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2013/12/15

2013 12/15 幕末/明治の講談

上方講談に関する文献を発見!

京阪にあっては、特に文化年間に市中の諸所に講釈場が出来、落語もそこへ出演するようになった。京都は四条河原町・四条道場・蛸薬師・華堂等の境内或いは北野社頭などにあり。大坂は難波新地・法善寺・和光寺・天満天神・御霊・座磨・博労稲荷等にあり。昔は生玉の社頭には比類おおくありて賑わしきよし、近世は衰微して平日は寂莫たり。また坊間諸所にあり。
(---守貞漫稿・雑劇下・京坂講釈場---)
勿論、当時といえども辻噺が全く廃絶したわけではないが、名人とよばれ上手と目される落語家が、次々と講釈場に入ることになれば、辻噺などはジリ貧状態に自滅へ向かったであろうことは象象に難しくない。

当時の講釈場の内部は通例次のようになっていた。

正面が講座でとこのまに土間を通す。
昭和6年当時、大阪に唯一一軒残っていた日の出席(西区松島町1の25)の内部が、口座を正面にして客席が三列に割ってあり。客席と客席の間は通路兼履物脱ぎ場であったのも想到できる。守貞漫稿の図は大きい講釈場の内部を示したのであろう。

上方の席では講釈・落語のみであった。当時の落語は「昔ばなし」と「落としばなし」の二大別され、前者は虚実ともに実話のようにはなすものをいい、後者は滑稽をむねとする文字通りの落とし噺をいった。「落としはなし」は専ら前座が演じ、「昔はなし」は真打ちの担当であった。
嘉永三年大阪板「滑稽噺の咲きわけ」上巻の口絵をみると、ギッシリ詰まった客席の正面、高座には鉄瓶をかけた火鉢を中にして左右に噺家が座っている。二人とも机ではなく読書用の見台を前にしているがその見台には、大判の白紙に一方には「昔噺シ」、他方には「滑稽」と書いて貼り下げてある。往古は講釈同様、落語家も本を前にしてしゃべることがあったものと考えてよかろう。
(上方落語の歴史 昭和33年発行 前田勇著)

講談は明治初期、玉龍亭一山・松林伯円らが名高く明治前半期に活躍した。
(幕末維新の大阪 1984年北崎豊二著)


文化年間はさまざまな庶民文化が発展した時期。
たしかに大阪には沢山の講釈場があったことは講釈師がでてくる落語のネタ「くっしゃみ講釈」や「不動坊」からも想像がつくことでしょう。また師匠ではなく先生と呼ばれるのもそのルーツが落語とは違うからだとのこと。
講談ネタが落語に引き継がれたものとしてはどんなネタがあるのでしょう?
簡単に思いつくのは「寛政力士伝」「義士銘々本伝/銘々伝/外伝」「左甚五郎漫遊記」「水戸黄門漫遊記」あたりからの移植か?私の大好きな<木津の勘助>は何に相当するのでしょう?

また、上方落語は今のような見台では無かったようで驚きです!


日の出席を調べていたらどんどんと興味が!松島遊郭と切り離せないお話のようで
これはまたの機会に!

2013/12/09

2013 12/8  第19回アシスト寄席

早いもので第19回となりました。

定刻よりもすこし早めに到着。席はいつもの下手側。


桂三語「狸さい」
はじめてお目にかかる初々しい噺家さん。 2009年ご入門とのこと。
とても元気でフレッシュな声!さすがに元体育会系噺家さんです。
こんな元気な狸賽も久しぶり!将来が楽しみです。


桂枝女太「荒大名の茶の湯」 

先月たまたはNHK【日本の話芸】で落語家さんによるこのネタを聞いたばかり。
その時の感想は「そうかぁ。。講談ネタを落語家さんもされるんだなぁ」と感心。
講談と落語・・似ているスタイルだけど異なる話芸だけにこれだけ違うのかと納得。


旭堂南左衛門「「大石順教尼物語~カナリアの教えに導かれて~」
本邦初演の時からずっと聞かせていただいているこのお話。
1回目は関係者だけ。2回目は講談Funの前。そして今回は講談が初めてのお客様で、しかも落語も楽しみにこられているお客様の前だけに反応がすごく楽しみでした。
途中、観客席を見渡すと、皆が 南左衛門の一挙手を食い入るように見つめておられ
その眼差しは涙さえ浮かべておられる方もおられました。
はやくこのお話の続きの完成が待ち遠しいものです。

笑福亭仁嬌「天王寺詣り」
私の思い入れのあるお話の一つです。
中でも見どころは四天王寺の境内の雰囲気や彼岸の境内の賑やかお店の描写をどうされるです。特にお話の中のお店は現代にはまったく存在しないお店ばかりなところをどう説明されるか。。本当に演者さんによって違いを楽しむことができるお話です。クロの戒名もスッと流された感じでしたがそれでも大ネタ!楽しませていただきました。

さて、会が終わり3人の楽しいお話の時に気になったのが【釈ネタ】。いろんなお話が講談から落語に転じているそうで、私の大好きなお話の【木津の勘助】や【鼓ケ滝】【竹の水仙】は噺家さんが演じられていたのを聞いた覚えがあります。
同じネタでも講談と落語しかり、演者さんが違うと本当に解釈が違ってまた楽しむことができます。

2013/11/27

2013 11/27 マザーテレサの言葉

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
 
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

2013/11/24

2013 11/2 第二十九回柳谷観音・泰聖寺講談会

「第二十九回柳谷観音・泰聖寺講談会
~創作講談特集~中野順哉・有本隆・狐狸窟彦兵衛の世界」


「大石順教尼物語~カナリアの教えに導かれて~ 狐狸窟彦兵衛 作」 旭堂 南左衛門 「藤堂高虎~中野順哉 作」 旭堂 南青 「宮本武蔵~播州三番勝負~有本隆作 」旭堂 南舟

「天才剣士・宮本武蔵見参!~中野順哉 作」 旭堂 南斗 今日の泰聖寺講談会も大入り満員でした。この1年間くらいはずっと満員で 本当に嬉しく参加させていただいています。
さて、今回は創作講談特集ということで宮本武蔵も藤堂高虎もとても面白く 楽しませていただきました。
そして最後を飾られました南左衛門さんの【大石順教尼物語】。
これは 1ヶ月ほど前に九度山の大石順教尼記念館にて身内だけの発表会を経て本日が2回目となります。

この1か月間でなんと素晴らしい講談に仕上がった事か!
より洗練され、磨き上げられ、強弱が付き、そしてフリが加わったおかげで 観客の中からもすすり泣く声や嗚咽が聞えてくるほどでした。

恒例の終演後の茶話会で聞いた話では、今日の参会者のお一人がこの演目の途中に 大石順教尼さんも聞きに来られていたと話されたそうで本当に驚きでした。
健常者だから気が付かない当たり前の幸せは障害者となってはじめて気が付く、 それでも笑顔でたくさんの方々の魂を奮い立たせた大石順教尼さんのお話は 沢山の方々に知ってもらいたい!本当にそんな気持ちでいっぱいです。

会が終わり、一部の方と大阪四天王寺さんにある中川萬次郎さんのお墓へ 参拝に行って、今日の講談のご報告をしてまりました。

2013/11/09

2013 11/9 大収穫祭 in 九度山

毎年恒例の大収穫祭in 九度山へ行ってまいりました。

来年5月には会場に道の駅ができることから、今回の収穫祭は規模が例年になくコンパクトになった分だけその熱気もすごく、その気迫が伝わるものでした。

朝7時過ぎに大阪を出発し9時過ぎには町役場に到着。
今回は最寄りの駐車場よりマイクロバスでの送迎との事で早めに出発したおかげで余裕の会場入りです。

町の角々には揃いの半被を来た方々が立たれ、また案内の方々も多く会場にはその良い意味での手作り感のある運営から、町と行政が力を合わせた素晴らしい祭だと感じました。

会場では沢山のブースで富有柿を販売!また姉妹都市提携の信州上田市のリンゴもお目見えし大人気となっていました。

さて、定刻の10時になるとオープニングセレモニー開始です。
いつもにこやかな笑顔が素敵な岡本町長さんのご挨拶を経て盛大に大収穫祭が開催されました。



さて、九度山に来たらいつもランチは同じお店です。
橋本市にある【やっちょん広場】の2階にある食菜館です。

オープンして間もなくすぐに行き、その素晴らしさに驚いています。



地元で収穫されたお野菜を使ったお料理の相違工夫にお味の良さ!
いずれも驚かされています。

母はB定食のメイン料理 「五目豆腐」を、そして私はA定食のメイン料理 「揚げ里芋のあんかけ」
をいただきました。


ここの週替わりの定食は絶対にハズレはありません!
ぜひ近くまで行かれたら必食してください^^

2013/10/28

2013 10/27 ぬ・抜けた・・・・えぇぇ?

途中の道の駅の駐車場で車の切替しをする為に【D】⇒【R】へ入れ直したその時!!
 
 
シフトレバーの取っ手がスポッと抜けました。
 
「えぇぇ!?」
 
車内に居た方々も絶句!一瞬なにが起きたのかわかりません!
 
とりあえず、抜けた箇所を見ると中が二重になっている鉄の棒、その真ん中のでっぱりを押すと
どうやらギアチェンジはできる模様。
 
そのまま広い駐車場へ移動して同乗いただいていた方に直していただきました(;^ω^)
と言っても中の隠しネジがアホになっているみたいで空回り。。
とりあえず、引っ張らなければ抜けない!ってことからそのまま九度山へ向かいました(笑)
 
まさか、そんなんが抜けるなんてww
 
運転中でなくて不幸中の幸いですねー。
 
昨夜、ディーラーの担当者さんが様子を見に来てくださって、この週末に修理となりそうです。
 

2013/10/27

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式

2013 10/27 旧萱野家~大石順教尼の記念館 又旅会発会式 大石順教尼講談お披露目式
 
 
いまからちょうど3年前に初めて大石順教尼様のお名前を知りました。
そして館長さんのご厚意と、様々なご縁のおかげをもちまして2012/4月開催の【祖母さまのお手々はだるまのお手々】の発刊式、そして今回の講談のお披露目式に参加となりました。
 
大阪より演者の旭堂南衛左門様と脚本を執筆されました狐狸窟彦兵衛さんとともに
九度山町の旧萱野家へ向かいました。今日は台風一過の大阪マラソンの日でもあることから相当経路を吟味したおかげで無事予定の小一時間前に到着し離座敷にて色んなお話を賜りました。
 
様々な試練を超えた大石順教尼様の生涯はあまりに膨大過ぎて1本の講談に収まりきれるはずもなく今回はその発端の部分として創作講談「大石順教尼物語 ~カナリヤの教えに導かれ~」が
無事ご披露されました。その後、萱野館長様・旭堂南衛左門様・狐狸窟彦兵衛様とのトークショーを終え無事に散会となりました。
 
その壮絶な人生の転機を乗り越えることができた暁には自分の強みとする事が出来るものなのでしょうか。
突然に背負った障害を強みに変えることができるその勇気を他の方々へも分け与え、
また心の拠り所となるように生きてこられた順教尼様のその素晴らしさを再認識いたしました。
色んな悩みをもってこの萱野家にお越しになられる方が、元気になって帰って行かれると
九度山の岡本町長さんのお話も本当に実感!
どうぞすこしでも沢山の方にその存在を知っていただきたいと思っています。
 
今はただ、その素晴らしい出会いに感謝です。
 
 
御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 
 
 
旧萱野家(大石順教尼の記念館)
 
 
環翠軒にて in九度山 大石順教尼記念館

2013/10/19

2013 10/19 歴史と人間 久坂玄瑞

私たちが知っている幕末の歴史の糸口の大半は、司馬遼太郎の小説やNHK大河ドラマであることは否めません。
戦前は講談士であり政治家であった伊藤痴遊の功績が大きい。
全国にFunがいてファンクラブに相当する痴遊会が存在。
全国ツアーを実施していた。

井上馨は明治になりいろんな事件があったために公爵になることができなかった、
しかしそれでもその功績を讃えてもらいたいために、静岡県沖津の自宅で明治40年に快気祝いの際に台座を含めると10mくらいの銅像を自分で建立し、その席で伊藤に袖付橋の御難を演じさせたらしい。
さて、今日のテーマは久坂玄瑞。
天保11年生まれ(1840~1864)25石の医者の家に生まれる。
三男坊だが次男は早くして亡くなったために次男として育てられた。長男は久坂玄機といい二十歳年上。北浜にある適塾の塾頭の秀才。
嘉永三年の14歳の時に母が亡くなる。
そして安政元年の15歳の時に玄機と父が亡くなる、そして玄瑞は天涯孤独となってしまう。
その後、藩の寮生活の後、三回忌を済ませた安政3年に九州の遊学へ出発。
途中で宮部鼎蔵を訪ねる。宮部はご存じ松蔭先生が東北視察を行った際のパートナー。
宮部は松蔭に会うことを勧めた。ちょうどその頃は松蔭先生は自宅謹慎中。
そんな時に久坂より鼻息の荒い手紙が松蔭先生に届く。
幕府の行った条約締結は間違っている!そんな使者は斬り殺してしまったらよい!とのこと。
その意見に対して松蔭先生は『議論浮法思慮粗浅』と非常に厳しい内容。

今の言葉に直すと、考えは上っ面で考えが浅すぎ。人にはそれぞれの立場がある、まずその立場から考えること。また実践の伴わない言葉は評価しないし、浮ついた考えの人物は嫌いだ!とのこと。
玄瑞は、論ずるに立場は関係ない!と反論。

松蔭先生はさらに
対抗する。和親条約はすでに締結していおるのだから破ってはいけない。北海道を開拓し琉球を植民地としてアジア各国をひとつにまとめて団結させるという説。
※この内容は韓国併合における現代社会にも問題となっており原文と韓国語訳、そして再度日本語に直すとまったくニュアンスが違っている。
玄瑞はさらに反論!そして松蔭先生は『それなら存分にやってみるがよい』と体をかわす。
もちろん久坂にはできるはずがない。
入塾に至った玄瑞は松蔭先生の思った通りで防長年少中第一流と評価しており、高杉と競わせて実力をつけてゆく。

そして安政4年には松蔭先生の末の娘が嫁となり親戚関係となる。
そして安政6年10月27日に松蔭先生は伝馬町で処刑、小塚原に埋められた。
現在の小伝馬町駅十思町公園にあるお堂が相当、南千住駅の小塚原は20万体以上の遺体が埋まっており現在でも遺骨がでてくる。
文久二年1月には龍馬が訪ねてきて10日間びっしりと話し合いその後、龍馬は脱藩!
武市へあてた手紙には『諸侯や公家もあてにしてはだめだ!我々が力をあわせておこなうんだ!』と記載。しかも『尊藩も大義なれば滅んでもかまわない』と書いたあとに『尊藩も(幣藩も)』と書き足している!
長井雅楽の失脚、久光の状況から長州藩の方針を『奉勅攘夷』で一本化。久坂も賛同している。
その後、松蔭先生の改葬に扮装、ついに桜田門外、坂下門や安政の大獄に関わったものを大赦令を出させることに成功、ただし寺田屋事変の9人のみは例外とした。
復権を果たし、世田谷区の若林の藩のと土地に遺骨を移し松蔭神社となる。これにより松蔭先生は神格化!藩のシンボルとなってゆく。
すぐに父、百合之助の復権、松蔭先生の資料を藩へ提出しその後明倫館の教科書となる、また吉田家の断絶を取り消した。
さらに松蔭先生の弟子たちは全員位が上がった!
そんな時に長州藩に事件が起こる。
攘夷の実行で下関で砲撃~七卿落ちへつながってゆく。
元治元年2月 周防上関の義勇隊が、田布施沖に停泊中の薩摩の商船を焼き払い船長の大谷仲之進を殺してしまう事件が起こる。
その月末に大阪南御堂さんの門前に、この大谷の生首と二人の人物の切腹した死体があった。
その二人は山本誠一郎と水井精一。そして斬奸状には『大谷は外国と貿易を行っており綿や油を販売し利潤をあげていた』とかかれている。
その数日後、義勇隊の隊長が上関で切腹を していたという事件があった。
この事件により長州の株が大いに上がった。薩摩に天誅を喰らわしたのだから長州は庶民を助けたヒーロー扱いとなる。
それにより山本、水井と隊長の高橋は上関三士と呼ばれ靖国神社に合祀されている。
さて、この事件には大いなる裏事情があった。
山本誠一郎の著「帰正弁」によると24歳で全国を視察、国防に興味があったが下関で楼閣にはまってしまい事件をおこしたあげくに2年近く禁固、外国船を攻撃した久坂に共鳴下とのこと。
久坂が目を付けて、山本、水井に大谷の首を大阪へ運ぶように依頼、その後、二人を無理矢理切腹させたらしい。 薩摩商船を襲ったら当然長州と薩摩は一触即発。その回避と地に落ちた評判をあげる奇策であったに違いない。

久坂元瑞は恐るべし頭脳明察で策士であったのでしょう。