初めて「四天王寺夕陽丘前」から電車にのり梅田へ向かいHEPナビオへ。



どういういきさつか私が直通エレベーターのボタンの前に立ちボタンを押したりするはめに。
フロアについたら誰一人「ありがとー」の言葉も無く一目散に映画館やお店に向かって歩く若者達ww

あかんやろー。それ!ほんとに恥ずかしい光景でがっくりです。。

まぁ・・その夜は串カツに生ビールをむっちゃ頂いてなんとか帰宅。
夜中は気分が悪くなってまぢで危ないところでしたww

2010/10/03

2010 10/3 ~第47回四天王寺秋季大学~ 2日目



第47回四天王寺秋季大学の2日目です。朝方はなんとか大丈夫でしたが開始時間に近づくにつれて


雨脚が激しくなり、終了間近になる頃には激しい雨となりました。





■第1講目 【現代思想としての仏教】末木 文美士 (国際日本文化研究センター教授 東京大学名誉教授)


福岡市博物館(金印のある博物館)のお話から始まった第1講目。国際日本文化研究センターでは現代の妖怪ブームのその前に妖怪データーベースを作成した。 http://www.nichibun.ac.jp/welcome.htm
1965年以降の現代ではキツネも人を化かす事が無くなり高度成長経済へまっしぐら。その中でもたんなる迷信とは言いきれない事象も数多くのこっている。

認知症の方々が体験する様々な出来事は、その内容を一方的に誤っているとは言いきれないのではないか?
夢で見る世界こそが現実なのでかもしれません。キリスト教的な世界観では科学が解明した範囲が現実であり特に「人の死」は誰もが体験する事ができない事象、つい蓋をしてしまう傾向にある。
この流れを受けてお葬式が簡略化される傾向にある。簡略化されるのはもはやとめる事ができないのかもしれないが亡くなった方との関係や死者との関わりあい方が重要となる。

様々なキーワードを通じて<顕>の世界と<冥>の世界をお話くださいました。
どうしても概念的で哲学的な内容はわかりにくいのですが興味ある事例を随所に用いてくださりわかりやすくお話をくださいました。



■第2講目 【四天王寺の亀井水と日想感】水野 正好(奈良大学名誉教授 大阪府文化財研究センター理事長)

非常に興味あるお話でメモを取るまもなく矢継ぎ早にお話される水野先生のお言葉を追うのに大変でした。
仏教の興りと飛鳥寺~大化の改新~飛鳥からこの難波宮に遷都した背景をお話されたのにいよいよ核心に迫ってゆきます。万葉文化館の建設に伴う裏話しは本当に驚きました。

第35代天皇 皇極天皇(642年-645年)・第37代天皇 斉明天皇(655年-661年)にまつわるお話で飛鳥宮の東の山上には巨大な建造物である離宮があったそう。その建築資材はおびただしい良質の石が使われていてこの石は奈良県の天理より運ばれたらしい。その為には運河を建設していたとのこと。この発掘調査で突如現れた不思議な形の石。この正体は??
なんと四天王寺の亀井にある。

斉明天皇の政治方針は協調政治。蝦夷(東北や北海道)や海外からの客をもてなす事をおこなった天皇は、当時はもちろん滅多に会う事の出来ない位の高い方。その方がこの外交施設としての離宮で客と会うわけだから、会うほうも失礼があってはならない。
一方、四天王寺の亀井水は様々な歌人が歌に詠んでいるくらいの古い昔からあったらしい。
その流れる清らかな水を白玉に喩え、手を編むようにして口をすすぎ手を洗う。今回出土した石は二段構造で亀の形状をしていることからどうやら同じことをしていたのではないか?ということ。

さて、日想感の話しではこの夕陽丘の名前にも残るとおり西にしずむ太陽に極楽浄土を見てたくさんの方々が集まっていたという話し程度の下知識の私。その歴史は奈良の元興寺にいる智蔵に師事していた頼光の突然死からはじまる。
無くなった頼光がその学友であった智光の夢の中にでてきて、極楽浄土は西方のかなたにありそこでの姿を伝えたそう。智光はその様子を絵師にかかせたものが智光曼荼羅とよばれており元興寺に残っている。(この絵には智光・頼光の姿も書かれている)

さてこの極楽浄土の考え方は急速に広がり素晴らしい立地にある當麻寺では東に仁王門があり西門はなく極楽院、奥院の裏にそびえる二上山の果てに太陽が沈んで行く様を多くの人々に説いたそう。さて四天王寺の有名な西門の石の鳥居には<釈迦如来 転法輪処 極楽浄土 東門中心>とかかれています。すなわちこの西門は極楽浄土の東門にあたることから鳥居より西は極楽に続くという意味ですぐ近くにまで迫っている海岸線の水平線のかなたに沈む太陽に極楽を重ねてみせていたのでしょう。
上には上がいるもので、四天王寺の真東にあるお寺はどこでしょう?



東大阪にある往生院で、この往生院では、安助上人が説いたとおり、四天王寺の真ん中にある五重塔の先端に太陽が沈むということでおなじく日想感が盛んであったとのことです。
当時の人々の極楽浄土に対する憧れは大変なもので有名なものに<西念>が上げられます。彼は多数の寺へ寄進をおこない四天王寺の西門から入水するが失敗(1146年)いろは歌などを紙辺に残した穴の中で亡くなったとのこと。

※私の好きな落語の世界では西念さんは「藁人形」「黄金餅」が有名でなんとなくダークなイメージがあります。

2010/10/02

2010 10/2 ~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目

第47回四天王寺秋季大学が開催されました。
会場は四天王寺本坊五智光院。めったに入ることのできない場所でもありとてもこの日を楽しみにしていました。

この五智光院は、大日如来を本尊とする五智如来を安置し、授戒灌頂会を修する道場で、灌頂堂ともいわれます。


また、徳川家代々の位牌を納めており、御霊舎(みたまや)ともいわれました。



五智とは、法界の自性を明確にする智、 鏡の如く法界の万象を顕現する智、諸法の平等を具現する智、 諸法を正当に追求する智、自他の作すべきことを成就せしめる智、とのこと。
会場の北側への立ち入りを禁止されていましたのでその場所にお位牌と五智如来さんがおられたのでしょう。


~第47回四天王寺秋季大学~ 1日目


■第1講目 【お墓まいり】奥田聖應 猊下  (四天王寺官庁)

日本人はやさしく有るべき。今回の参加者250名の中で50才以下はごく少数であった。
。大阪市では様々な犬を分けてくださるが室内犬は非常な人気だが近番犬になるような犬がいない。どうぞペットを飼っている方は精一杯可愛がってあげてください。

1987年に東京都が霊園に対する意識調査をした結果、霊園は死者を偲ぶところのイメージが非常に強い。明治6年~明治30年頃は国策として神道を推奨したことから火葬を禁止し土葬としたことから墓場には怖いイメージがある。現在の墓地は明るいイメージがあるがこれは海外の影響が強い。日本初の公園墓地である東京の多摩霊園はその後の公園墓地の見本となった。この多摩霊園はウィーンの協同墓地を参考にしておりベートーヴェンやモーツゥァルト等の著名な顕彰墓地などが500基あり全体では300万人(カトリック)が眠っている。この墓地は信仰、世界感、門地等の区別がないのでさらに多くの方々の慰霊がある。

一方多摩霊園には東郷平八郎氏、山本五十六氏、古賀峯一氏等の軍人をはじめ多くの著名人の御霊が祀られている。

墓に関する関わり方も時代により移り変わっており、薄葬の詔、大宝の喪葬令を経て都では埋葬する地区を決めたことで平安京の内部には墓地は存在しませんでした。以前は屋敷墓といわれ、自宅の庭や軒先等へ埋葬し常緑樹をうえていたそう。


■第2講目 【巡礼と四天王寺】北川 央 (大阪城天守閣研究副主幹)

北川先生は実は2回目となります。
前回は本年5/8に開催された「大阪の陣を大河ドラマにする会」の発会式の場で「徳川秀頼の権威」に関する話しを賜っています。

さて今回は「西国三十三所巡り」に関するお話で、まず最初に会場で実際に巡った方の挙手では大半。四国霊場八十八巡りも同じように多数の方が終わらせておられたので驚きました。

さて本題の三十三巡りは西国巡礼開祖縁起と呼ばれその起源は、718年に長谷寺の徳道上人が亡くなり冥府の入り口に来た際に閻魔大王に会い、最近地獄にくる者が増えて大変である。日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば功徳があるということを聞き、その内容を現世に伝える為にそれぞれの宝印をあずかって現世に戻ってきた。甦った徳道上人は人々に説いてまわったが広がらなかったために期が熟するのを待つためにこの宝印を中山寺の石棺に納めた。

その270年後、花山法皇は17歳で即位したが19歳で出家。3人の公家を連れて紀州那智山で修行をしていたところ熊野権現が姿を現して徳道上人の話しを知ることになる。中山寺で宝印をさがしだし、河内国石川郡の仏眼上人を先達として世間に西国三十三箇所巡りを広めた。

この由来から、三十三箇所巡りは、地獄へ行かない為の保証を取り付ける行為でその印のためにご朱印をいただくという意味を持ってる。
またこの由来とおりに三十三箇所意外に番外札所として下記が含まれている。

・三田市花山院(菩提寺) ※花山法皇がお祀りしてある
・桜井市 法起院 ※徳道上人の由緒
・山科区 元慶寺 ※花山法皇が出家されたところ。

また三十三箇所巡りの前には四天王寺、そして終わった報告を善光寺に行う事が
風習として残っています。

四天王寺と善光寺の関わりは、善光寺縁起絵巻に書かれておりこのご本尊の善光寺如来は最古の仏像であるといわれています。風習として1/7~15におこなわれる【御印文頂戴】では額にご印文をおしていただくと極楽往生できるとのこと。(落語にもなっています。)


寺門高僧記行尊伝や覚忠伝に三十三箇所巡りが書かれていますが現代と順番が違うことに注意。もちろん四天王寺が入っています。元々寺門とは天台宗の比叡山に本拠を構えるのを山門派と呼ばれ、民寺に構えるのを寺門派とよばれていたことから、三十三箇所巡りは天台宗寺門派が広めたと考えられ、時代を追うごとに現代の順番となっていく。っまた近畿からみて西国は九州等をあらわすが西国と名づけられたのは東国から見てと考えられていると同時に色々な巡礼が成立してくる。

この巡礼はアマチュアであるが中にはプロフェッショナルな巡礼が存在する。様々な事情で巡る事ができない人々の替わりに三十三度行者は笈を背負って巡礼を行う。

中には三十三箇所を1年に3回×11年続けることでその供養等が四天王寺にも見られこれを三十三度行という。河南町の仏眼寺からこの笈が4つみつかっており、住吉で5つ見つかった。実際には昭和30年まではおこなわれていたそう。

さらに上をいく行もあり、六十六部廻国巡礼がありこれは日本最大の巡礼で、写経した法華教を各国々の霊場に一部づつ納める行となる。その文献には四天王寺もリストアップされている。

2010/09/27

2010 9/27天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団で1590年(天正18年)に帰国しています。伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノの4人。


で・・なぜ天正遣欧少年使節がデビュー曲を引っさげて帰ってきたからなのです。。



前回の「シズガタケの七本槍」も大好きでしたww

2010/09/26

2010 9/26 堺探索

堺はほんとうに色々な歴史がつまっている町で、簡単に行けそうでなかなな行けなかった場所に行ってきました。


<天誅組義士上陸遺蹟碑>(写真右)

孝明天皇の攘夷熱にうまく取り入り国事周旋を働いた長州藩。
そのポストを利用し都合よく立ち回ればよかったものの、エスカレートした行動に孝明天皇もさすがに不安になったご様子。そんな中に出た次の勅は「大和行幸の詔」「攘夷親征の群議」。これでは幕府のメンツが丸つぶれ。

大和行幸に先立ち一足早く中山忠光卿(明治天皇の叔父さん)を筆頭とした天誅組は幕府天領の五條を目指した。

一方、孝明天皇が不安を漏らした相手が悪かった。
中川宮朝彦親王が京都守護職会津藩。聞き付けた薩摩藩とが結託し、目に余る長州藩と奸臣久家を御所からの閉めだし作戦をたてて決行された。

そうとは知らない天誅組は、京都方広寺に8/14に集合し川を下り大阪八軒家をへて天保山から堺の旭橋へ。
上陸し堺の栄橋通から西高野街道(310R)を通り、狭山の報恩寺から富田林甲田の水郡善之祐宅。8/17に河内長野の観心寺にお祀りしてある楠公さん参詣をすでに終えて、五條の町で大量殺戮を起こしてしまっている。この五條の町は、幕府の直轄領であり天領、しかも交通の要所であるのに警備が手薄ということで目を付けられてしまい静かな町が一夜にして大変なことになりました。

ところが閉め出し作戦である八月十八日の政変により孤立した天誅組は、天皇が幕府に駆逐せよとの命令を受けた津藩、紀州藩等に鷲家て壊滅させられましまいました。

http://sweet-mikan.blogspot.com/2009/12/20091219.html


<土佐十一烈士記念碑>(写真左)

森鴎外の書いた<堺事件>に詳しく書かれています。

簡単に開設しますと・・・・慶応4年にフランスの領事ら一行は大阪から堺へ入ろうとしたが
堺の警備を担当していた土佐藩に事前通告が無かった為に堺へはいらせるのを阻止。
この同日、この領事らと堺で待ち合わせをしていた士官らはデュプレクス号は堺港にはいり上陸。
通報を受けた警備の土佐藩士らは帰艦を促したが言葉がうまく通じず混乱。
フランス士官らの中に土佐藩の隊旗を倒し、奪おうとした様子が見受けられたために発砲し騒動となった。結果フランス側に数十人の死傷者がでた。
フランス代表のロッシュは日本側へ抗議し犯人の斬首、陳謝や賠償を求めた。


当時の土佐藩藩邸は西区にある土佐稲荷神社。この場所でくじで切腹する20人を決めて翌日、切腹の会場となる堺妙国寺へ移動。定刻の夕暮れに開始・・・以下森鴎外の凄まじい描写を引用します。。

切腹はいよいよ午の刻からと定められた。
***割愛***
切腹の座の背後《うしろ》に控えた。

 幕の外には別に駕籠が二十挺据えてある。これは死骸を載せて宝珠院に運ぶためである。埋葬の前に、死骸は駕籠から大瓶に移されることになっている。
 臨検の席には外国事務総裁|山階宮を始として、外国事務係伊達少将、同東久世少将、細川、浅野両藩の重役等が、南から北へ向いて床几に掛かる。土佐藩の深尾は北から東南に向いてすわる。大目附小南以下目附等は西北から東に向いて並ぶ。フランス公使は銃を持った兵卒二十余人を随えて、正面の西から東に向いてすわる。その他薩摩、長門、因幡、備前等の諸藩からも役人が列席している。

***割愛***

 呼出の役人が「箕浦猪之吉」と読み上げた。寺の内外は水を打ったように鎮った。箕浦は黒羅紗の羽織に小袴を着して、切腹の座に着いた。介錯人馬場は三尺隔てて背後に立った。総裁宮以下の諸官に一礼した箕浦は、世話役の出す白木の四方を引き寄せて、短刀を右手に取った。忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創にさし込んで、大網を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨み付けた。
 馬場が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち上がって、手足の措所に迷った。
 馬場は三度目にようよう箕浦の首を墜》した。


ご興味あるかたはぜひ一読くださいませ。
<青空文庫>
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html


ちなみに妙国寺には、この堺事件の様々な遺品が残っています。


<標柱石>
北波止の突堤近くからの出土品。港を出入りする舟に対し運行上の注意を促す為に
新地方(港の管理に当る役所)が慶応元年に建立したと考えられます。

<船かかり致すまじく、内へ乗り入れ申すべきものなり>

2010/09/23

2010 9/23  やぐら寄席於:法山寺

2010 9/23  やぐら寄席於:法山寺

昨夜深夜未明から明け方にかけて激しい雷雨。どっちかといえば雷がすごくておそらく今まで生きてきた中で一番怖い雷でした。さて開演14時ですが12時半に現地に到着。本堂内はすでにキレイにセッティングされてまだひっそりしている中で
あらら・・雀太さんがすぅぅっと高座に上がられなんか物憂げな表情。
「今朝方はすごぃ雷でしたねー」とお話させていただきますと「そのころはまだ飲んでてん・・」のお話をかわきりに、ご自身の落語に関するいろんなお話をさせていただきました。先日の某寄席でサインをいただいたことをしっかりと覚えていただいているとのこと。噺家さんがお客さんをしっかりおぼえてくださってるとはホントにありがたいことです。
実はこのやぐら寄席に行く前に回転すしでお昼をしようと車で出かけたときにおもいっきり笑福亭生寿さんに遭遇^^。色々とお話をさせていただく機会がありました。

かさねがさね・・ホントにありがたいことで、お客さん冥利に尽きますねーww


桂雀太 天災

いままでのパターンでは導入は<離縁状書いてもらう>ためにやってくる主人公だけど今回のパターンはちょっと変えておられました。現代にわかりやすくするための工夫をされたのかもしれません。
表情も所作もダイナミックでよく通る声をされているので観客をグイグイと天災の世界にひっぱりこんでくださいました。


桂雀三郎 宿替え

やぐら寄席の由来から、京橋時代のおもろい飲み方のお客のお話の段階ですでに大爆笑。本題ではあのおっちょこちょいな主人公の人柄が随所にちりばめられていて前回同様、確実に私たちを笑わせてくださいました。


桂雀喜 蝦蟇の油売り

流暢な啖呵売。また端正なお顔立ちがよくマッチしていて昔懐かしい住吉さんの境内の風景を思い出します。そのあとの泥酔した商人の変貌振りが秀逸でした。


桂雀三郎 天王寺まいり

いまの季節にピッタリの天王寺まいり。
境内の様子の中を描写する江戸鮨屋、竹独楽、亀山のちょん兵衛はん、のぞきからくり(ホトトギス)に中でもお乞食さんの描写はご自身自ら、「一番上手い」といわれていただけのことはあります^^
笑いどころ満載でサゲは定番の<無礙性にはどつけんもんや>。

2010/09/21

2010 9/20 しこく8「恋女房おりょう 龍馬を語る」

しこく8「恋女房おりょう 龍馬を語る」
放送日:2010年 9月20日(月)午後11:30~21日午前0:13
これは四国限定で9/10に放送された番組で、今回BShiで再度放送されました。

番組内容:幕末のヒーロー・坂本龍馬の実像を、妻のおりょうが晩年克明に語っている。女優の富田靖子さんが、おりょうの言葉を読み解きながらふたりの波乱万丈の人生をたどる。

詳細内容:幕末のヒーローとして注目される坂本龍馬。龍馬の魅力はこれまで数多くの小説や映画で語られてきた。しかし龍馬の妻おりょうの存在、そして彼女が晩年、龍馬との愛の日々を語った事実はあまり知られていない。番組では女優・富田靖子さんがゆかりの地の京都・下関・横須賀を旅しながら、おりょうの言葉を朗読。騒然とした時代を大胆に駆け抜けた龍馬と妻のおりょうの人生を、詩的に描いたヒューマン・ドキュメンタリー。

【出演・朗読】富田靖子, 【語り】鈴木省吾
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=101-20100920-10-10468


で・・・なにが言いたいかというと、【わが夫 坂本龍馬 おりょう聞書き】の文章が朗読されているということで、著者は大好きな先生の一坂太郎さんです^^

2010/09/19

2010 9/19 第545回田辺寄席~新・じっくりたっぷりの会-笑福亭恭瓶の段~

第545回田辺寄席・長月席・昼席~新・じっくりたっぷりの会-笑福亭恭瓶の段~

今回は5月以来の田辺寄席の参加となりました。
股ケ池の蓮が元気いっぱいに広がっていて、前に見えるのが「蛇島」。
私が子供のときは蛇島とはつながっていなくて、ジャブジャブと腰近くまで水に浸かりながら渡ったものでした。





笑福亭生寿 牛ほめ

生寿さんご自身の事で、なかなか口にだして褒める事が苦手という件から、料理好きな師匠のお料理に対して上手に褒められなかったということをさらっと話されて本題に入られました。
生寿さんはイキイキと話しをされる表情や口調、所作の変化に富んでいるので、見ている側をぐいぐいと話の世界に引きずり込んで行かれる良さがあります。

笑福亭恭瓶 何考えとんね

初めて聞かせていただいたこのネタ。桂三枝さんのエッセンスがいっぱい入っているネタですね。子供をもつ親であれば一度はぶつかったことがある内容でした。

桂米輔 宿屋仇

はじめてお目にかかった桂米輔さん。プロフィールを調べにサイトへお伺いしましたところ「噺家の手拭」に見入ってしまいました。
さてお話のほうは聞きなれた「宿屋仇」。落ち着いた声量でわりと淡々と話されている印象でした。

桂文太 鷺取り

文太さんの鷺取りは今回で2回目で前回は今年の昭和の日のイベントでした。お話の後半で賑やかに織り込まれる「俄じゃ♪俄じゃ♪」が一番の聞かせどころで内容は前回とおんなじ。それでもつい引き込まれてわらっちゃいますよねー。
またいつも話題になるサゲにはびっくり♪座布団が見台の上に。。

笑福亭恭瓶 宮戸川

あれ?この話し・・どこかで聞いた・・でも思い出せない。。
ちゃんとストーリーも記憶とおり。たぶん「日本の話芸」で聞いたんじゃないかな?
で、マクラで恭瓶さんが言われていた通り、江戸前落語。ホントはスリリングな後編に入っていくらしいんだけれど今回は全編で終了。

たしか初めて聞いた時も時代背景が飲み込めず、半七が2階に上がり行灯に火をともす件で、あ・・明治かな?って・・それと
話しの内容に宮戸川がでてこないのでつい???ってなっちゃいました。